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【連載小説】「こかげ」第14回(全22回)

 月が変わると、私の次の新人が入ってきた。直は私の指導から離れ、新人の育成に時間を割くようになった。私もまだ新人だったけれど、いつまでもそうは言っていられなかった。分からないことがあれば他の職員が教えてくれたし、私自身が新人からいろいろとたずねられることもあった。


「機械浴の時は……」
 フロアのどこかから直の声が漏れ聞こえてくると、物理的な距離をひとり黙って感じるしかなかった。直と仕事中に話す時間が格段に減っている。他の職員でもいいことをわざわざ直に話しかける理由はないし、必要なことでもまわりの目が気になって話しづらかった。


「そうだ……」
 メモ帳を1ページ破ると、今日もおつかれさま、と書いて下駄箱で直の靴に入れた。私たちは電話をしなかった。直の帰りがたいてい遅いことを知っている私は、自分からかけることをしなかった。直はもともと電話が苦手で、自分からかけてはこなかった。そうやって私たちは、お互いに電話をかけなかった。


「あっ」
 翌朝、私の靴にふたつ折りの紙きれが入っていた。
『さっちゃん、おはよう。今日も笑顔で』
 直の字だった。意外と丸い文字だった。私はそれを、休憩時間やトイレに入っている時に何度も開いては眺めた。あの夜の告白に比べたら、ただの挨拶だった。それでも私はその文字を見つめるたびに、胸がぎゅう、と締めつけられた。


『直、おつかれさま。今日も笑顔でがんばったよ』
 お互いの靴はいつしかポストの役割を果たしていた。話すことができなくても、そばにいられなくても、直からの手紙が入っているとそれだけで私の心は躍った。主任の直は忙しい。新人の育成に限らない膨大な仕事を持っていることを私が知ったのは、ずいぶん後のことだった。


『さっちゃん、おつかれさま。休みの日はほとんど寝てる。もうくたくただよ』
 外で会うこともなくなっていた。噂が気になったし、あまりに疲れている直を見ていると会いたいと言うことができなかった。
『直、今日も大変そうだったね。あまり無理しすぎないでね』
『さっちゃん、ありがとう。さっちゃんもがんばりすぎるなよ』


 手紙のやり取りは毎日続いた。どんなに忙しくても、直は欠かさず手紙を書いてくれた。直接話すことはほとんどなくなったのに、話していないという感覚はなかった。あの日までは。
「あれっ?」
 出勤すると、いつも必ず入っている手紙がなかった。手紙は夜勤明けと遅番の日が昼で、それ以外は朝に入っている。


『直、毎日本当におつかれさま。よっぽど大変なんだと思う。手紙は書ける時に書いてくれたら私はそれでじゅうぶん嬉しいよ』
『さっちゃん、何言ってるの。俺はこの手紙だけはぜったい書くよ。今までも、これからも』
 誰かに盗まれたことに気づいた瞬間だった。


「あーあ……」
 誰が盗んだのか、だいたい見当はつく。悔しいことに追究ができなかった。手紙のやり取りを自分から暴露することになる。
「もう、信じられないよ」
 よその家のポストから勝手に手紙を持っていく人などいるだろうか。たとえ挨拶みたいな言葉でも、自分に届くべき言葉を誰かに奪われたことはあまりに私を悲しませた。


「あーあ」
 家に着くと玄関に鞄を放り投げ、私はベッドになだれ込んだ。食欲がない。このまま寝ちゃおうかな、と独りごちた時だった。
「こんな時間に」
 電話が鳴っている。お母さんかな、と言いながら受話器を取る。
『さっちゃん?』
 直の声だった。


「直! 直、どうしたの」
 嬉しさに声が弾む。
『今日は手紙ちゃんと入ってた?』
「うん、入ってたよ。忙しいのにありがとね」
『そっか。また盗まれたりしたかと思って』
「うん……」
 確かに直が心配する通り、このまま手紙を続けていればまたきっと盗まれる。


「しばらく、やめてみようか」
 口に出してから、すぐに取り消したくなる。直が言った。
「俺たち、別に悪いことをしてるわけじゃない。でも俺、さっちゃんが嫌な気持ちになることはしたくない。盗まれるかもしれないと思いながら書いてたら、誰のために書いてるのか分からなくなった」
 その通りだった。書けば、同時に盗まれる不安がつきまとう。仕事をしていても、この中の誰かが犯人だと思わなければならなくなる。


「他の方法を考えよう」
「他の方法?」
「うん。月に一度、ふたりで遠くに行く日を作ろうか」
「そんなことできるの」
「できるのか、じゃなくて、するの。休みを合わせよう」
「そんなこと……」
 するよ、と直が言う。どうかな、と私が言う。もうすでに、諦めている自分がいた。期待するのが怖かったのかもしれない。予感は的中するためにある。それでも、今こうして直が約束しようとしてくれていることは現実だった。


「直、ありがとね。楽しみにしてる」
「そうそう、素直でよろしい。待ってな」
「うん。待つのは得意」
「よし」
 どこ行こうかあ、やべえ、楽しみで眠れなくなる、と直の声が上ずった。瞼を閉じ、全身を耳にする。
「来月の第3週あたりにしようか。約束な」
「うん。約束」
 約束な、と言った直の声を、忘れないように、忘れないようにと、私は繰り返し脳内再生した。


 それからというもの、心臓が打楽器になったような胸の鼓動が始まった。
    約束した時の電話をきった瞬間から胸の真ん中でそれは鳴り始め、前日の夜にはもう近所迷惑になるかと思うほどに高鳴っていた。あれほどアルバイトの帰りにさんざん語り合い、仕事の帰りにはミーティングに連れ出されることもあったのに、どうして今になってこんなに緊張するのか不思議だった。


「これでいいかな」
 どれを着ていくかさんざん迷い、結局当日の朝に直感で決めた。私服で会うなんて珍しくもないのに、たった1枚のスカートを選ぶこともままならない。直が私を、“女の子”にしてしまった。よく考えてみたら、ふたりでまともに出かけるなんて今日が初めてだった。


「ちょっと早いかな」
 約束の時間までにはまだ余裕があった。朝のニュース番組を眺めながら、画面の角の時刻ばかりが気になる。
「ん?」
 電話が鳴っている。お母さんかな。それとも。
「もしもし」
『あ、さっちゃん?』
 直の声だった。


「うん。おはよう」
『おはよう』
「どうしたの」
『ごめん。今日、行かれなくなった』
 世界から音が消えた。予感は、的中するためにある。

私の作品と出逢ってくださった方が、自分の世界をより愛しく感じられますように。