蜘蛛女

私はその日、早朝から顧客のもとに向かっていた。

自宅から遠い場所なので、私は眠い目をこすって早起きをし、まだ暗い早朝から家を出てその電車に乗った。

普段利用している電車ではないため、乗る時間や乗継も前日に調べておき、準備は万全だった。

そのはずだった。

それが、こんなことになろうとは……。

その路線は幹線で複線になっているため、普段は滅多に止まることがなかった。

その日に限って、それも目的地までの途中駅で全線不通となったのは、まさに不運だった。

そもそも早朝から下り線に乗車する客はほとんどおらず、車両の中には私一人きりだった。

とある駅で電車が急停車すると、全く状況がわからないまま車内で無為な時が過ぎて行った。

やがて車掌からアナウンスがあり、電車がしばらくの間、完全に止まる見通しであることが告げられた。

私の中に焦りが生じてきた。

駅を出てタクシーで現地に向かえばまだ間に合う時間だろう。

私は焦る気持ちを抑えながら、早足で列車を降り改札口に向かった。

線路を挟んだ二つのホームには人影もなく、爽やかな早朝の青空が広がり、遠くで小鳥が鳴いていた。

偶然下車することになったそこは田舎駅で、駅前にもほとんど人影はなかった。

万が一何かあったときのため、携帯電話にはお客様の電話番号を登録してあったし、カバンの中にはお客様の名刺も持っていた。

駅前からタクシーに乗っていけばまだ十分に間に合うだろう。

私はタクシーを探したが、タクシー寄せはあるものの車の姿は一台もなかった。

仕方なく私は、駅前のロータリーから伸びている一本きりの道路へと歩き出した。

しばらく進んでも、タクシーはおろか、車の姿すら一台も見られない。

電車が止まってから、車中で20分ほどは費やしてしまったし、改札口を出てタクシーを探し始めて既に20分ほどになる。

余裕をみて早めに家を出た分の猶予は1時間。車より電車の方が早いだろうけれど、あと10分ほどもタクシーが見つからなければ完全に遅刻だった。

私は焦った。

今日の訪問は大切な商談なのだ。

お客様を怒らせでもしたら大変だ。

遅れそうなことをせめて電話しておこうと、私は携帯電話とお客様の名刺を取り出そうとカバンを探った。

しかし、昨夜と今朝、しっかりとその存在を確かめたはずのお客様の名刺が、どこを探しても見つからなかった。

そのうえ最悪なことに、携帯電話の充電がなくなっていた。

電源ボタンを何度押しても画面は死んだままで、便利な通信機器であるはずの携帯電話は、ただの物質の塊になっていた。

駅を離れてだいぶ歩いてきてしまったので公衆電話もない。

私はお客様に電話することをあきらめた。

そのとき、角を曲がった先の方に1台の車が停まっているのが見えた。

目を凝らすと、車体には文字が書かれており、その車はタクシーだとわかった。

ありがたい。

私は駆け寄ると、転がり込むように車内に乗り込み、運転手に行き先を告げた。

運転手は女性だった。

妙に無表情で愛想というものがなかった。

急いでくれと頼んでも反応がなく、淡々と車を発進させた。

ここから目的地までは1時間以内で着くだろう。

なんとかぎりぎりで間に合いそうだった。

安堵した私は、お客様のところに着いてから話す内容のシミュレーションを始めた。

説明する予定の資料を取り出し、どこをどんなふうに説明するか想像しながらメモを書き込んでいった。

ふと気がつくと、辺りは高層ビルが立ち並ぶ景色に変わっていた。

目的地は郊外に開けた工場地帯のはずで、高層ビルがあるはずはなかった。

私は運転手に詰め寄った。

ここはどこだ、道がまちがっているんじゃないか。

しかし、運転手は無言で答えない。

おい、君。ここはどこなんだ。

それでも運転手は振り返りも、目を上げることさえしない。

私はそら恐ろしくなってきた。

この女は何かおかしい。

今は何時なんだ。咄嗟に私はタクシー内の時計を探したが、時計はなかった。

腕時計を見ようとしたが、つけていたはずの腕時計はなくなっていた。

金を払うからここで降ろしてくれ。

私は恐怖を感じながら、そう運転手の女に呼びかけた。

そしてカバンの中の財布を探したが、財布は見当たらなかった。

私はカバンの中身を膝の上に出して、財布を探した。しかし、財布はなかった。

私はひやりとした。どこかで落としたのだろうか。

そのとき、運転手が口を開いた。

もうじき着きますよ。

そしてバックミラーを上目遣いで見ると、気味悪くにんまりと笑った。

車が停車した場所は、やはり目指すお客様の会社の工場ではなかった。

まったく見覚えのない、ガラス張りのビルがそびえ立っていた。

目的地とここがどのくらい離れているのかわからないが、アポイントに間に合うことは絶望的だった。

車を停車させると、運転手の女は車から降り、素早く私のドア側に回ってドアを開けた。

私は身構えた。

すると女は、私の肩を掴んで私を車から引っ張り出そうとした。

私の心臓は恐怖のあまり早鐘のように打った。

さあ、まいりましょう。

女はそう言うと、私のことを引き立てるようにしてガラス張りの建物の入口へと向かうのだった。

そのとき、私はカバンを車の中に置き忘れたことに気づいた。

カバンを忘れた、カバンを取りに戻らせてくれ。

女は振り切れる程度の力で私を押さえつけていたので、なんとか逃れることができた。

私は転がるように車の方へと駆け戻り、開け放したままの後部ドアから車内を探った。

しかし、カバンは一瞬の間に消えてなくなっていた。

私はさらに焦り、床や車の前の座席を探したが、やはりカバンは影も形もなかった。

むだなものはいらないのですよ。

女はゆっくりと言って、三日月のように目を細めて笑った。

警察に電話だ。携帯電話はどこだ。

いや、携帯電話は電源が切れていたのだ。

それでも、もしかしたら一瞬ならつながるかもしれない。

そう思った私は、いつも携帯電話を入れているポケットを探ったが、そこに携帯電話はなかった。

それどころか、気づくと私はスーツの上着も、ネクタイも身につけていなかった。

ズボンからシャツがだらしなくはみ出ているのは、ベルトがなくなっているからだった。

再び女に絡め取られるようにして、建物に連れ込まれた。

建物の中は吹き抜けになっていて、すっかり上りきった太陽の光が壁面のガラス全体から差し込んで、明るかった。

外はまだ寒かったが、建物の中は温室のように暖かく、少し湿気があった。

と、そのとき、女が壁に飛びつくと、そこから私に向かって糸を吐いた。

私はねばつく糸に絡みとられて、吹き抜けの空間に吊り上げられた。

その後のことはあまり覚えていない。

糸にぶら下げられた状態のまま、糸の弾力を使って上下に激しく揺さぶられ、メガネやズボンや靴、靴下が、次々と振り落とされるのを感じた。

むだなものがなくなりましたね。

三日月のような目と口でにんまり笑うと、女の影は薄くなり、そして私の目の前から消えた。

ここはどこなのだろう。

私はどこに向かってよいのかさっぱりわからなかった。

商談のことも、仕事のことも、私の生活や持ち物のことも、すべてが遠く感じられた。

もう終わりだ。


しかし、私は生きている。

色々なものをそぎ落とされてなお、生きている。

こうして生きていることだけが重要なことで、携帯電話やスーツや仕事上の義務といったものは、女の言うように、むだなものなのかもしれない。

私はその思いつきに不思議な力を得て、南中に向けて輝きを増す太陽に向かって歩き始めた。

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