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暗闇の中で見えてくるもの ~STU48『暗闇』~

STU48のデビューシングルとなりますこの曲ですけれども、アイドルグループの楽曲のタイトルとしては、らしからぬものがありますよね。
とはいえ、この前年にNGT48もデビューシングルをリリースしていて、そのカップリング曲の中にも「暗闇求む」というタイトルの楽曲があるのですよね。
ちなみに、48グループの数多あまたある楽曲の中で、曲名に「暗闇」という言葉が入っているのは、今のところこの2曲だけです。

まずはひとまず曲名で話題をさらおうという意図もあったのでしょう。
また、国内の48グループも6つ目となりますので、他の姉妹グループとの色の違いというのも意識していたのでしょう。
実際のところ、その後に続くSTUの楽曲は、あまりアイドルっぽくない曲が多いですよね。
ただそれが、自分が思い描いていたアイドル像とは違うということで、メンバーたちの中には戸惑いを隠せない人も何人かいたようではありましたけれども……。

曲名となっている「暗闇」が意味するのは、心の中のもやもや感といったところでしょうか。
子供から大人へと成長する過程における青春期に特有の心の状態。
子供の感性と大人の理性とが心の中で激しくぶつかり合っている。
その葛藤の狭間でもがいているさまを「暗闇」と表現しているのではありませんかね。

1番Aメロ前半

太陽は水平線の彼方を目指して
R を描き ただ落下する夕暮れに 
何かをやり残してるような悔いはないのか?
僕はまだ帰りたくない

水平線を境に、空に存在して世界を照らしている状態から、海の中に没してその姿をくらます状態へと移り変わっていこうとしていることに対して、太陽には何かやり残していることはないのだろうか、それで何も悔いはないのだろうかと、夕暮れを眺めながらこの主人公は、ふと思ったのでしょう。
そして、それを子供から大人へと移り変わっていこうとしている自分自身に照らし合わせて、自分は大人になる前にまだやりたいことがたくさんあるから、まだまだ大人にはなりたくない。
ここの歌詞では、そういうことを言っているのではありませんかね。

1番Aメロ後半

やりたいこと やりたくないこと やらされながら
理想と現実がごっちゃになっている日々
あの空とこの海がほら 分かれているように
交わらないものがあるってことさ

子供であろうと大人であろうと、やりたいこともやりたくないこともたくさんありますよね。
ただ、成長していくにつれて、何かをやることに対する姿勢も変わっていくことになるわけです。
幼いころであれば、やりたくないことは駄々をこねてやらずに済ますこともできたかもしれませんけれども、大人になるにつれて責任が伴ってきて、他者からもその責任を負うことを要求されるようになりますし、自分自身でもその責任を自覚するようになってくる。
本当は、やりたいことや楽しいことだけをひたすらやっていたいのだけれども、現実には、やりたくないことや楽しくないことでもやらなければならないことがたくさんあって、それは責任をもってやることになる。
そこにはやはり葛藤が生じるわけです。
まあ、ストレスが溜まるひとつの要因でもありますよね……。

こうであったら良いのにと考えている理想と、目の前にある現実とのギャップにたじろいでしまう。
頭の中では、その理想と現実がごちゃ混ぜになって、プチパニックでも起こしている状態なのでしょうかね。
けれども、どうあがいても理想は決して現実化することはないわけです。
なぜなら、理想とは永遠の実現不可能性のことなのですから。
ただ、実現できなくとも、限りなく理想に近づいていくことはできるわけで、人間のそうした営為こそがとても尊いことなのですよね。

いずれにせよ、この主人公は、その理想と現実の狭間で、もがき苦しんでいるわけです。

1番Bメロ

都会で暮らす
友は窓しか見ていないらしい
やるせない孤独の時
泣き言 誰に言えばいい?

進学によるものなのか、あるいは就職によるものなのか、故郷を離れて都会に出ていった友人は、都会の空気に馴染めずに、孤独感にさいなまれている。
彼は一体誰に泣き言を言えば良いのか、誰に愚痴をこぼせば良いのか……。
ひるがえって自分は故郷に留まっているけれども、では、泣き言を言える相手、愚痴をこぼせる相手はいるのか?
実は自分も孤独なのではないかと、この主人公は思ったのでしょうかね。

1サビ

夜よ 僕を詩人にするな
綺麗事では終わりたくない
生きることに傷つきうろたえて
無様でいたい
次の朝がやって来るまでに
今 持ってるものは捨てよう
丸裸になって気づくだろう
暗闇のその中で
目を凝らしてみれば
何かが見えて来る

石川啄木の歌集『一握の砂』の中に、

一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと

石川啄木『一握の砂』(1910年)

という詩(短歌)があるのですけれども、これなどはつまり、何か嫌な思いをさせられた相手に対して、「アイツらみんな死ねばいいのに」と言っているわけで、今で言うならば、SNSに書き込まれた暴言ですよね。
ですから、実際の詩人の言葉は、決してきれいごとばかりではなく、愚痴や泣き言、恨みつらみや、それこそ暴言や皮肉など、心の内にあるドロドロしたものを吐き出したような、かなり生々しいものも少なくないのですよね。

とは言え、ここでは、一般の人が抱いている感傷的な美しい言葉を書き連ねる人、というちょっとステレオタイプなイメージで「詩人」というものを捉えているわけです。
そうした「詩人」によって繰り出されるような美辞麗句によって飾られた「生」など生きたくはない。
もっと泥臭く現実の「生」を生きていきたい。
そういうことでしょうかね。

続いて、「次の朝がやって来るまでに」の「次の朝」というのは、心の中の葛藤状態である「暗闇」を抜け出した後ということではありませんかね。
さらに、「次の」という表現がなされていることから、その心の中の葛藤状態である「暗闇」は、繰り返し訪れるということになるわけです。
そうした内省モードと、あれこれ余計なことは考えずに行動しているときの活動モードとがバイオリズムに従って交互に繰り返し現れるということなのでしょう。

そして、「今 持ってるもの」とは、見栄やプライドや虚勢や対抗心など、心にまとって自分を大きく見せたり飾り立てたり、あるいは偽ったりしているもののことなのではありませんかね。
そうしたものによって生身の自分を隠しているわけですけれども、それらを全部取り払ってみることで、虚心坦懐になって本当の心の内が見えてくるということなのでしょう。

2番Aメロ前半

星たちは自分が輝いているその位置と
宇宙の涯で誰かに見られてる自意識
どこかで消えて行った光を知っているのか?
僕は始まってもいない

「星たち」というのは、何がしかの成功を収めるなどして人生が輝いている者たちの喩えなのでしょう。
おそらくは、この主人公と同世代の人たちのことではありませんかね。

彼らは、さぞかし得意満面になっていることだろう。
けれども、そうした成功者の陰には、上手くいかなくて光り輝く機会を失ったたくさんの人たちがいることを、彼らはわかっているのだろうか。
といったところでしょうか。
ここには、主人公の羨望せんぼう嫉妬しっとがない交ぜになった複雑な気持ちが表れているのではありませんかね。

そして、「僕は始まってもいない」。
成功した者もいれば、上手くいかなかった者もいる。
けれども自分は、そもそも何も始めていないし何もしていない。
戦いの舞台に上がることすらしていないではないか。
夜空に輝く星を眺めながら、そんなふうにこの主人公は思ったのでしょう。

2番Aメロ後半

欲しいものいらないものも見境つかなくて
手を伸ばしてしまう若さはいつも強欲だ
大人とはその分別があることと言うなら
永遠に大人になんかなるものか

「欲しい」の対義語は「欲しくない」であり、「いらない」つまり「不要」の対義語は「いる」つまり「必要」ということになりますよね。
ですから、ここの歌詞で言っているのは、大人であれば、欲しいか欲しくないかよりも必要か不要かが優先されて、欲しいと思っても不要と判断したものには手を出さないけれども、子供は、必要か不要かよりも欲しいか欲しくないかが優先されて、不要だけれども欲しいと思ったものには手を出してしまうということなのでしょう。
ある意味、子供の素直さを言い表しているとも言えるのでしょうけれども……。
それを指して「強欲」と表現するのは、少々言葉が強すぎるような気もしますよね。

「強欲」というと、欲望がギラギラしていて、なにやらネガティブな印象を受けるわけですけれども、あえてこういった強いネガティブな言葉を用いているというのは、インパクトを持たせるためのレトリックという面もあるのでしょうけれども、この主人公がそうした無分別さに対して、どこかで否定的な気持ちも持っているということを表しているのではありませんかね。
少なくとも、主人公くらいの年頃(おそらくハイティーンくらいの年齢)のそうした無分別さは、少々子供じみているようにも思えますし、必ずしも肯定できるものではないという自覚を主人公自身が持っていても不思議ではありませんよね。

だからといって、大人の分別臭さを全面的に肯定しているわけでもない。
大人の理性には正しいことのほうが多いけれども、そういった事の良し悪しではなく、何でも計算高く合理的に判断してしまうというそのことに対して、心の内なる子供の感性が嫌悪感を抱いているということなのでしょう。

そして、「永遠に大人になんかなるものか」と言いながらも、もっと大人にならなければいけないのだということを、大人の理性として、この主人公は本当のところは自覚しているのではありませんかね。
だからこそ、葛藤もするわけです。

2番Bメロ

故郷 捨てて
僕は絶対暮らせないだろう
水平線見えなければ
今いる場所がわからない

もちろん、郷土愛からくる気持ちの表れでもあるのでしょう。
けれども、それ以上に、この主人公の不甲斐なさと言いましょうか、臆病さを表しているようにも思えるのですよね。

生まれ育った故郷、見慣れた風景。
幼いころより慣れ親しんだ街並みや人々。
何をするにしても勝手知ったる場所で、戸惑うこともない。
その安心感や居心地の良さでいったら、これ以上の場所はないのかもしれません。
けれども、そんなある意味ぬるま湯のような場所に留まっていて良いのだろうかという気持ちが、この主人公の心の中にはあるわけです。
この場所から離れること、自分が変わることへの恐れの気持ちと、このままで良いのかという焦りの気持ちが葛藤し始める。

2サビ

夜よ 僕に歌わせるなよ
想像だけの愛の世界は
都合のいい思いやりばかりで
説得力がない
どうせならばもっと生々しく
お互いの正体を明かそう
取り繕っていても虚しいよ
暗闇のその中で
聴こえて来るのは
希望の足音か

1サビの「詩人」に対する見方もそうですけれども、この2サビでの「歌」に対する見方も、少々偏っているように思うのですよね。
「詩人」の綴る詩にせよ、「歌」の歌詞にせよ、決してきれいごとばかりではなく、相当に生々しい内容のものもたくさんあるわけです。
それは、秋元Pも重々承知しているはず。
なにせ、48グループの楽曲の中にも、きれいごとだけでは片づけられないようなシビアな内容や生々しい内容の歌詞もあるわけですから。

にもかかわらず、「詩」や「歌」に対してこのような見方をあえてさせているということは、歌詞の展開の都合上そうしているのか、それとも、この主人公の世界の捉え方の狭さを物語っているのか……。
たしかに、この主人公は、慣れ親しんだ生まれ故郷に留まっていて、外の世界を知らないわけです。
ですから、今はまだ世界の捉え方が狭い人という設定でも理解はできますよね。
まさか、それを見越して秋元Pは、あえてこのような詞を書いたのでしょうかね?
それはまあちょっと深読みし過ぎているような気もしますけれども……。

いずれにせよ、この主人公は、「詩」にしても「歌」にしても、きれいごとばかりで説得力がないと感じたわけです。
そんな説得力のないものに頼るのではなく、生々しい現実と真正面から対峙たいじするべきなのではないかと思ったのでしょう。
思考の展開の仕方はともかくとして、このような考えに至ったということは殊勝なことですし、そのことによって見えてくるものもあるわけです。

「暗闇のその中で 聴こえて来るのは 希望の足音か」というその足音は、静寂の中でかろうじて聞き取ることのできるほどの小さな音だったのでしょう。
その音は、微かに感じ取ることのできる希望の兆しを表しているのではありませんかね。

Cメロ

防波堤の上に立って
僕は叫んだ
波の音よりも大きく
自分へと届くように

「よっしゃー!」だか「しゃんなろー!」だか「やってやるぜ!」だかわかりませんけれども、前向きな気持ちになって歩き出そうとしている主人公が、自分自身を鼓舞するために雄叫おたけびを上げているといったところでしょうか。

落ちサビからラスサビにかけての歌詞は1サビの歌詞と同じ内容ですね。

この主人公は、「暗闇」の中で真摯しんしに自分自身と向き合ってきました。
そして、そこで希望の光を見出すわけです。
それは、暗闇の中だからこそ見出すことのできた微かな光。
その希望の光を胸に、前に向かって歩き出していくことを決意したわけです。

引用:秋元康 作詞, STU48 「暗闇」(2018年)


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