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何かを支払ったらそれに見合うものが出てこないと嫌じゃないですか

院試の勉強に集中していないので、ここ最近母親と毎日喧嘩をしている。
母親からしたら私はイライラする娘だろう。自分でもそう思う。でも化学や物理に興味が持てないのだから致し方ない。
万が一院試に落ちたら私は後悔するだろうか。あまりしない様な気がする。

去年まで、大学院に進学して研究をするというのが既定路線だと信じ込んでいた。否、多分嘘だ。
「みんながそうするから、私もそうすべきだと考えていた」
という方が近いかもしれない。
ただ、どうやら私は大学院に進学してまで勉強をしたいという訳ではないのではないかという事に気づいてしまった。多忙な研究室生活で暫く会えないうちに、
「院試やばいね」
「どうしよう」
などと話していた仲の良い友人が院試の受験を断念していた事も影響しているのかもしれない。一時の気の迷いかもしれない。そうだと思いたい。でもどうやらそうでもないらしい。

というよりそもそも大学に進学した事自体が間違いだったのではないか。親に学費を払わせてモラトリアムを引き延ばしただけなのではないかという事を最近よく考える。多分大学に進学したのは大卒という肩書きが欲しかったからだし、大学院に進もうとしたのもきっとモラトリアムを引き延ばしたいからだ。モラトリアムを引き延ばそうと選択を繰り返すうちに、少しずつ逃げ場がなくなっていく。私は少しずつ追い込まれている。
大卒という肩書きが欲しかっただけならわざわざ苦手な理系を選ばなくとも良かった筈だ。浪人をしなくとも良かった筈だ。私は何をしたくて大学に入ったんだっけ。

医療への道に興味を失くしたという事実を言えないままズルズルここまで来てしまった。もっと早い段階で言っていればまだ修正可能だったのだろうか。もう22歳だ。並の人間ならもう働いていて、一人前の大人だ。なのに私は未だに将来に思い悩んでいる。子供みたいだ。もう迷って良い時期はとっくに過ぎた筈なのに。

アイドルグループNEWSのメンバーである慶ちゃんこと小山慶一郎が母校の明治大学に寄せた言葉で
「興味のあるものにしがみつけ!」
というものがある。私は聡明な彼の言葉を信じた。私は彼の言葉に従って、一番興味のあった研究室を選び、上手い事配属された。
ただ、私は本当はその研究に興味はないのだと思う。何なら理系の勉強自体に多分興味がない。では他にやりたい事があるのかと言われると、何もない。しがみつけるものを何も持っていない。もっと悩めるうちに探しておかなかった所為だ。仮に今の道をはみ出したとして、私には何もない。堕落する以外に道はなく、待っているのは親の脛を齧って自堕落に過ごすだけのニート生活だ。

といった話を掻い摘んで父に話したら、
「まあとりあえず院試の勉強頑張ってさ、落ちたらその時考えたら」
「今は企業は新卒を求めてるんだよ、今から就活しても絶対何処かは入れるよ」
と楽観的な父らしい返事が返ってきた。
「私何もできないよ」
と言ったら、
「そんな事はないでしょう」
と言われた。
「色々バイトしてみたらさ、できる事も見つかるよ」
とも。
「やりたい事はさ、別に変わっても良いんだよ」
父のその言葉に私はかなり救われた気持ちになった。
彼の言う言葉の真偽はさておき、そんな事を言われると何だか前向きな気持ちになれた様に思えた。

ただ、中学校から大学に入るまで及び予備校の学費も全て出してくれたのは父だ。そしてこんな私の人生を手を尽くしてサポートしてくれたのは母だ。今更私が進路変更をしたり、大学を中退しようものなら彼らが私にかけたコストは全て無駄という事になってしまう。だのに
「やりたい事は別に変わっても良いんだよ」
などと言う父はあまりにもお人好しなのか、それとも私には耳触りの良い言葉をかけながら内心で別の事を考えているのか。私からしたらもう少し元を取ろうという意識を持っていてくれた方が良い気すらする。母が以前私に言った
「学費の分、耳揃えて返してね」
という言葉はかなり厳しいものだけれども、父もそれくらいの気概で居た方が良い様に思う。

「親ガチャ」という言葉が好きではない。
勿論生まれてくる環境は選べないのだから、ある意味「ガチャ」なのかもしれない。NEWSのメンバーであるシゲこと加藤シゲアキが主演を務めた「三途の川アウトレットパーク」というドラマが私は大好きなのだけれども、そのドラマの中では次に生まれ変わる生き物をガラポンで決めていた。
でも、何となく嫌なのだ。「親」という「生き物」を、「無機物」の様に表現するのが嫌だからかもしれない。
そんなある日、気づいてしまったのだ。
「親ガチャに失敗した」
とぼやいている子供が居るなら、何処かに
「子ガチャに失敗した」
と嘆いている親も必ず居るのではないか、と。そう思ったら悲しくなって私は少し泣いてしまった。
恐らく私の両親はそうではない。そうではないと思いたい。でも、それとは別に必ず何処かに
「子ガチャに失敗した」
と思っている親が居る。そうでなかったら子供が虐待されて死亡したなどという痛ましいニュースを見る事はないだろう。

全ての子供は無条件に愛されていて欲しいと思う。別に私が子供が好きだからではない。寧ろ私は子供がそこまで好きではない。子供はすぐ私を舐めてくるし、子供の泣き声や金切り声など煩くて聞けたものではない。ある時イライラしてあからさまに耳を塞いでみせたら、母親に叱られた事がある。
それでも、全ての子供は無条件に愛されていて欲しいと思うのだ。何故なら、俗に「ペット」と呼ばれる動物達は無条件に愛されるからである。勿論飽きたからという理由で捨てられたり、虐待を受けてしまうペットも数多と居る訳なのだけれども。
基本的にペットは何もしない。躾をきちんとすれば覚える事もあるし、芸を覚えてくれる場合もある。だが、それだけだ。ペットは人の言葉を介さないし、部屋を散らかしたり物を壊したりする。代わりに仕事をしてくれる訳ではないし(妨害してくる場合すらある)毎日ご飯を食べて眠るだけだ。それでも愛されている。
「可愛い」「大好きだよ」「長生きしてね」
これらの言葉をペットは当然の様な顔で享受している。そんな様子を見ていると、子供もかくあるべきと思うのだ。
勿論人間は家の外に出て社会生活を営まなけらばならないので、躾だったり社会の規範を教える事は大切だ。子供は何度でも親に叱られるだろう。子供からしたらそんな親は鬼に見えるかもしれないし、きっと数え切れない回数喧嘩をする。私がそうであった様に。それでも、親が子供に向ける感情の根底にはいつでも
「大好きだよ」
があって欲しいし、なるべく時間差なくそれが子供に伝わっていて欲しいと私は思ってしまう。

アイドルグループTravis Japanに、川島如恵留のえるというメンバーが居る。加藤と同じ青山学院大学を卒業した彼は小山や加藤と同様に「インテリアイドル」と持て囃されていて、また文章を書くのが大好きな彼は最近、GINGER WEBで定期連載「のえるの心にルビをふる(通称のえルビ)」を始めた。

のえルビの第2回連載で、彼は「お金」について話す際に自身の生い立ちを振り返っている。

ここから先の話に彼や彼の親族の名誉を毀損する意図は全くないし、別に教育論を語りたいという訳でもないのだけれども。
彼は否定するかもしれないけれど、彼の両親が施していたのは所謂「スパルタ教育」というやつである様に思う。
「スパルタ教育」という言葉はギリシャのスパルタという街が名前の由来だそうで、厳格さを特徴とする。実際に行われていた教育法を調べてみるとここには記載できない様な恐ろしいものだったので今回は狭義の方ではなく俗に「スパルタ教育」とされるものにのみ言及する事にするけれども、現在「スパルタ教育」とされるものの中にも体罰などが含まれる場合もある様だ。
勿論愛あっての事だし、それが悪いとは思わない。教育の方針はそれぞれのご家庭で決めたら良い事だ。ひとまず彼は両親に感謝しているし、彼の両親にとって彼は自慢の息子だろうと推察する。

では私はどうか。これは以前のnoteに詳しく書いた話なのだけれどもそこはご容赦願いたい。このまま続きを読む読者が大半だろうけれども、一応リンクを貼っておく。

彼と同等かそれ以上か、それ以下なのかはわからないけれど、私の両親も私に沢山のお金をかけてくれていたと思う。私が夢を叶える事ができる様に、私が少しでも楽に人生を歩める様にと。それは過保護過ぎるくらいに(以前高畑充希主演の「過保護のカホコ」というドラマを試聴したのだが、彼女ほどではないにしても私の人生は彼女と似通ったもので、視聴しながら背筋が冷えたものだ)。
しかしながら私は両親のかけた金額や愛情、そしてそれに伴う期待に応えられる様な人間に育ってこなかった。それは私の努力不足を原因とするところが大きい。最初は一生懸命勉強していても、いつも何処かで躓いたし、恐らく大半の人間が何度も繰り返し勉強して理解しそこを乗り越えていくところを、私はいつもそこでやる気を失くし、勉強に飽き、勉強よりも楽しいものを探した。それは読書だった事もあるし、ゲームだった事もある。最近は専らTwitterだ。そんな人間だから、受験と呼ばれるものには大抵失敗した。
母はその度に私に呆れ、叱り、どうにか勉強をさせようとし、私が失敗すれば案の定と責めた。
まあ私がそこで反省しなかったから現状がある訳だけれども。
「子供を育てるのなんてある意味投資みたいなものなのだから、思い通りの結果にならなくても責めたりしないで欲しい」
と思わない事もないけれど、そんな事は口が裂けても言えない。そんなのは私の言い訳に過ぎないからだ。叱られながら育っても、真っ当に生きている人は大勢居る。
何故ペットに比べると子供は無条件に愛されないのだろう。ペットは動物で、子供は人間だからだろうか。人間は社会を回していくにあたって様々なものを差し出している。だからきっと、
「社会に何を差し出せるか」
は人間のある種の価値だ。

でも。
私は思う。
何かを生み出せなかったら、人間は生きていてはいけないのだろうか。
大抵の人は否と思うだろう。正確に言おう。
「そうだと思っても口にしない」
これが正解だ。恐らく私も含めた大抵の人が、
「生きていて社会活動に参加しているなら何かしらを差し出すべき」
と思っている。
「差し出せない人間に価値はない」
とも。
その考え方が
「倫理的に間違っている」
事を知っているから、大抵の良識のある人間はそれを口にしないし、だからこそ口にした人の事を責める。
「思ってはいけない事だから」
というのが大半だろうけれども、
「自分は言わずにいるのにあの人は言っててずるいから」
という理由でその人を責めていないと胸を張れる人間は、一体どれくらい居るのだろうか?
でもやっぱり、それは違うのだ。少なくとも私は違うと思いたい。
のえるくんはよく
「生きててくれてありがとう」
という言葉を口にするし、
「生きているだけで偉いんだよ」
とも口にする。そんなのは嘘だ。生きているだけなら偉くも何ともない。私を含む大抵の人はみんなそう思っている。
でも、大好きな人の言葉は信じたいし、笑って
「そうだね」
と言いたいではないか。
…というのも理由の1つではあるけれども、それだけではない。
成果物を価値に据えてしまうと、「生きていてはいけない人」が出る。赤ん坊、高齢者、障害者。
「生物学的に子を成せないから」
という理由で独身者や同性愛者のカップルをそこに含める場合もあるだろう。そんなところに含まれてたまるか、と私は思っているけれど。
それはどう考えてもおかしな事だ。何かの条件をつけてある立場の人を
「生きていてはいけない」
と定義してしまったら、優生思想も姥捨山も肯定される社会になってしまう。
間違っちゃいないのかもしれないけれども、やっぱりなんか、そういうのは嫌じゃないですか。
だから私は成果物以外の場所に人間の価値を見出したい。誰だって無条件に生きていて良い筈だし、無条件に肯定されて愛されて構わない筈だし、自分の意思で
「死にたい」
と思うのはさておき誰かに
「死ぬべき」
などと言われるべきではない。
何ならそんな事すら思われない世界であって欲しい。
重度の認知症の祖母にイライラし、我儘放題言われればキレて怒鳴りつけ、時にどついている私が言っても説得力など何もないかもしれないけれど。
それが、外れガチャの願いだ。

多分私は「無条件の愛」というやつを信じたいんだと思う。私だって努力したら絶対報われたい。何なら今からでも報われたい。報われる為の努力を全くしていないにも関わらず、だ。私は誰かに無条件に肯定されたいし、無条件に愛されたい。できれば親と、私に害を為そうとする人以外から。
でも信じられない。愛に形はない。目にも見えないし、触る事もできなければ口に含む事もできない。そんなものの存在を信じるなんて、どだい無理な話だ。
でも信じたい。「無条件の愛」というやつに存在してて欲しい。だからこそ私は、論理的にそれを証明しようと躍起になっている。

でも、結局のところ、払った対価に見合うものが返ってこないと誰だって嫌な訳じゃないですか。
自動販売機にお金を入れてジュースが出てこなかったら困るし、カプセルトイの機械にお金を入れたのに何も出てこなかったら絶対店員さんに知らせに行く。手塩にかけて育てた子供がもしもニートになったら今までかけたお金が全部無駄だった様に思うだろうし、そりゃ怒りたくもなるだろう。気持ちはわかる。どうりでニートって単語は人間の種類を表す言葉なのにネガティブな文脈が乗っかると思った。
まあつまり結局、私は生きていてはいけない失敗作って事なんだろう。

最近、あまり親に褒められた記憶がない事に気づいた。
厳しい母は勿論、放任主義の父も、私の事を褒めていた様な記憶がない。
こりゃ参ったと思った。私はご存知の通り自己肯定感がすこぶる低いのだけれども、小学生の頃にいじめに遭い、学校にも馴染めず、先生には叱られてばかり居たという状況の他に、私の自己肯定感が低くなる理由がある様な気がしていた。親に褒められた記憶がないのもその理由の1つなのではないか?
そんな事を考えながらインターネットで調べて回っていると、似た様な生い立ちの人がYahoo!知恵袋で質問を出していた。日付は8年前。

それに対する回答はなかなか辛口なもので、私は読んでいてすっかりしょげかえってしまった。
知恵袋の回答なぞ真に受けるなと読者からお叱りを受けてしまいそうだけれども、でもこの回答はなかなか一理ある様に思う。愛されて育ってきた癖に人の所為にしようとしている。私は多分甘えているのだと思う。
神社でおみくじを引いたら、学問のところに
「自己への甘えを捨てよ」
と書いてあった。ドキリとしたのは、私に甘えている自覚があるからだろうと思う。
過保護に育てられた故に何かをやり通した経験がない。私もそうなのかもしれない。そして幸か不幸か丁度目の前に「やるべき事」がある。
もし院試の勉強をやり通したら、私もポジティブな性格になれるのだろうか?
そんな事を考えながらも、私は目の前の問題集には目を通さずにこのnoteを書いている。

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