1年越しの日記(メールの下書きより加筆修正)

2023年6月26日 午後
図書館に寄ったのは、教授に提出する紙を印刷していなかった事に気づいたからだった。
何て事はない、実験レポートに入れなければならなかった実験結果の写真が学校で印刷できなかったので、教授に待って貰っていたのだ。
行くのは面倒だったけれど、流石に約束を破るのは忍びなく、印刷しようと思った訳である。

ついでに加藤シゲアキの「ピンクとグレー」があれば借りたいと思って、机に荷物を置く前に私は図書館の本棚を覗いた。
私の通う大学は理系の強い大学なので、残念ながら小説は種類が乏しい。勿論置いていない訳では全くなく、今から全部読破しようとしたら修士を卒業するまでに読み終わるか怪しいほどあるのだが、熱力学だの医工学だの、そういった本に比べたら種類は圧倒的に少なかった。
案の定「ピンクとグレー」は置いておらず、でも何となくそのまま引き下がりたくなくてそのまま本棚を眺めていると、比較的鮮やかな背表紙の単行本に目が留まった。
引っ張り出して見ると「ひとり日和 青山七恵」とある。文庫本と違ってあらすじが裏表紙に載っている訳でもないのであらすじをスマホで検索する。
知寿という青年が吟子という老女と暮らすという内容の本らしい。かずとし、と読むのかと思ったらちず、という名前だった。芥川賞を獲っていた。いつの年か分からなかったのでそれもついでに検索する。2006年だった。その割には背表紙も表紙も随分鮮やかで綺麗だった。

机に荷物を置き、水筒の麦茶をがぶ飲みした。やけに喉が渇いていた。冷たい麦茶が渇きを潤していく。椅子に座り、本来の目的をそっちのけで読み始める。
まず、登場人物の「わたし」という一人称に違和感を覚えた。
違和感を拭えないまま読み進めると、案の定主人公は女性だった事が判明した。前は主人公が女だと思っていたら男だった、というパターンの方が多かったのに何だかなあ、と思いながら読み続ける。
穏やかで、つまらない話だった。でも読むのをやめるほど不快でもないので読み続ける。こんなにも何も起こらないのに、掴んで離さない不思議な魅力がある。
段々眠くなってきたので、本に栞を挟み、そのまま机に伏せて目を瞑った。

気づいたら随分眠り込んでいたらしい。色んな事をするにはあまりにも怠かった。とりあえずパソコンを取り出して立ち上げる。レポートの一つでも済ませようと思ったのである。不意に、誰かが「『グリグリ眼鏡と月光蟲』を加藤シゲアキに歌って欲しい」とかそんな様な事を言っていたのを思い出す。なるほどそれは良い考えだ、誰が言っていたのだろうと思ってTwitterで検索したが、それらしき画像ツイートは見つからずそのまま諦めてTwitterを閉じた。
急にヨルシカの「第一夜」を聞きたくなる。めちゃくちゃ大好きという訳でもないのに、あの曲は何故か魅力的だった。
友達と一緒に「幻燈展」を観に行った時に一緒にMVを見たのだ。友達にお礼のメールをするついでに
「幻燈展終わったら出たね」
というメッセージと「第一夜」のMVのURLを送る。
ポロポロと鳴る音楽に身を委ねながらTwitterを眺める。色んな投稿がある。適当にいいねを押したりする。
曲が終わったタイミングで麦茶を飲んで立ち上がる。今日はやけに喉が渇く。
プリンターは相変わらず使うのが難しく、使用済みのコピーカードを入れてしまうなどしたが、無事に印刷できたので席に戻る。暫くぼんやりTwitterを眺める。
母親に
「早く帰ってこい」
と言われていたのを思い出したので、もう帰るかと思ってパソコンを閉じた。が、英語の授業を担当している教授に質問のメールを送っていない事を思い出してまたパソコンを開いた。
翻訳アプリに文章を打ち込み、翻訳された文章をそのままコピーして、メールを送信する。
そして今度こそ本当にパソコンを閉じ、荷物を片付ける。
「ひとり日和」はそのまま借りた。電車で読もうと思ったのだ。読めるかどうかは疑問だが、読めなかったらそのまま返すだけだ。
外に出ると少し暑かった。不意に、この数時間を何かに記録しておきたいと思う。

プリントを出しに行くと、教授はいつも通り穏やかで優しかった。先生はプリントに学生番号と名前を書く様に言った。私は学籍番号と名前をプリントに書いてそのまま出した。
「ありがとうございます、お願いします。」
と言って、そのまま部屋を後にした。

この何の変哲もない数時間を記録しておきたいという気持ちがどうも消えないので、スマホのメール欄を立ち上げる。
「6月26日」とだけ書き、その前に「2023年」と書き足して、私はこの日の出来事を書き始める。


2024年6月4日 午後
江國香織の「東京タワー」を借りる為に図書館に来た。
King & Princeの永瀬廉が主演を務めているドラマの原作の本だ。ドラマ自体は録画していたものの、テーマが不倫というのもあって見るのは勇気が必要だった。見ていないままのドラマはひたすらレコーダーの容量を圧迫していた。
ただ、永瀬演じる主人公の透がこの先どうなるか気になった。以前岡田准一主演で映画化されていたものの結末は調べていたけれど、原作本も読んでみたいと思った。
案の定「東京タワー」は置かれていなかった。「あ~え」と書かれた棚に江國香織の本は「きらきらひかる」の文庫本が分厚い単行本の間で肩身が狭そうに挟まっているだけだった。

数段上の段に青山七恵の「ひとり日和」を見つける。そういえばこの本を読んだのは1年前のこの時節だった気がする。
棚から単行本を引き出した時、手が滑って本を落としてしまった。
開かれた状態で床に落ちた本から小さい紙きれが出てきた。裏返してみると
「6月26日貸出 返却期限:7月10日」
と書かれていた。
もしかすると、この紙は私が借りた際に挟んだものではないだろうか。
慌ててメールの下書きを遡る。様々な人に送りそびれたままのメールが何通も入っている。
日記の書き出しは「2023年6月26日」となっていた。
私がこの本を借りて読んだ形跡は未だにしぶとく本に残っていたのだった。
もしかすると私が借りて返却してから誰も借りていなかったのかもしれない。それでも私はその事実に何故かいたく感動した。
紙きれを本に挟み直し、本棚に本を戻す。
後日もう一度借りに行こうと思いながら、私は図書館を後にした。
noteを立ち上げ、メールの下書きに眠っていた日記をコピーし、そのままnoteにペーストする。誰にも見せる予定のなかった日記には教授の名前がガッツリ実名で書かれていたのでそれを削除する。
そして2行開けた下に「2024年6月4日 午後」と付け足し、続きを書き始めた。

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