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『ウロウロ』


薄暗い、青い空間。

正面を向いて、遠くを見つめて、若者が立っている。


若者「ハア。」


間。


若者、一歩前進して、手を前に伸ばす。が、その腕は完全に伸び切らず、見えない壁に触れて止まる。若者はその壁を撫でる。


若者「ハア。」

老婆「うるさいよ。」


舞台奥から老婆が出てくる。


若者「ハア、すみません。」


老婆、再び奥に戻っていく。

間。


若者「ハア。」

老婆「うるさい。」


再び老婆登場。


若者「ハア、すみません。」

老婆「眠れないのか。」

若者「はい。」

老婆「昼間、怠けて寝ていたんだろう。」

若者「そんなことありません。しっかり泳ぎ回っていました。」

老婆「ふーん。しっかりってどのくらいかね。」

若者「この水槽の隅から隅まで、営業時間中ずっと行ったり来たりしていました。」

老婆「ふーん。じゃあなんか悩みでもあるのか。」

若者「いえ、別に。」

老婆「言ってみ。」

若者「いえ、本当に何もないんです。」

老婆「へ、どうせ、水槽の外に出てみたいとかなんとか思っているんだろう。」

若者「ギクッ。」

老婆「なんてわかりやすいヤツ。」

若者「どうしてわかったんですか。」

老婆「いや、わかったというか、とりあえず一番ありがちな悩みを挙げたら、的中しちゃったんだよ。」

若者「一番ありがち…。」

老婆「そういうこというヤツ、ゴマンと見てきたよ。」

若者「ゴマン…。」

老婆「そのゴマンがどうなったか知りたいか。」

若者「どうなったんですか。」

老婆「二割くらいは排水口に飛び込んだっきり、帰って来なかったよ。」

若者「残りの八割は。」

老婆「ダイバーのお姉さんのスイムウエアーに忍び込んで圧死したよ。」

若者「そんな。」

老婆「お前、単純だな。」

若者「あ、もしかして冗談だったんですか。」

老婆「ああ、完全にウケねらいだったよ。」

若者「ひどい。」

老婆「それはこっちのセリフだよ。渾身のジョークを湿っぽくしやがって。」

若者「すみません。」

老婆「あーあ、ヤダヤダ。お前みたいなユーモアのセンスないヤツが、外に出たいとかそういう、ありきたりなこと言い出すんだよね。」

若者「だって。」

老婆「言うと思った、だって、だって、だてだてだって。」

若者「う。」

老婆「お前みたいなヤツは決まってそんな風に殻に閉じこもるんだよ。魚のくせに。うじうじうじうじうじうじ…」


若者、ちょっと泣いてしまう。


老婆「おいおい、泣くなよ。水がしょっぱくなるだろ。」

若者「もともと海水ですよ。」

老婆「うるさいよ。」


若者、かなり泣きじゃくる。


老婆「あーあー、うるさくてかなわないよ、まったく。こっちは眠いんだからさ。泣いてばかりいないで、そんなに思い詰めているんだったら、話してみなよ。」

若者「ぼく、ぼく…フィジーに行ってみたいんです。」

老婆「フィジー?」

若者「そう、フィジーです。」

老婆「なんだい、フィジーってのは。」

若者「わかりません。」

老婆「は?」

若者「今日、来たお客さんが、話していたんです。すてきな女の子を連れた、背の高い格好いい男の人でした。連れの女の子が、僕たちの居る水槽を見て、『綺麗な青ね』って言ったんです。するとその男の人が、『君の方が綺麗さ』って言って、」

老婆「寒。」

若者「ちょっと。」

老婆「あ、ごめんね。」

若者「で、そのあと、こう言ったんです。『でも、フィジーはもっと綺麗さ』って。」

老婆「馬鹿だろそいつ。」

若者「で、女の子が、『すてきねフィジー、いつか行ってみたいわ』って…。」

老婆「健気だね、あるいは馬鹿が移ったね。」

若者「(うっとりと)フィジー。きっと、ここよりも青くて綺麗な海なんだ。」

老婆「なるほどね、それで外に出たくなっちゃったわけね。」

若者「そうなんです。」

老婆「フィジー、どんなところか想像してみたかい。」

若者「はい。」

老婆「お前の想像するフィジー、教えておくれよ。」

若者「えっと…まず、青くて、だだっ広くて、どこまで行ってもこの透明な壁がない。それから、ぼくが見たことのないような珍しい魚がたくさん居る。ぼくは友達をたくさん作って、みんなでぴったり群れをなして泳ぐ。それぞれちょっとずつ鱗の色が違うから、グラデーションみたいになって…綺麗だろうなあ。あと、そうだ、きっと、毎日食べているエサとは違うご馳走が食べられるはずだ。きっと毎日毎日、違うことが起きる。あああ、なんてすてきなんだろう。」

老婆「すてきだね。」

若者「でしょう。」

老婆「すてきすてき。」

若者「だから、外に出たいんです、ぼく。」

老婆「その必要はないね。」

若者「え。」

老婆「むしろ行かない方がいいよ。」

若者「どうしてですか。」


と、足音が聞こえてくる。足音と一緒に、明かりが近づいてくる。

どうやら、警備員が懐中電灯を持って巡回しているらしい。

舞台を隈なく照らし、ゆっくり遠ざかる明かりと足音。


老婆「いま、お前が想像したフィジーの方が、断然すてきだからだよ。」

若者「どうして、そんなこと言いきれるんですか。」

老婆「人間を見ていたら、わかることだよ。」

若者「どういうことですか。」

老婆「お前、ここに来る人間を、ちゃんと見たことあるかい。」

若者「見ていますよ。嫌でも目に入ってきます。」

老婆「ちゃんとだよ。ちゃんと。顔を忘れないくらいにじーっと見たことあるかい。」

若者「そんなには…だって、みんなすぐ立ち去ってしまいますから。」

老婆「そうなんだよ。みんなすぐ立ち去ってしまうんだ。なぜだと思う。」

若者「わかりません。」

老婆「行くところがいっぱいありすぎるんだよ。」

若者「…。」

老婆「お前がフィジーに憧れるみたいに、人間もいろんな場所に憧れる。いろんなところに行ってみたい。だから、あんまり一つの場所にじっとしていられないのさ。」

若者「だから、それだけ外の世界が魅力的ってことでしょう。フィジーの他にもすてきなところがいっぱいあるんでしょう、きっと。」

老婆「じゃあ、なんでここに来る人は減らないんだろうね。」

若者「…。」

老婆「ここよりもすてきな場所がたくさんあるなら、みんなここへは来ないだろう。でも入れ替わり立ち替わり、来るんだよ。私がここで生まれた時から、少しも変わらない。むしろ、ますます落ち着きなくなっている気がするよ、人間のやつら。」

若者「えっと、でも、それは、人間がものすごくたくさん居るからかもしれないですよね。きっと多すぎて、フィジーに入りきらなくて、うちに流れてきているのかも。」

老婆「偉い。」

若者「え。」

老婆「もっと単純でミーハーで流されやすいヤツかと思ったら、きちんと反論できるんだね。やれやれ、超めんどくさ。」

若者「褒めてくれたんじゃないの。」

老婆「褒めたよ。お前の言うこと、正しいよ、と言っても、正しいことなんかないんだけど。つまり、だから、こっからは、年寄りの説教じゃなくて、私のプライベートストーリーになるんだけどさ。」

若者「なんで横文字。」

老婆「人間なんてどいつもこいつも心ここに在らずだなあと思ってたんだけどさ。一人だけ一目置いている奴がいてさ。お前も知ってる奴だよ。」

若者「ダイバーのお姉さん?」

老婆「違うよ。あれは一見同じに見えて、中身はシフト交代制なんだよ。そうじゃなくてさ、さっき通ったあいつだよ。」

若者「さっき通った?」

老婆「さっき、明るくなっただろう。あれだよ。」

若者「ああ、あの、毎日明かりを持ってウロウロしにくる人か。」

老婆「そう。あいつは、私がここへ来た時からずっと、毎日同じ時間に、ここへ来るんだよ。」

若者「そうなの。全然気にしてなかった。」

老婆「一度だけ、あいつがどんな顔しているか、見たことがあるんだ。」

若者「どんな顔していたの。」

老婆「…あ、ごめん、顔って言ったけど、やっぱなし。間違えた。見た目じゃなくて人間性について言いたかったんだよね。えっとね…地に足がついている、という、感じ…。」

若者「…地に、足が。」

老婆「あー、魚にはわかりにくい表現だね。そうだな、言い換えると…うん、あの人からはね、心底この場所が好きなんだ、ということが伝わってきた。」

若者「…。」

老婆「あの人、この水槽を見るとき、とても嬉しそうな気がするんだよ。毎日毎日、来ているのにだよ。昼間のお客さんは気に留める間もなく過ぎ去って行くけど、あの人だけは、ここにちゃんと居る。私を見ている。それで、私もここに居る甲斐ができた。」

若者「…。」

老婆「まあ、要するに、何が言いたかったかっていうとさ、フィジーもすてきかもしれないけど、ここも捨てたもんじゃないよ。ウロウロする前に、じっとして目を凝らしてみれば、案外、何かしら面白いものが見つかると思うね。」

若者「…。」

老婆「まあ、もしそれでも見つからなかったら、想像のフィジーに逃げ込むのがいいだろうね。絶対確実にすてきなのは想像の中だけだよ。」

若者「…。」

老婆「あれ。」


老婆、若者の周りをぐるぐるし、肩をつつく。

若者、目を開けたまま、コテンと横になる。


老婆「こいつ、目開けたまま、寝てやがら。」


老婆、退場。

暗転。

おしまい。





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