見出し画像

あの日、母とお別れをしたんだ

フラッシュバックする日
こびりついた日
時が止まった日

歳を重ねるとそんな日の1つや2つ誰にでもあるのが、むしろ普通になってくるものなのだろう。

私にとって今日は、まさにその日である。


母の、命日。


私は、今年も変わらずこの日胸が締め付けられている。

このフラッシュバックするような感覚は、時の流れが解決してくれるものなのかはまだ分からない。

この大きな感情はずっとこの先の人生も共存していく事は確かだろう。


でも、けしてこの事が"変えたい自分"である訳ではない。

私は、現実をゆっくりと見つめている。

ただそれだけ。



過去

数年前のこの日、健康が自慢の母は突然の余命宣告を受け、あっという間にこの世を去った。

61歳だった。

毎年健康診断を受けていたが異常は全く見当たらず、日常生活においても、お酒も煙草も一切やらず、健康的な食生活に、日々の運動…と絵に描いたような"健康的な人"だった。

その上、母の家系はいわゆる長寿の家系。祖母は92歳で元気にやっていた。

母の余命宣告は、誰も予想しなかった寝耳に水の出来事だった。

膵臓癌。


ー膵臓癌?

膵臓癌って、なんだ…?


当時、咄嗟に思い浮かんだのは、著:住野よるの大ヒット小説「君の膵臓を食べたい」

涙なしでは見られない作品だ。映画も小説もアニメも全部堪能して何度も泣いた。

主人公は、若くして膵臓癌に侵され残り時間で"死ぬまでにやりたい事"を実行していく。私の大好きな作品で、テレビ放映の日は何度でも観たい!と前のめりになった。

あの…膵臓癌?


…母が膵臓癌?


いったい、なぜ…?


何度ネットで検索してみても、その道に詳しい人に聞いてみても、大量の書籍を読み漁っても「糖尿病の合併症として」とか「膵炎がある人は要注意」とか「煙草やお酒などが原因で」とか全て母とは無縁の話だった。

これは誤診なのではないかという希望に当時すがったりもしたが、現実はただそこに動かぬ事実としてあるだけだった。

世の中を改めて冷静に観察してみると、突然の余命宣告からのあっという間に死んでしまう"膵臓癌"の流れはよく映画や小説で”感動もの”として使われる病気だ。

あんなに毎回しっかり号泣をしながら作品を堪能していた私であったが、気付けばそんな"よくある流れ"の作品たちは母を失ってから未だに観る事ができずにいる。

強いて言うならば、物事に対する受け取り方というものは「複雑で人それぞれの振れ幅は大きい」という事を自分の経験を通して学んだくらいだ。

「でね!?それで彼が死んじゃうの!?ちょー泣けるでしょ!?!?」なんて誰かが楽しそうに昨日観た映画に興奮している姿を見ながら、私は作り笑いで「それは、悲しいね」なんて口にするようになった自分がいた。

なんでもない事が、なぜこんなにも鈍痛として残るのだろうか。

34歳の1人の大人の女として、本音と建前の乖離に改めて孤独を感じるようになった。

死ぬ、とは
病気、とは
生きる、とは
幸せ、とは

人類の誰も辿り着けない答えを探して考え込んでしまう。その行動に意味なんて何もないのに。


母はいつものように受けていた健康診断で、ある日突然その場で余命宣告を受けた。

家族が呼ばれる事もなく、たった1人でなんとなく行った病院であまりに少なすぎる余命を告げられたのだ。

母はできる限り空気が重くならないように豪華なお寿司を買って帰って来て、当時一人暮らしをしていた姉や私を実家に呼び出し「お母さんね、来年まで生きられないんだって」と言った。


その瞬間、時が止まった。

あ、時って止まるんだ。


……本当に止められたらいいのに。


私はその日から、母との時間を最優先に考え全ての時間を母に捧げた。

私と母は、元々親友のように仲が良かった。

一人暮らしをしていた私は、ほぼ毎日母と電話をしていた。母に、話せない事はなにもなかったしなんでも話した。

未だに、何故母が膵臓癌になったのか、何故61という若さでこの世を去ったのか、何故母でなければならなかったのか理解はできていない。


…いや、理解しなくて良い。

世の中は、理解できない事や理不尽の連続だ。

理解しようと思う事の方がきっとおこがましいのだろう。

生きるという事は、そういう事なのだ。

いい加減成長しろ、セイラ。

何千回も自分自身に言い聞かせた。


母が亡くなる前に交わした、母との会話は私の心にずっと居座り続けている。今も、これからもずっと、私の大切な記憶として御守りのように居座るのだろう。

「私の人生は、子育てだったな」

そう言って母は亡くなった。

亡くなった日は、家族全員揃っていて母のベットの周りに集まって他愛のない話をしたり、マッサージをしたりしていた。

本当に突然の急変だった。

ほんの数秒前まで談笑をしていたのに。

母の体の中の何かが破裂をした。

破裂音は、近くにいた私たち家族全員が聞き取れる程の大きさだった。

癌細胞は、ものすごい速さで分裂をして大きくなる。癌はあまりにも大きくなりすぎたのだ。

手を繋いで、一緒にベットに横たわった。

最後の一呼吸まで私は母と共にいた。

闘病の努力など、まるではじめからそこに存在していなかったかのように母とのお別れはあっという間だった。

現在

あれから、数年が経った。

少し前に、仕事でお会いした人が

「私は、主人が亡くなってようやく悲しみと共存できるようになったなぁっなんて実感できたの5年です。お母さんを思って強くならなきゃなんて思わなくて良いんです…セイラさん、だからあまり自分の感情に蓋をしすぎないで下さいね」

と言ってくれて、心が軽くなった。

同世代くらいの人にはなかなか共感されない、抉られるような感情を受け止めてもらえたのが初めてで、声を出して泣いてしまった。

私は日常をとうに取り戻してはいるけれども、ふとした瞬間に涙が溢れる事がある事を誰かに肯定してもらいたかったらしい。

現在_未来?

母が亡くなってすぐの頃、真っ白な頭の中に「あ、家族が欲しいな」なんて事がふと思い浮かんだ。

「私の人生は、子育てだった」


そう言ってこの世を去った母の言葉は、私の心に深く刻まれていた。


ーそして、私はなんとなく婚活を始めた。

…というよりも、これまでは今生きるのにいっぱいいっぱいの人生を送っていた私が、あの日から"未来を考えるようになった"という表現の方がしっくりとくる。


でも、未だに結婚はできていない。

その事実に、外野は面白おかしく口出ししてくる事もあるけれども、それはそれで良いかな〜なんて最近ようやく思えるようになった。

だって、答えなんて存在しないこの世界に、答えを出していくのは私のやる事だから。人に理解される事が私の幸せではない。

本気でやって、ダメだったからと言ってそこに残るものは不幸ではない。

私にとって最も不幸な事は、"私の大切な人達が悲しむような事"であったり"私が私らしくいられない人生"だ。

その事を母と過ごした最後の時間の中で、私は実感していた。

"こんなに愛情深くて、できた人間”を他に知らないという母の元に育ったからこそ、私にとって譲れない部分がそこにある。

本音と建前の、”本音”をのびのびと発揮できるような人を私はこれからも丁寧に探したい。

そうしたらようやく、私は母の墓前で笑顔で言えるのだと思うから。


お母さんへ

苦しかったね、お母さん

母と過ごした時間は、私の一生の宝物だよ

いつでも私は母を想っています

父の事は、安心して

私がいるから大丈夫

父は母みたいにコミュニケーションが上手ではないし、不器用だけれども、私とは相変わらず楽しくうまくやってるしめちゃくちゃ元気だよ

あ、そうそう

母の命日に、今でも母の友達達がわざわざ駆けつけてくれたよ

素晴らしい人達にも恵まれた人生だったんだなぁ、なんて、ありがたい事だね

今日は、母の好きなご馳走を作りました

また、いつか会いましょう

セイラ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?