INFJ(※自称)が哲学の名著「パンセ」読んで読書感想文書いてみた。
※宗教のお話が出てきますが、あくまでボク個人の考えであり他人の名誉や信教を否定する意図はありません。
哲 学 デン!!
この2文字を目にしただけでアレルギーを起こす人もいると思います。
「変人の学問」
「意味の無い退屈な話」
「生活に役立たない」
「意味不明」
「頭痛くなる」
「人間は物理と数学で割り切れない問題が起こると哲学という物に逃げる」
確かにそうですね。
ボクも意味不明で奇々怪々な学問や話だと思います。
しかし何故かはるか昔太古より続く摩訶不思議な物であることも間違いないです。
何故人間は哲学を考え、深い思慮の淵に立つのでしょうか。
・神なき時代に縋る者をさがす為のツールとしての哲学
人間はどんな文明や文化圏においても「神」や「信じられる絶対の存在」や「定まっていて動かない何か」を見出します。
そして現代。
19世紀からの産業文明のどん詰まりが見え始め、あらゆる信じていたものは崩れて物質主義と拝金主義とおかしくてバカバカしいイデオロギーが全てを牛耳る世界になりつつあるように感じます。
第一次世界大戦後に似ている。
そんな感覚です。
そんな時代に良かれ悪かれ強烈な人が現れます。
皆その「強烈な人」をカリスマだとか革命的だとか言って持て囃します。
…察しのいい方ならわかったかも知れませんが第一次世界大戦後に台頭したヒトラー、ムッソリーニ、スターリンなどの人物。
かの人物達を同じく神なき時代であった当時の人達はまるで救世主、そして神のようにまつりあげましたね。
実際に益は確かにあったのかも知れませんが、かの人物達をリーダーにした結果は今の時代が答え合わせになっているでしょう。
「パンセ」ではパスカルが敬虔なキリスト教徒として様々な問題に対して「神」を軸に考え、問答を繰り返しています。
神
ところで神とはなんでしょう?
世界を創った?絶対の存在?
或いはネットで見た?推しが神?もしくは神は俺だという人もいるかも?
この奇々怪々に見える哲学の名著を理解するには「神」がどういう存在かをまず考えなければなりません。
・世界各国の「神」と「仏」
個人的な私見になる上、更に良くも悪くも浅学で乱雑な宗教観による「神」の解釈になります。何卒御容赦を。
・キリスト教の神は「赦しと法」
・イスラム教の神は「絶対と規範」
・仏教の仏は「救済と智恵」
・神道の神は「畏れと隣人」
だと思います。(※仏は神とほぼ同質と個人的にボクは考えています。)
順を追って何故そう思ったのかです。
まずキリスト教の考えに「赦し」があります。「敵を愛せ」というやつと「神は愛である」というやつです。
神は来るものを拒まずただそこに在り、そして最後は全てを赦して抱くという考え方だと思います。
法は「人間はこう生きるべきである」という点。
特に傲慢、暴食、色欲、憤怒、怠惰、嫉妬、強欲の七つの大罪は有名な人間への戒めの話ですね。法である神にこれらの罪を犯し逆らうと地獄に行くぞと言う話です。
過ちは人間の常、赦すは神の業 という言葉が映画の聖職者の台詞で出るぐらいです。過ちを犯した人間もきっちり清算したあとは赦すというのがキリスト教の「神」なのでしょう。
イスラム教の「神」は絶対です。
絶対に定まっており、変わることはない。
不変にして絶対的。神の言葉は掟であり絶対に守らねばならない事。
だから決まった時間と方角に絶対である神の前に謙虚に頭を垂れ祈りを捧げる。
神が定めた食べ物以外は口にしてはならないのも絶対である神への祈り。神の似姿を創造して崇拝してはならないのも絶対である神に対して不敬であること。
そして規範。
神が定めた規範を戒律として守ることこそが人間の役目である。
それは当たり前のことで絶対である「神」への忠誠と敬愛とを示す道である。
ムスリムの方が敬虔に戒律を守るのは絶対であるイスラム教の「神」と共にあるためだと思います。
仏教の「仏」は様々な顔を持ちます。
智恵を司る仏、命を司る仏、救済を司る仏…。
様々な仏を描いた「曼荼羅」が大変よく仏教の考え方を表していると思います。
救済というのは仏教の言葉で「一切皆苦(※イッサイカイク。生きることは全て苦難に充ちている。)」の世界で仏は人間を救済してくれる。という考えですね。
有名な仏像の顔は優しく救済の眼差しを人間に向けていることが多く感じます。
そして智恵。
仏教の言葉、教えには人間の生活にかなり近い距離にフォーカスしたことが沢山あります。
「こう考えれば人生は楽になるよ。」という仏の人間へギフトとしての知恵なのです。
神道の「神」は「畏れ」と「隣人」です。
日本は四季折々、様々な気候が時間で変わります。そして地震台風大雪猛暑と自然災害の多い土地でもあります。
自然は恵みを沢山人間にもたらしますね。
美味しい食べ物、山岳国家で山からの綺麗な水、季節で変わる美しい景観、それによってもたらされる産業や仕事。これはまさに賜り物であり、日本人の宗教観「万物に神は宿り、八百万の神がいる」になって日本人はそこに神を見出したのでしょう。
しかし同時に自然は牙を剥きます。
大雨日照りに始まり地震に台風に大雪など簡単に人間の命を奪います。
だから日本人は「神」を「畏れ」ました。
だから四季の移ろいに神事を行い、畏まりそして手を合わせ厄をお祓いをし頭を垂れて神を敬うのです。
それと同じくして日本には神社や仏閣の名前に「さん」を付ける俗習があります。
様々な恵みをくれる「神」「仏」に親しみを込めたのですね。これが「隣人」の考えです。山岳信仰のある山には必ず「さん」が付いているという話もあります。
神事を行うと同時に四季の祭りも行なわれます。
「神」がいる場所で一緒に人間も遊ぶ、日頃の些末なことを忘れ酒を飲み歌い踊る。
ここまで信仰の対象が近い、身近な距離感の宗教も珍しいでしょう。
色々書きましたが世界にはもっと書ききれない様々な「神」が沢山います。
なにゆえ「神」を人間は想うのでしょう。
・どうすることも出来ない不可侵領域としての「神」
人間は非力で、脆弱です。
生の肉を食べただけでお腹を壊します。
生き物の中でも強い肉体を特別持ってるわけでもない。
服がなければ暑さ寒さもしのげない。
病気にはすぐ罹る。
ましてや海を割る、水を葡萄酒に変える、雨を降らせる、生命を0からつくる、死人を甦らせる、不老不死を得る、世界を創る
こんなこと人間は出来やしません。
だからずっと昔の人々はそれをできる奇跡と現象を自在に操る親として「神」を想像したのでしょう。
不安 なんですよ。
不安と何かに縋る心、親に子が抱く
「護って欲しい。助けて欲しい。救って欲しい。」に似た人間の感情と心によって「神」は「神」たるのです。
子供には大人の世界や仕組みは基本的にどうすることもできない不可侵領域です。
その不可侵領域たる「神」を祀り、祈る。
多分これは古今東西あらゆる新旧問わず宗教で絶対に通じることです。
・パンセの神、皆の神、人類の神
さて…話が大いに逸れましたがパスカルはパンセで耳にタコが出来そうなぐらい神のことを書いております。
パスカルが考えたパンセの神は厳格で、威風に満ちています。
少々固い文体によってよほど深い信仰と敬う心を持っていたのであろうと、所々腑に落ちなくとも理解できました。
しかしながら当然書いたのはパスカルでパスカルも人間なので、理解し難いこともあります。
おそらく長く続く宗教の対立問題はコレです。
解釈と考える神の違いです。
個人の思考や考え方の差異。
しかしながら理解し難い者を否定したくなるのも人間。
ボクがパンセを読んで確信を得たのは、人間は100パーセント理解し合い分かり合うことは不可能であるという確信です。
他人には他人の信じ殉ずる事があり、自分にも信じ殉ずる事がある。
それが衝突する時に人間は愚かな戦いを何千年も「目には目を」と唱えながら行ってきたのでしょう。
とても悲しい事ですが。
しかし昨今の世界の情勢を見ていると「もうそろそろ止めないかな。こんな無駄な対立」と思います。
けど団結や対話を唱えるのは簡単ですが人間の怨嗟の歴史の前では個人の考えや主張などは無意味に近いです。
蟻が象に挑むぐらい無理なことです。
地球が回るのを止めるぐらい無理かもしれません。
そして様々な壁が人間を隔て分断します。
絶対に人間同士が100パーセント分かり合うことは出来ない。ましてや完全なる団結や愛も人間には有り得ない。
これもまた真理であり真実であるとパンセを読んで確信しました。
・答えは身近にあった
少し話は変わりますがボクの地元にお寺さん、キリスト教の教会、お宮さんが近い距離にあります。
そこは別にいがみ合うでもなくただただそこにあります。距離はほんとに斜め向かいぐらいの距離。
「あっ、これが答えだ」と散歩で近くを通った際に思いました。
お互いに否定するのではなく、あなた方にはあなた方のやり方があるのだな。
ではいがみ合わずにお互いはお互いのルールに則りそれぞれの「神と仏」を大事にしよう。
という精神。
多分日本独特の宗教観と価値観だとは思いますが世界の人がこの精神を持っていれば無用で野蛮な争いは無くなるハズです。
勝手に「日本力」とでも名付けましょうか。
最近移民問題が日本にも来ると言われていますが日本は多分、差別などの問題に関しては大丈夫だと思います。
科学的根拠はありませんが。
理解できないのなら滅ぼすのではなく、共存と共有といざと言う時に手を取る道を選ぶこと。
それは哲学が永遠に内包する問題「他者と自分」の答えではないでしょうか。(とボクは思う)
・程よい、適当、中庸が全てにおいて最も大事で尊ぶべきことである。
↑
これもまたパンセを読んで考えたことです。
白と黒ではない、間。
うろ覚えかつ浅学で申し訳ありませんがネイティブアメリカンの信仰の教えにはこの「中庸」を取ることが人間の生きる道であるという言葉が残っていたと記憶しています。
世の中は白と黒で出来ているのではなく、様々な色を内包しています。
パンセにおいてパスカルはキリスト教こそが唯一にして最良の神の教えであるという様々な事例を挙げておりますが、それはパスカル個人が導き出した「神」の姿です。
そしてボク個人は人間には人間の数だけそれぞれ神の答えと解釈があり、それはお互いに尊重すべきだと思いました。
これもまた、パスカルが導き出した答えと同様にボク個人が導き出した答えなので「いや、違う」という方もおられると思います。
それでいいのです。
人間はそれぞれ違います。
生まれも能力も思想も全てが。
それを無闇に否定してはいけないのです。
それは正義などではなく、単なるエゴイズムです。
昨今騒がれる多様性という言葉に対する真の答えでもあるとボクは考えます。
分かり合えないことこそが人間の答えと本質であり、分かり合えないから人間は他人に石を投げもするし逆に手を取る努力をするのでしょう。
そこに中庸を見出すことこそが世界をもうひとつ新たな段階へ前に進ませるきっかけになると解釈しました。
こう考えると難しい、ワケワカメな問答を繰り返す学問である哲学は神なき時代を生きる為のツールであると断言できます。
・人間は「独り」であり、人間は「全」でもある
読書感想文の締めくくりとしましてこうしときます。
人間は最後は独りである。
それはいかなる国籍思想人種宗教ジェンダーとコミニュティにおいても普遍であり、覆ることはない。
だけど人間は一瞬の間全にもなる。
例えばスポーツのチームプレーや応援の歓声。
合唱で歌う時や、コンサートで音楽を聞く時、信じることを共有する時、好きな人と一緒にいる時間。祈る時。
その間は人間は出来損ないの群体ではなく、あらゆる違いを超えて全になるのかもしれませんね。
長々と駄文に付き合っていただきありがとうございました。
以上をパンセの読書感想文といたします。