失恋
ガリ、ゴリ、ジャリジャリジャリジャリ…
薄暗い教室に響く粉砕音。
窓の外は曇りで、じっとりと湿気がワイシャツにまとわりつく。
ああ、なんて不気味な放課後。
ゴリっゴリっ。ごくん。
僕は目の前で不快な音を立てる男を見つめ、大きくため息をついた。
「で、今度は何してるわけ」
「ん?」
男は顔を上げるが、すぐに辛そうに目を細めた。
「いててて!頭キーンてきた!」
両手にガリガリ君を持ったまま、ゴミだらけの机に突っ伏す男。
クシャリと青色のパッケージがおでこの下で潰れた。
夏を目前にした生温い空気のなかで、ガリガリ君を頬張るこの男の周りと、僕の心だけが妙に冷えていた。
「そんな必死に食うからだよ、バカ」
「いてーよぉ…」
僕は情け無く呻く男を見下ろし、机の上に散らかるアイスの空袋を摘み上げる。
大きく口を開けて白い歯を剥き出しにする、デフォルメの限りを尽くした坊主のキャラクター。
無邪気な笑顔が目の前の男とダブって見えた。
「いやさ、風邪をひくには体を冷やすのがいいかなーって」
頭の痛みに顔を歪めた男はアイスの棒を持ったまま指をぺろりとなめた。
薄暗い教室のなかで、その赤色だけが妙に目に残る。
「は?」
その赤さに目を奪われていた僕は、ハッとして言葉を聞き返した。
風邪をひくだって?
「だから。風邪ひきてーの、俺」
「…なんで」
「前に話したろ。病院のオネーサンの話」
僕は「オネーサン」という違和感のある言葉の響きに記憶を揺さぶられた。
『俺の担当してくれたオネーサン、めちゃくちゃ綺麗だったんだよ!』
思い出した。
興奮して赤く火照った男の顔と、
白いギプス。
そういえばコイツは自転車で事故を起こして入院していたっけ。
3ヶ月ほど前の話だ。
「あれから俺、病院に行くためにめちゃくちゃ頑張ってんだよ」
バリッとアイスの袋を開けて男は言った。
「そのオネーサンとやらに会うために?」
「そ」
アイスを一口かじり、指を折る。
「めちゃくちゃ献血しにいってー」
また一口。
「予防接種もしてー」
一口。
「筋肉痛でも病院いってー」
ぺろり。
アイスの棒が現れた。
「今回は風邪をひいてみようかと」
ハズレの文字が目の前に突きつけられる。
僕はむっとしてゴミをクシャリと掴んだ。
そのまま力一杯ゴミ箱に放り投げる。
「ほら、ハズレた」
「うるさい」
僕は席をたつとゴミ箱に入り損ねた坊主の顔をクシャリと踏みつぶした。
『これ、オネーサンが巻いてくれたんだよ』
嬉しそうに足のギプスを見せびらかす、男の顔。
思い出してきたぞ。
そう、市民病院にお見舞いに行った時だ。
『病院の匂いは嫌いだけど、オネーサンはいい匂いすんだよなぁ』
僕の持ってきたお見舞いの花の香りを嗅ぎながらうっとりとする男。
『オネーサン』『オネーサン』『オネーサン』
背伸びしたようなその言い方が妙に可笑しくて、僕は鼻で笑ったんだ。
「そんなにオネーサンと一緒にいたいなら、もっかい骨でも折るんだな」
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「いうなれば、骨を折ったのがきっかけです」
…記憶が混同している。
僕は目を擦ってぼうっとする頭を振った。
僕がギプスだと思ったそれは、今度は白いスーツとなって目の前に現れた。
「中学生の彼は、なにかと理由をつけては病院に遊びに来たんです」
お見舞いの花束は華やかなブーケになる。
「今後の人生は事故なく安全に歩んで行きたいなーなんて」
キーンと痛む頭を抑えた。
おかしいな、アイスは食ってないのに。
僕は痛みに顔をしかめて顔を上げた。
男の無邪気な笑顔が、青い空をバックに輝く。
大きな口に、白い歯。
こちらに気づき、親指を立てた。
「…ガリガリ君かよ」
小さく呟く。
僕はグーサインの男の指輪に輝く指輪から目を逸らした。
そうか、結婚したんだ。
男は、本当に骨を折った。
俺の言葉を間に受けた訳じゃないが、
大学に入って原付の免許を取った直後にまた入院したのだ。
事故だった。
以前と同じように右足をギプスでグルグル巻きにされていた。
その時に再会したのだ。
件の「オネーサン」と。
そこからはお察しの通り、男の猛攻が始まった。
引くことを知らない男の攻めに、ついにオネーサンの心は溶かされてしまった。
『俺はお前と違って外さねーからな』
得意げに笑う男。
僕はその時もうるさいと男を一蹴した。
「当たりです!!!」
騒がしい声に意識が引き戻される。
ブーケトスが行われたらしい。
花束を持って、照れくさそうに笑う女性。
カラフルなドレス。
豪華な食事。
僕は周りに合わせて拍手をしながら、冷えていく心を必死に留めていた。
どれもこれも暗く、曇って見える。
痛い、痛い。
頭が痛い。
「いたいなぁ…」
僕はあの時のように地面に転がる花を踏みつけた。
ガリ、ゴリ、ジャリジャリジャリジャリ…
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