人生で初めて落語を観に行った話
大阪天満宮のお膝元。
妙に愉快でどぎつい3文字。
「繁昌亭」
私は寄席に上方落語を観に行った。
結局、古くから現代まで残っているものって歴史と理論に基づいて、既に完成されているんだと思う。
非の打ち所がないというか。
手の施しようがないというか。
100人いたら99人が高評価を押しちゃうような、人間の根幹に訴えかける面白味。
伝統芸能って、そういう「人間の気持ちのいい」物事の集合体が、磨きに磨き上げられて研鑚され続けた結果なんだと。
改めてそう感じた。
スイッチの切り替わる瞬間があるのだ。
落語家が舞台に上がり、座布団に腰かける。
ライトに照らされ、和やかな笑顔が観客に向けられる。
「いやぁ、私なんかも〜54歳になりまして」
最初に自己紹介を含む前説のようなものが、耳通りのいい声で客席に響く。
約5分か10分くらい。
本題の導入を、それと気づかせないよう上手いこと話を紡いでいく。
そして、おもむろに着ていた羽織りを脱いだその瞬間。
カカンッ!
扇子が鋭く音を立てて、今まで和やかな顔をしていた落語家が
一気に別人になるのだ。
ここが最高に気持ちいい。
羽織りを脱いだ瞬間。
落語家のスイッチがオンになるその瞬間。
笑顔だった顔が、ギュッと引き締まる瞬間。
まさにプロ。
観客を問答無用で噺の世界に引き摺り込むのだ。
(落語の様式美を知らなかった私は、最初この始まり方を見て衝撃を受けた。)
落語そのものについては、もはやいうまでもくめちゃくちゃ面白い。
漫才やコントと違って、1つの大きいオチに向かって全ての要素が構成されている感じ。
笑いどころが分かりやすく、それ故
会場全体の笑いが一体化する感覚が強い。
「生で観る魅力」を最大限に引き出せるのは落語なんじゃないかとさえ思う。
より、リアルなものがウケる時代になっていると思う。
YouTubeや、ネットコンテンツが普及して、人間の素の部分の魅力にフォーカスできるようになった。
ドラマよりもドキュメントよりの「人間の面白さ」を楽しむ人が増えた。
真逆だ。落語は。
人間的魅力を見せず、いかに「噺そのものの面白さ」を引き出せるか。
喋り方や仕草、そういった諸々のスキルは落語に特化したもので、人間を高めるものではない。
1000年近く変わっていないんだから、多分今後1000年経っても変わらないだろう。
マジの無形文化遺産やね。
私は落語家じゃないので、特にオチもなくこのnote を終わります。