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「東京地下2階」

プロローグ

人は誰しも、地上の顔と地下の顔を持っている。
その深さは人の数だけある故に、一緒に落ちてみないとわからない。

時は、2018年6月23日。渋谷。ハチ公前には、友人を待つ者、出会い系サイトで知り合った相手を待つ者、その横でハチ公と写真を撮る者。スクランブル交差点の信号が青になると雪崩のように人が動き、赤になるとまたテトリスのように人々が岸に溜まる。センター街では、偽物のブランドスニーカーを手に取る高校生、きょろきょろと辺りを見渡す男子の集団。その一歩隣のハンズ通りには、品のよさそうなマダムが百貨店から現れ、その目の前を奇妙な髪色をした女とも男とも言えない者が歩きスマホをしている。どの通りにも音が溢れ、そして、香りと熱気がスパークするこの街に、これほど多くの人間がいるというのに誰にも興味を示さない。ただ、今日も渋谷は奔放にキラキラと輝いている。

ライブハウス「ヒットマン」は、公園通り、代々木公園前の地下二階に控えめに存在している。地上が活気に満ち溢れているその端っこで、夜の訪れを待っていた。地下へつながる階段横には今夜の出演者がPOPな文体で書かれている。「フルーツポンチ」「48人の小人たち」「MAYAKASHI」とある。どの名前も、電車の中吊りや大型ビジョンで流れたりはしない。よって、彼女たちの声は地上まで届かないまま消えてゆく。

階段を降りると年季の入った出入口からは、何やらにぎやかな音楽が漏れてくる。ドアの前には「リハーサル中」のカードが貼られている。ライブフロアに入ると、一気にそこは独特な匂いになる。薄暗い照明のせいなのか、それとも多くのアーティストたちが残した汗の香りなのか。湿り気とタバコと汗、それらが長年かけて均等にその場を占領していた。半円形になった客席には、出演者たちが程よい距離を開けて立っていた。彼女たちの視線の先にはステージでリハーサルをしているアーティスト。その目には、「私たちより、かわいくない。」「私より、歌が下手だ。」と書いてある。共演者を静かに値踏みし、自分を勇気づける。対するリハーサル中のアーティスト達は「私たちは、まだ本気は出していない。」とでもいう様に控えめなダンスを踊り、早々と次の曲目へ移ってゆく。そして、「本日もよろしくお願いします!」と満面の笑顔を客席側に振りまくと舞台袖へ消えていった。

「次、MAYAKASHIさんお願いします。」
ライブハウスのスタッフに呼ばれると、4人の女の子がむくりと立ち上がりステージへと向かう。一番初めにステージに立ったのは、外国人のような容姿を持った快活な女の子だった。彼女の名前はイザベラという。イザベラは、真ん中のスタンドマイクからマイクを抜き取ると思い切り声を張り上げた。その声は、芯があり、しなやかさもあわせ持っている。何より声量が凄まじい。PA席のスタッフが慌てて音量を下げたのが見て取れた。同時に、客席にいる出演者たちが「ほう。」といった風に顔をあげ、彼女を見た。実力の差を見せつける彼女なりの挨拶が終わる頃、マイクをとったのはバッチリメイクと真っ赤なワンピースで着飾った女の子だった。彼女の名前はマイコという。グロスで艶々とした唇を尖らせて「よろしくお願いします~。」と語尾を泳がせた。リハーサルにも関わらず、女であろうとするマイコの姿を見て、出演者たちは静かに失笑する。その後、自分たちもほとんど同じである事実が彼女たちの胸をチクリと刺した。マイコの音量調整が終わると、ショートヘアの中性的な女の子がマイクを持った。彼女の名前はハイネという。気だるそうに持ったそのマイクは、彼女の華奢な体には重そうに見えた。ハイネは、どこか恥ずかしそうにハスキーな声を出したのち「大丈夫そうです。」と言った。その最低限な動作に、客席にいた女性陣は好印象を覚えた。そして、イザベラ、マイコ、ハイネの視線の先には1人の女の子が立っている。彼女の名前はアイ。透き通った雰囲気は、整形などでは決して手に入らない美しさだ。気づけば、そんな彼女の動作を会場中が無意識に目で追っている。彼女は、風のような頼りない声を鳴らした後小さく会釈をした。彼女を眺める出演者たちの目が、一瞬妬みで重くなったがすぐに諦めの色で薄まった。

「では、一曲目からワンコーラスずつ歌っていきます。」
イザベラが、そう言うとPA席のスタッフが頷きカラオケCDの再生ボタンを押した。キラキラとしたサウンドに、しっかりと効いたバスドラム。そうして、長めのイントロが終わる頃、彼女たちが「聴いてください!GARA-GARA!」と叫ぶ。だが、目の前にいる出演者たちはもう品定めを終え、誰も彼女たちの歌を聞いていなかった。

地上ではこの日、
NHKホールでaikoが観客を沸かせていることも
大型ビジョンでは未だにヒアリの注意喚起が流れていることも
地下二階で歌う彼女たちにとって、掠りさえしないどうでもいい出来事だった。

ハイネの章「I Can」

2018年11月3日。杉並区。
廊下の方から、跳ねるような生徒たちの声と足音が聞こえてくる。どうやら隣の教室の授業が終わったらしい。だが、一枚の壁を隔てたこの部屋は全くの別世界であった。生徒たちが、一心不乱に木炭を紙の上に滑らせている。その木炭と紙の擦れる音と、教室の端に置かれた時計の音だけがその部屋を支配している。生徒たちの視線の先には、美術の世界を覗いたことのない人からするとあられもない姿の女の裸体がある。椅子の上に片足を立てて座るその陰部は、恥ずかしげもなく解放されていた。だが、生徒たちは顔色変えずに手を動かし続ける。生徒たちの頭の中は、その手入れのされきっていない艶めかしい肌の質感を紙に写し取ることで精いっぱいなのであり、裸体の女はただのオブジェなのである。

ハイネも、その教室の隅から女をデッサンしていた。その紙には、女の輪郭が陰影によって浮かび上がっている。ハイネは、木炭を平たく持ち直し女の肌のざらつきと、その中に秘めた若さ特有の張りを描き込んでいく。そして、何度か視線を紙と女と行き来しているうちに正解を見失った。目の前の女は、目を離した隙に少しずつ変化しているように思えた。そうすると、ハイネは急に気だるくなった。女に視線をやるふりをして時計を見る。授業が終わるまで残り30分。やる気を失ったハイネは、木炭をカッターで削ったり、描かなくてもいい線を描いたりしながらその時間をやり過ごした。

授業が終わり、生徒たちが昼食を求め学食へ向かっている頃ハイネは喫煙所でタバコを吸っている。外階段の3階と2階の間にあるこの場所は人気がなく、ハイネのお気に入りの場所だった。階段の段差に腰かけ、ハイネは気まぐれに揺れる煙を見つめていた。そして、二度と同じ形を作ることのない煙の神秘さにも感動しない自分の心を静かに嘆く。

入学前の彼女は、こうではなかった。それなりの期待と野心を持って、美大の桜の下をくぐったのである。高校まで続いた「正解」のある生活から解放され、美術という「正解のない」問いに4年間挑むつもりだった。しかし、いくつかの失望が彼女を待っていた。一つ目は、結局美術にも教授たちの望む「正解」があること。次に、その正解以外で評価されるためには教授たちの想像を超える「才能」が必要だということ。そして、最後にハイネは自分の才能を信じるという盲目さが欠けていたこと。彼女は、冷静にわかってしまったのだった。自分の才能がそれほどでもないこと。よって、教授たちの「正解」を演じることがこの場所での自分の生き方なのだと。それからというもの彼女にとって大学は、社会に出るまでの長すぎる暇つぶしになった。

「ここにいたんだ。」
階段の上の方から声が降ってくる。ハイネが、振り返るとそこには顔見知りの女がいる。ハイネは、その女と何度か寝たがその関係は非常にフラットなものだった。よって、等しい距離を保ってその関係は続いている。
「タバコ切らしててさ。一本ちょうだい。」
ハイネは女にタバコを渡し、火をつけてやる。その時、女の唇に塗られたグロスが吸い口にへばり付くのを見つめていた。そのグロスに向かってハイネは話題を振る。
「デザインの課題、どんな感じ?」
「んんー、昨日できたんだけど気に入らなくてもっかいやり直してるとこ。かなり、ヤバイ。」
「へえ、偉いじゃん。」
「今回の作品は、コンペに出そうと思ってさ。」
ふとハイネは、期待で輝く女の顔を見た。その顔は、自分の才能を信じて挑み続ける人間特有の自信にあふれていた。ハイネは、居心地が悪くなる。なぜなら、彼女の作品にハイネは才能を感じたことがなかったからだ。でも、彼女には「盲目さ」がある。それだけで、ハイネよりかは将来が明るい気がした。
「じゃ、私行くわ。」
「あ。ハイネのやってるガールズグループ?ネットでバズってるじゃん。今度、ライブ誘ってよ!」
「うん。」
そうして、ハイネはタバコとライターをポケットにしまうと階段を降り始める。一段一段、降りてゆくたびにハイネは恥ずかしい気持ちになった。ハイネにとって、6月にアイのライブ写真がネット上にアップされたことで起きた拡散という嵐は「ただの偶然」としか言いようがなかったからである。

スマートフォンが、ポケットの中で小刻みに震えた。ハイネは、その画面を確認する。そこには「高橋 マネージャー」と表示されていた。
「お疲れ!ハイネ、今から事務所に来れる?」
「いけますよ。」
「じゃあ、なるはやで!」
それだけ言うと、電話は切れていた。ハイネは、短くため息をついてスマートフォンの時計を見た。東高円寺にあるこの大学から渋谷の事務所まで、約20分。時間にするとあっという間だが、乗り換えがある分ハイネの腰は重い。彼女は、「よし。」と自分を鼓舞して駅へ向かう。

渋谷の道玄坂にある雑居ビルの3階にMAYAKASHIの所属するインディーズレーベル「ホワイトニングブラッシュ」はある。ハイネは、軋んだ音を立てるエレベーターに乗り込み埃っぽい匂いを吸い込まぬように息を止める。3階に到着すると、ハイネは勢いよく息を吐きだし事務所のエントランスへ向かう。少し黄ばみ始めた白壁に、「ホワイトニングブラッシュ」という看板が取り付けられ、その前にはどこにでもある電話子機が置かれている。ハイネは、電話子機を持ち上げ「ハイネです。」と言った。するとしばらくして、エントランス横のドアからマネージャーの高橋が現れた。
「ハイネ!突然ごめんな!」
高橋は、トレードマークのキノコカットを揺らしハイネを手招きする。ハイネは、何も言わずに彼の後に従った。

会議室には、見知らぬ男性が2人いた。ハイネに気付くと、白髪を肩までなびかせ全身黒のコムデギャルソンでまとめた男性が立ち上がり名刺を差し出す。60代だろうか、耳元のピアスが彼の自信を裏図けるように輝いた。すると、隣のもやしのような青年も立ち上がって白髪ピアスに続く。そこには、ハイネも「どこかで聞いたことのあるような」デザイン事務所の名前が印字されている。促されるままハイネが着席すると、さっそくもやし男が口を開いた。
「さて、先日我々は、高橋さんからMAYAKASHIさんのビジュアルデザインのご依頼を頂きました。我々は、広告やベテランアーテイストさんのお仕事が多いのですが、久しぶりに勢いのある若手アーティストさんのお仕事を喜んでお受けしようと思っています。それで先ほど、ハイネさんが美大生だという事を聞きまして。これは、面白いな、と。」
「面白い?」
「ええ。ここまで自力で頑張ってきたグループが、有名になったとたん我々のような大人が介入して商品として洗練されてしまうのは何だかもったいない気がして。そこで、ハイネさんがMAYAKASHIさんのビジュアルをデザインし、それを我々がお手伝いすれば、元々の魅力が損なわれず等身大のいいものになるかと思いました。」
「はあ。」
ハイネは、話の大体を理解して頷いた。しかし、ここでも彼女の心はピクリとも反応しない。すると、今まで黙っていた白髪ピアスが物静かに話し出す。
「我々は多くの大物アーティストのデザインを手掛けてきましたし、広告では海外での賞もいくつか受賞しています。“学生”のハイネさんにとっても実りある経験になると思います。」
この白髪ピアスをハイネは好きになれなかった。「学生」という言葉にイントネーションを持ってくる業界人は多い。つまり、見下しているのだ。しかも、無意識だからたちが悪い。
「…で、私は何を?」
「まずは、MAYAKASHIさんのベストアルバムのアートワークからスタートできればと考えています。」
もやし男が、ファイルから資料を抜き取りハイネの前に広げた。
「ハイネさんと我々が協力して制作するのは、まずアルバムジャケットのデザイン、次に、ミュージックビデオ、そして、ツアーグッズの三点です。」
「大学の課題もあるので、時間が足りないかもしれないです。」
資料に目を落としながら、ハイネの声色が重くなる。すると、白髪ピアスがにこりと笑って言った。
「ご安心ください。まだハイネさんの技量もわかっていないので、ひとまずジャケットのデザインからやってみましょう。難しそうなら、我々がアシストさせていただきます。」
ハイネは、もうやることで決まったかのようなこの会話の退路を探して高橋さんを見た。しかし、彼の口元は涎が零れてしまいそうなほど緩んでいる。
「わかりました。とりあえずやってみます。」
そう言った自分の声が他人のようにハイネの鼓膜を揺らした。それから、白髪ピアスともやし男、高橋さんの三人で話し合いは進んで行く。ハイネは、そこにいないかのように控えめに頷きながら心の中では「どうでもいい。」という気持ちが分厚い膜を張っていた。打ち合わせの終わり、明日までにラフ画を描いてこの場所に集まることが決まった。

学芸大学駅のホームに降り立つと、辺りは大分暗くなっていた。ハイネが、改札を出て商店街の方に曲がると、いたるところから食べ物の匂いが漏れ出している。その匂いは、いつも暖かく、そして、どことなくハイネを寂しくさせる。ハイネは、歩きながらLINEを開き無料通話ボタンを押した。コール音が数回鳴ってから電話が取られる。
「もしもし。」
「アイ、冷蔵庫の中見てくれる?」
「わかった。」
アイの服と携帯が擦れる音の後、冷蔵庫のドアが開かれた音がした。
「人参2本、ナスも2本で、後はキノコ何種類か少しずつある。」
「味噌はまだある?」
「半分くらいある。」
「わかった。じゃ、今夜はニンジンのしりしりとなすの炒め物と味噌汁でどう?」
「いいね。」
「ひき肉だけ買って、15分くらいで帰る。」
そう言って、ハイネは電話を切った。先ほどまで凝り固まっていた彼女の心はアイとの会話によって少しほぐれていた。商店街の肉屋でひき肉を200グラム買うと、彼女の足取りは早くなる。ナチュラルローソン横の信号が青になる前に彼女は走って渡ってしまった。

世田谷区の閑静な住宅街で育ったハイネだが、意外とこの街に思い入れは薄い。建築士として海外で働く両親は、家を空けがちであったし、3つ上の兄は全寮制の高等学校に進学したのでハイネは早い段階で半分自立した生活を送ってきた。もちろん、家族との仲は良好だった。両親に反抗したこともない。クリスマスや、年末年始は家族全員で過ごしたし、一年に一回は家族で海外旅行に行く。そう言った意味では、一般的な標準をクリアした家族だとハイネは思っている。しかし、たとえそのような行事を家族で過ごしても、気遣い合っても、そこには「営み」が欠けていた。だから、彼女にとって世田谷は地元であれど、故郷と呼べるほど親しみを感じない。そんな彼女の生活ががらりと変わったのは、約一年前MAYAKASHIが結成されアイが同居するようになってからの事である。

「ただいま。」
両親によって設計された自宅は、平屋で玄関ドアを開けるとそこには巨大なワンルームになっておりスペースごとに取り付けられたカーテンを閉めない限りその部屋の様子を一望することができる。一面に張り巡らされたガラス窓の向こうには大きなシマトネリコが植えられた庭がある。天井が高く取られた設計は、両親曰く「解放感を重視した。」とのことだが、この巨大で天井の高いワンルームに1人でいるとハイネは体育館にぽつんと佇む自分の姿を想像してしまう。しかし、今のハイネはそんなことを想像する必要がなかった。
「おかえり。」
ソファから頭だけひょっこりと出したアイが振り返る。
「ご飯あと30分待てる?」
「うん、味噌汁は作っておいた。」
「さんきゅ。」
ハイネは、ひき肉を冷蔵庫にしまい、手を洗いうがいをする。そして、冷蔵庫からニンジンを取り出し包丁で細切りにしてゆく。その手際の良さには、彼女の長い自立した生活が透けて見える。フライパンの上でニンジンを炒めながらアイに話しかける。
「今日は何してたの?」
「イザベラの個別レッスンとマイコのお手伝い。」
「うわ、濃い一日だ。」
ワンマンライブが決まってから、イザベラは張り切ってメンバーの歌唱力向上の為に個別レッスンを始めた。しかし、イザベラの歌唱力は誰もが認めるものだが、そのレッスンの熱血ぶりにメンバーたちは置いてきぼりにされていた。マイコはイザベラのいないところで彼女の文句を言っているし、ハイネはそれを黙って聞いてやる。マイコはというと、連日テレビ局への売り込みと会食を繰り返し、2キロ太った。よって、ハイネとアイの時間のある時は彼女の代わりにテレビ局へ売り込みに行っている。
「でも、いい一日だったよ。」
そういったアイの顔は満足そうだった。ハイネは、自分だけ蚊帳の外にいるような感覚になる。深い共感と、惜しみない情熱というものをハイネはこのグループに注げなかった。だからいつしか彼女は、MAYAKASHIとは3人のグループで自分はサポートメンバーという感覚で活動していた。ハイネは、感情的になる自分も、夢に溺れる自分も見たくなかった。

食事が終わると、アイが食器を洗い始めた。ハイネはと言うと、スケッチブックを開き何やら描き込んでいる。今日、新たに宿題となったジャケットデザインのラフ画だった。水道が止まる音がすると後ろからアイの声が降ってくる。
「それ、なに。」
「次のアルバムジャケ写のラフ画。」
「じょうず。」
「こんなの落書きだよ。」
「おしゃれ。」
「今流行ってるもの詰め込んだだけだよ。」
アイが、小さく息を吸う音がした。流石に否定しすぎたかな、とハイネが振り返るとアイは「おやすみ。」と言ってアイのスペースのカーテンを閉めた。ハイネは、カーテンに向かって「おやすみ。」と言って頭を掻く。そうして、もう一度ラフ画を見る。だが、それはやっぱり浅はかで正解以上を期待しないハイネそのもののような出来だった。

2018年11月4日。渋谷。
ホワイトニングブラッシュの会議室では、長い沈黙が生まれていた。ハイネのラフ画を前にデザイン事務所の男たちは黙り込んでいる。ハイネは、急に胃が固くなるのを感じた。彼女は、大学の教授たち以外の前で自分の作品を発表したことがない。よって、彼らの顔色を覗き込んではその不透明な表情に不安が募った。しばらくして、白髪ピアスが口を開いた。
「ハイネさんは、この作品を通して何を伝えたいと思いますか?」
予想外の質問に、ハイネの心臓が震えた。
「えっと、グループの力強さとフレッシュさです。」
「それが、伝わってきますか?」
口元に穏やかな笑みを残したまま、白髪ピアスはラフ画をハイネの方に向ける。その目は、笑っていない。
「…まだ、たたき台の段階なので未熟だと思います。」
当たり障りのない返しを、ハイネは絞り出した。しかし、ハイネの逃げ道は白髪ピアスに簡単に塞がれる。
「これは、平均的な技術があれば誰でもできる作品だと私は思いました。つまり、あなたである必要のない作品です。」
「はぁ。」
「おそらくこの淡い色使いは最近流行りのK-POPからの引用で、ざらついたビンテージ感のあるフィルターは洋楽気取りだ。メンバーの顔の一部しか見せない演出も、雰囲気はいいですが果たしてMAYAKASHIのフレッシュさを訴えられるでしょうか?」
「私がこういうと、あなたは次にきっとMAYAKASHIの顔を出して何やら躍動感のある素材を作り、また誰かの作品の真似をしたものを私たちに見せるでしょう。これでいいでしょ?とでも言いたげな作品です。」
鋭い言葉の束に、ハイネは圧倒される。それと同時に、小さな反抗心も芽生える。
「貴重なご意見ありがとうございます。では、具体的なアドバイスをいただけますか。」
挑発的なハイネの言葉に、白髪ピアスの隣に控えたもやし男が応える。
「時間がないので単刀直入に言いますが、まだあなたはアドバイスを受ける舞台にたどり着いていない。勝負をしていないのです。私たちが、今日感じた事はあなたがこのグループへの愛情が薄そうなこと。だから、この作品は死んでいるようにも見える。作品は作者の鏡です。つまり、あなたが本気で向き合わない限り、我々がアドバイスしたとしても、あなたは今のご自分と同じような中途半端なものを作り続けるだけです。」
淡々とそう言った彼の言葉は、ハイネの心を確かに傷つけた。そして、傷ついたことにハイネは驚いていた。
「厳しいことを言ってしまいましたが、あなたがこれからも、芸術と関わる世界に身を置くつもりなら、乗り越えなければならないことです。だから、言いました。次回のラフ画は、私たちのメールアドレスに送ってください。メールでやり取りしましょう。」
もやし男の提案に、白髪ピアスが被せる。
「もし、やりたくないようでしたら送らなくても構いません。強制はしません。期日は…今夜、日付が変わるまでにしましょう。それまでにご連絡がなければ、私たちからアイデアを提案する方向で動きますので。」
ハイネは、二人の顔が見れなかった。きっと穏やかな表情で話す彼らを見たら、自分の怒りが彼らに気付かれてしまう気がした。だから、彼女はその手をぎゅっと握って耐えた。

ハイネは、大学の喫煙所にいた。大学には特に用事もなかったが、真っすぐ家に帰る気分になれなかった。彼女は、校舎の間から覗く夕日を眺めながらタバコを吸い続けた。今、彼女の頭の中は白髪ピアスともやし男に対する罵倒の嵐だった。
「頼まれたから作ったのに、あの態度は何なんだ。」
「あなた達はよっぽど素晴らしい作品を作れるんでしょうね。ひと昔前のご隠居なんて、もう錆びたブリキ人形じゃないか。」
「そもそも器用なデザイナーの方が需要あるじゃないか。私は、アーティストじゃない。」
「あなたの為に言っている、みたいなノリも気に食わない。そんなこと言ってくれって頼んでない。偽善者で、薄汚い大人のやり口だ。」
罵れば罵るほど、ハイネは怒りの蛇口の閉め方が分からなくなった。勢いよくほとばしるその汚い言葉は、彼女をますます惨めにする。

「死ね。」

そう呟いて、ハイネはまだ半分ほど残るタバコを足元で踏みつけた。こんな感情的な自分が恥ずかしく、早く自分の心が落ち着くことだけを願った。ハイネは、スマートフォンを取り出し顔見知りの女に「会いたい。」とラインを打つ。すると、すぐに既読がついた。「今、どこ?」の文字が「フォンッ」という間抜けな音と共に表示される。「喫煙所。」とハイネが打ち込む。そして、「今行く。」という返事が届くころにはハイネは少し穏やかな気持ちになれた。

「珍しいね。ハイネから呼び出すなんて。」
振り返ると、繋ぎ姿の顔見知りの女が立っている。ハイネは黙って彼女のスペースを開けた。女が座ると、ハイネの肩とぶつかる。そこからジワリと伝わる体温がハイネを落ち着かせた。
「なんかあったな。これは。」
女は楽しそうにハイネの顔を覗き込んでタバコの火をつける。
ハイネは、全然愉快じゃないとでもいうような顔を作ってから女にもたれかかった。
「気分が良くないんだよ。」
そう言って、ハイネは今日の出来事を話した。その間、女は黙って聞いていた。だから、ハイネはまるで独り言のように自分の感情を吐き出した。それは、とても幼稚な悪口であったし、不格好な文章だったが、そんな姿をこの女に見られても構わないと思った。ハイネの話が終わると女は悪戯そうに笑う。
「へえ。ハイネにもそんなことあるんだ。」
「無いと思ってた?」
「ハイネっていつも低体温じゃん。」
「そういう自分でいたかったんだけどなあ。」
「出た。完璧主義。」
「そうかなあ。」
「おまけに意外とプライド高いよね。」
「ひどい。」
女の横顔がますます楽しそうになる。だが、ハイネは不思議と彼女に指摘されるのは嫌じゃなかった。昼間はあんなに腹が立ったのに、今、腹が立たないのはなぜなのか。ハイネは、ふとそんなことを思った。
「なんで、私たちうまくいってるか知ってる?」
吸い終えたタバコを、放り捨てて女が言う。
「え。お互い楽だからじゃないの?」
「違うなあ。」
「なぞなぞかよ。」
ハイネは、女にもたれかかるのをやめて新しいタバコに火をつける。
「多分、ハイネは私のことを自分より下だって思っているから楽なんだよ。だから、私を大切にしなくてもいいし、私に傷つけられることもない。」
「で、私がハイネを好きなこともちゃんと分かっていて。優しくしてくれるって思うから、こうやって甘える。」
ハイネは口の中が酸っぱくなるのを感じた。言葉にしたことがなかっただけで、それはハイネの気持ちを言い当てていた。女は話し続ける。
「私からしたら、そんなチームと仕事できるなんてほんと羨ましいし、嫉妬する。」
「じゃあ…その人たち、紹介しようか?」
この不穏な会話を終わらせたくて言ったハイネの一言で、女の顔が土色に変わった。まずい、と思ったがもう遅かった。

「ムカつく。」

女はそう吐き捨てて、去ってゆく。ハイネには、その背中を呼び止める勇気がなかった。

自宅に戻ったハイネは、女のトークページを開いては閉じと繰り返している。ただ「ごめん。」と送れば済むようにも思えなかった。ハイネは、わざとらしくため息をつく。すると、テレビを見ているアイがちらりと振り返る。しかし、何故かハイネはアイには甘えられなかった。女の言葉に当てはめると「アイは自分より上」だと思っている自分に気付く。ハイネは、ますます重くなった肩を落とす。「何でもないよ。」とアイに言って、ハイネはまた画面に目線を戻す。すると、フォンッとスマートフォンが鳴った。不意を突かれたハイネは思わず立ち上がる。
「ハイネ。今日は、言いすぎたかも。ごめん。」
そう表示された画面をじっと見つめてハイネは「負けた。」と思うと同時にホッとする。
「ううん。私こそ、ごめん。そっちの気持ち考えられてなかった。」
間入れずに返事が届く。
「その人たちの言っていることは間違ってないってハイネはちゃんとわかってると思う。だから、腹が立ったんだよ。」
「おせっかいかもしれないけど、そのデザインチームについて調べたからURL送っておくね。何かの役に立つかも。」
「PS、ファイト!!!」
ハイネは次々と届くメッセージをただ見つめていた。送られてきたURLを開くと、社名が彫り込まれた壁の前でにこやかに笑う白髪ピアスともやし男が現れた。ふつふつ、とハイネの中で何かが燃え上がる。それは、彼女の人生で初めての「闘志」だった。

ハイネは、時計を見る。「19時55分」。タイムリミットまで、あと、約4時間。ハイネは、勢いよくカバンからスケッチブックと絵の具を取り出し作業に取り掛かった。
「絶対に、見返してやる。」
そう言葉に出してみると、ハイネは体の隅々まで血が行き渡るのを感じる。そして、紙に鮮やかな色を思うがままに走らせた。赤、サワーグリーン、黄色、紫…夢中に駆け巡るその色たちは、MAYAKASHIの姿に近づいてゆく。その4色は、交じり合うほど一つの塊のようになり、ハイネは自分がこの中にいるのだと実感する。
「誰の真似もしない。」
「正解じゃなくてもいい。」
「あいつらの想像を超えてやる。」
ぶつぶつと呟くハイネの声に背を向けて、アイがゆっくりほほ笑んだ。

マイコの章「Luv Sick」

2018年10月5日。新宿区。
東京の早朝は爽やかじゃない。青白くなってきた空の下、高層ビルたちが気だるく浮き上がってくる。始発を待つ酔っ払い達や、名残惜しそうに輝く歌舞伎町のネオンをマイコはタクシーの窓から見つめた。ニュークラブでのバイトを終えたマイコの身体は今にも燃え尽きそうだった。そのうちタクシーは高架下に差し掛かり、一瞬彼女の顔が窓に反射する。その顔は、完璧に装った先ほどまでのマイコとは別人のような無防備さでマイコは慌てて鏡のついたアイシャドウケースを取り出した。そして、鏡を見つめ忌々し気にほうれい線に溜まっているファンデーションを指で伸ばした。

「ただいま。」
玄関で、ヒールを脱ぐと彼女の足は浮腫み、充血していた。ため息交じりに、ワンルームのドアを開ける。すると、そこにはベッドの上で靴を履いたまま横たわる男がいた。
「あれ。高橋さん、来てたんだ。」
マイコが声を掛けると、高橋は虫のように身をよじらせ彼女の方へ顔を向けた。
「近くで飲んでて、終電逃したから。」
「ここは、君の宿じゃないんだよ~。他の男の子と鉢合わせたらどうするの。」
「はは。そん時は、静かに退散するよ。」
マイコは、「まったく。」とわざとらしく鼻息をたてながら高橋の足からコンバースのスニーカーを脱がす。抜き取った瞬間に、むんと動物のような生暖かさがマイコの掌に伝わった。思わず眉をひそめた彼女の後ろから高橋の腕が伸びる。彼女は、されるがまま高橋に抱きしめられた。
「今日は、他の男いないからいいよね?」
アルコールと食べ物の匂いを口から吐き出しながら、高橋はマイコの耳元で囁く。そして、マイコの答えを待たずに、高橋は服の上から彼女のブラホックを外そうとする。
「救いようがないね。」
彼女は、くるりと体を回転させ高橋の唇に短いキスをした。
「する前はシャワーを浴びて、歯を洗って。いつも言ってるでしょ。」
すると、高橋はニッと笑って言った。
「僕、救いようがないからさ。」
「まあ。私も似たようなもんか。」
そうして、マイコはシャワーを浴びず、歯も磨かずに服を脱ぎ高橋と重なった。「似た者同士」という言葉が彼女の身体を熱く、そして濡らしていた。

午後、太陽の光がカーテンを突き破る頃マイコの朝はやってきた。太陽から逃げるように身をよじり起き上がる。隣に高橋の姿はない。ただ、枕にできたくぼみが高橋の余韻を残していた。
「ほんと、男ってくだらない。」
マイコは、自分の独り言に苦笑した。彼女の男の記憶は、いつもだらしなく、ひ弱で、羽を休めたら過ぎ去ってゆく、そんなものだったからだ。そして、マイコはいつもそんな男を抱き、飛び去る背中を見送ってきた。そんなことを、10代から繰り返している。
「まだまだ、若い。」
自分を勇気づけるように、彼女はベッドから抜け出る。太陽の光が、彼女の身体の凹凸を照らすのをうっとりと鏡の前で眺める。そうして、時計を確認した彼女は足早に今日に追いつこうと動き出した。

午後3時。表参道にあるカフェではマイコとアイが向かい合って食事をしている。黙々と食事をとる二人に会話はなく、楽し気な雰囲気は感じられない。よって、賑やかな店内で二人はある意味浮いていた。マイコは、皿の上に盛られた草たちをゆっくりと噛みながら、ふと「ハイネはアイとどんな会話をするのだろう。」と気になり始める。
「ねえ。アイってさ。普段、ハイネと何話してるの?」
マイコの声賭けに、アイが顔をあげた。その口元には、ドレッシングが跳ねている。マイコは、手を伸ばしナプキンでふき取ってやる。
「今日何したか、とか。」
「何それ。親との会話じゃん。」
「冷蔵庫の中に食材なに残ってるか、とか。」
「業務連絡だよ、それ。」
アイは、マイコの返しにくすりともせず首を傾げた。マイコは、小さく苛立つ。それは、嫉妬と歯がゆさが入り混じった結石のように彼女の内部を引っ掻いた。
「ねえ。早く食べて。写真撮るよ。」
そう急かすと、アイは再びサラダを口に運び始める。マイコは、「少し高圧的だったかもしれない」と心の中でため息をつく。男と同じで、「好かれたい」は「好かれなかった」時マイコをひどく傷つける。自分の矛盾な態度に、マイコは「女の子に嫌われるのはなれっこだ」と蓋をした。

アイがサラダを食べ終えたのを確認すると、マイコは立ち上がりアイの後ろから顔を出して自撮りを始める。アイより少し後ろに顔を引き、マイコはカメラレンズに向かって笑い続ける。そして、何枚か撮り終えると撮った写真を確認した。
「ちょっと。笑いなさいよ。アイ、全部真顔じゃん。」
「わかった。」
「…まあ、撮りなおさなくてもいっか。」
マイコは、にっこり笑ってお会計伝票を取った。そのまま、レジへ進むマイコの後をアイが追う。会計を済ませ、ガラス扉を開けると蒸し暑くも肌寒くもない中途半端な季節が広がっていた。アイが、追いつきマイコにぺこりと頭を下げる。
「ごちそうさまでした。」
「どういたしまして。今日は私、夕方から会食だから営業周りはなし。という事で、ここで解散!」
そうマイコが言うと、一瞬アイの顔が曇った。だが、それはほんの小さな差でマイコにはそれが何を指すのかわからなかった。
「変なの。」
アイに背を向けて歩きだしたマイコは心の中で呟いた。
「もしかして、営業行きたかったのかな。」
「もしかして、私と一緒に居たかったのかな。」
そこまで考察していると、妙にむず痒い気持ちになった。それらは、マイコにとって「そうであったらいいのにな。」という妄想だった。
「そんなことあるわけない。」
そうして、このモヤモヤをぴしゃりと跳ねのけて、彼女は地下鉄の階段を下りてゆく。携帯を取り出し、歩きながらSNSのアプリを立ち上げる。
「今日は、アイちゃんとランチしてきたよ~~。女子同士、話すことは沢山あって切りないね。内容は…内緒♡」
アイとの写真を添付して、投稿する。投稿が完了すると、マイコは自分のアカウントページを開く。そして、フォロワーが今日も増えていることを確認すると、マイコはその数字を見つめ口元を緩めた。あらゆる手立てを講じてもフォロワー数が伸び悩んでいた過去が嘘のようだった。

3か月前、たまたまMAYAKASHIのライブを見た人がアイの写真をネットに投稿したことが始まりだった。すると、その写真は瞬く間に世界中に拡散され、アイは「地下アイドルの奇跡」と呼ばれるようになった。ネットニュースになり、まとめ記事が作成され、事務所に問い合わせの電話が殺到した。
「アイ!アイ!アイ!アイ!」
多くの人が、ネットの向こうでアイを求めた。続けざまに、業界人もアイを求めた。まるで、他のメンバーは蚊帳の外のような熱狂だった。その様子に、マイコは酸っぱい気持ちになっていた。ハイネやイザベラが素直に喜んでいる姿に、怒りすら覚えた。
「私を、見てよ!」
マイコの心は、そう叫んでいた。

「アイは、個人アカウントを作らない方がいいと思う。」
メンバーと高橋さんとの定例会議でマイコはそう提案した。
「ミステリアス感があったほうが、アイは生きると思うし。あたしたちのアカウントに時々出てくる方が、謎な感じが残っていいと思うんだよね。」
「なるほど。確かに。」
「マイコって、案外ちゃんと考えてるんだね。」
ハイネとイザベラが同調する中、マイコは「しめた。」と思った。マイコの頭にあったのは「アイだけに集中する注目を、自分にも向けたい」という企みだった。

18時、渋谷はゆっくりと姿を変えようとしていた。昼間は若者で溢れていたその道を、夜は大人たちが踏みしめる。昼間は隠れていた飲食店が電飾と共に目覚める。それはこの街のもう一つの顔のように見える。子供でも大人でもないマイコは背筋を伸ばしカメレオンのように大人たちに溶け込む。そしてセンター街を抜けとあるビルの前で立ち止まった。携帯で、店名を確認すると地下の居酒屋へ消えていった。
「マイコ、こっち。」
店に入ると、角から高橋が手を振っている。促されるまま、マイコが高橋の隣に着席した。高橋が、タバコに火をつけ話し出す。
「今日は、朝の情報番組を作っているプロデューサーさん。最終目標はMAYAKASHIの特集を組んでもらう事!」
「了解。」
「あと、アイドルオタクな人だから攻めちゃって。」
「わかった。軽くボディタッチでもしとく。」
「えらいえらい。」
高橋が、マイコの頭をポンポンと撫でた。マイコは、その手を振り払い高橋を睨みつける。「おお、怖い。」と高橋がリアクションを取るのとほぼ同じくして、入り口からプロデューサーが入ってきた。すぐさま、二人のスイッチが入る。
「お疲れ様ですー!お忙しい所ありがとうございます。こちらうちの事務所に所属しているMAYAKASHIの子です。」
「マイコです。よろしくお願いします。」
「最近すごいよね。MAYAKASHIさん。」
「まだまだこれからなのでお力貸していただけたらと思いまして。」
「またまた~。知っていますよ。問い合わせが殺到してるって。」
男は七福神の恵比寿さまのような容姿だった。その豊かな腹を揺らしながら、高らかに笑っている。マイコはと言うと、彼と調子を合わせ笑いながらワイシャツのポケットから透けて見える赤マルを確認し記憶していた。タバコの銘柄を覚えておけば、大概男は悪い気にはならないし、飲み会などでバックに忍ばせておくと喜ばれる。それは、マイコが水商売のバイトで学んだことの一つだった。マイコは恵比寿さまが高橋に放った言葉をはじめ聞き逃しそうになった。
「そういえば!高橋君、結婚するんだってね?」
「え。」
まさかの発言にマイコと高橋の声が重なった。その反応に、今度は恵比寿さまが目を見開く。
「うちの部下のフェイスブックに写真が挙がってて。どう見てもフィアンセ…高橋君だなって。」
「え、いやあ。似ている人じゃないですかね。髪形がキノコみたいな男は、たくさんいますし…。」
高橋の声が上ずっていた。その様子に恵比寿さまは何かを察し口を開く。
「あっ、まだ事務所の関係者には言ってなかったんだー!マイコちゃんだっけ。内緒にしてあげてね!」
これでこの話はおしまい!と言ったように恵比寿さまはポンと手を叩いた。マイコは、思わず高橋の方を向く。すると、高橋はマイコの視線から逃げるように恵比寿さまと話し始める。それだけで事実であることが分かった。そして、同時にマイコはその事実に自分が衝撃を受けている自分に驚いた。
「それにしても、アイちゃんって子。どこで見つけたの?とんだ宝石だよね。」
「それが、たまたま渋谷で歩いてるところ見かけて声かけたら家出少女だってわかって。」
「うわ。棚から牡丹餅だね。しかも、家出少女ってとこも美味しい。」
「ですよね!それから僕、猛アプローチ掛けて!いやあ、女性にあんなに求愛したのは初めてってくらいに!」
「わはは!まるで発情期の鳥だね。」
二人の意味のない会話が、マイコの頭を通り過ぎてゆく。ただただ調子を合わせ笑っているうちに、時間が流れマイコを置き去りにする。そうして、会も終わりに差し掛かり話がうまくまとまった時、マイコはようやくすべてを理解した。
「この場所に、私は必要なかった。」
「高橋さんに、私は必要なかった。」
「私は必要なかった!」
恵比寿さまがタクシーに乗り込むのを見送ると、マイコは逃げるように速足で駅の方に歩き出した。心のどこかで、高橋がマイコを呼び止め「ごめん。言うタイミング逃しちゃって。」と困った顔で謝ってくれることを期待しながら。しかし、駅に着くまでマイコの背中に声を掛けてくれる者は誰もいなかった。

2018年10月6日。新宿。
相変わらず代わり映えのない朝がマイコの頬を焼いた。ベッドから体を起こすと、目の前に広がる景色は昨日と何も変わらない。それなのに、マイコの中には決定的な孤独があった。高橋からのLINEを開き、マイコはため息をつく。
「昨日は、お疲れ様!ナイスプレーでした!」
その文面から高橋さんの「なかったことにしたい。」という意図を読み取ることはマイコにとって簡単だった。
「無事うまく進んでよかったです。」
そう打ち込んで、マイコはなかったことにされた自分をゴミ箱に捨てた。彼女にとって、それは「よくある事。」だった。ただ、予期せず訪れた点に彼女は悶々とさせられていた。
「誰かに、聞いてもらってすっきりしよう。」
そう声に出して言った後、マイコはさっそく携帯を開き連絡先のフォルダを開く。しかし、その数百件に及ぶ連絡先の中から適した人を選べない。店の客、身体だけの関係の男たち、上辺で繕う女たち、そして、MAYAKASHIのメンバー。探せば探すほど、自分にはこのような話を打ち明けることのできる人間がいないことに気付く。彼女のフォルダを満たしているのは、腹の足しにもならないサラダのような、意味のない文字の羅列だった。一番多くの時間を過ごしているメンバーにさえ、高橋との関係を打ち明けられない。「お前は一人なのだ」と握りしめた携帯がマイコに宣告している。
「救いようがない。」
それは、自分の為の言葉だった。

夕方、マイコはハイネの家にいた。ワンマンライブが4日後に迫り、決起会と称してメンバーそして高橋が集まっていた。ダイニングテーブルの上には、ハイネが腕を振るった料理がある。食べ物たちから立ち上るいかにも家庭的な匂いと湯気。マイコはその向こうにある近いようで遠い彼らの姿を眺めている。すると、マイコにイザベラが声を掛けた。
「マイコ、今日おとなしいね。」
「その方がイザベラにとってはいいでしょ。」
「まあ、そうだけど。でもさ、一応心配じゃん。」
思ったことをそのまま言ってしまうイザベラが、マイコには眩しく、そして疎ましかった。視界の端に、二人が喧嘩を始めないか心配するハイネの顔がある。アイは無言で食事をしているし、高橋は口元に微笑みさえ浮かべている。心配し合い、顔色を窺い、時に嘘をつきながら笑いあう。この場所にある空気が、穏やかで温かいものであればあるほど、マイコは胸を掻きむしりたくなった。なぜなら、そこにマイコの欲しい「友達」はいないのだから。

「友達ごっこかよ。」

そう言ってしまってから、マイコはハッとしてイザベラの顔を見た。蒙古ひだの無い大きな目を一杯に開いて、イザベラは固まっている。その顔が徐々に赤みを増していくのを、マイコはこれ以上見ていられなかった。
「ごめん。帰るね。」
立ち上がり、荷物を掴むと一目散に玄関へ走った。皆の気配が、マイコの背中から遠くなってゆく。胸に様々な叫びがもつれあい、マイコは息苦しくなる。
「引き留めて欲しい!」
「一人にしないで!」
彼女の頭に自分の願いが鳴り響いた。
「好きになってほしい!」
「私を嫌わないで!」
「でも。」
乱暴にヒールに足をねじ込む。その反動で、ストッキングの先が割ける音がした。
「叶わないなら…思いっきり嫌って欲しい…。」
玄関のドアノブを掴んだマイコの手の甲に温かいものがぽたりと落ちた。その瞬間、涙が溢れ出す。それは、ゴミ箱に捨てたはずの過去のマイコそのものに思えた。涙は、止まることなく気持ちよさそうに彼女の頬を駆けていく。マイコはドアノブから手を離し再びヒールを脱いで引き返す。皆の姿が、カウントダウンのように近づく。涙に溶けてゆく丹念なメイクも、指先が破れたストッキングも、もうどうでもよかった。ダイニングテーブルの前に立つと、4人の視線がマイコに集中する。不自然な静寂に、マイコの声が響く。

「ごめんね!!なんか私、今すっごく寂しいんだよね!!馬鹿男のせいで生理とかじゃないのに、すっごく寂しくてなんか涙も止まらないんだよね!!」
「とりあえず、誰か抱きしめて欲しいんだけど!!」
そこまで一息で言ってしまうと、マイコは急激に恥ずかしくなった。それでも、心は爽快で軽かった。顔をあげると、メンバーが目と口を開け同じ顔をしている。その中で、高橋は何かがつっかえたような目をするのを、マイコは確かに見た。
「ざまあみろ。」
歩み出たハイネの胸に抱かれるのとほぼ同時に、マイコは舌を出して笑っていた。

イザベラの章「Dear Mama」

2018年11月7日。宇都宮。
1時間30分の間電車に揺られるというのは、短いのか、長いのか。二日酔いの朝ならもちろん途方もなく遠く、一年に一度親戚に会いに行くのなら近い。または、そこが好きな場所であるのなら近いし、ささくれのような思いがあるなら遠く感じる。湘南新宿ラインの車内に、「終点 宇都宮」とアナウンスが流れるとイザベラは首を回し、続いて肩を揉みながら重い息を吐きだした。どうやら、今日の彼女にとってこの道のりは遠かったようだ。程なくして、電車は速度を落とし、やがて止まった。威勢のいい学生たちが、電車から解き放たれたように飛び出してゆく。イザベラはしばらくその様子を眺めてから、ようやく腰を上げた。

宇都宮駅の東口から、飲み屋街を抜けると見慣れたアパートが見えてくる。昔、埃を被ったベージュ色の建物だったそれは、リノベーションによって近代的なグレーに姿を変えていた。真新しいエレベーターで3階に到着すると、大変身を遂げた外観とは違いそこは昔のままの姿でイザベラはホッとする。
「あんた、垢抜けたね。」
玄関のベルを鳴らすと、イザベラによく似た顔を持つふくよかな女が出迎えた。
「母さんは…ちょっと太ったね。」
「おい!かわいくない子だね!」
「冗談だよ。ただいま。今日、仕事は?」
「休み。だって2年ぶりに親不孝者の娘が帰ってくるんだから。」
「忙しかったんだよ。」
頬をわざとらしく膨らませた母の横を、イザベラはすり抜けた。母のスリッパが擦れる音を背中で聞きながら、廊下を抜けるとそこにはごく一般的な間取りがある。リビングがあり、その横に小さな部屋が二つ。そこに、簡素でも派手でもない家具が適当に置かれている。リビングのソファに腰かけると、クッションがわずかに沈みベビーパウダーのような家の匂いがした。そうして、ようやくイザベラは実家特有の落ち着きを手に入れた。
「あんた、今日泊っていくでしょ?」
「いや、明日仕事だから帰るよ。」
「でも…夕ご飯は食べていくでしょ?」
台所から、顔を覗かせる母の声が珍しくか細くなった。彼女の後ろにある冷蔵庫の中にはきっと、イザベラの好物が詰め込まれているのだろう。イザベラは、白旗をあげた。
「わかった。終電で帰る。」
「彼氏も呼んでるから、あんたに見せるよ。あんたの妹も、来る。」
「今度は、殴らない男なんだろうね。」
「優しい人だよ。」
「それ、前の彼氏の時も聞いた。」
イザベラの指摘を無視するように、母は鼻歌を歌いながらお茶を作っている。その様子に、呆れながらもイザベラは「繰り返し」について思う。フィリピンパブで働く母は、店にやってきた客と恋に落ちてイザベラを産んだ。だが、その男には奥さんがいた。次に、似たような出会いで工場勤めの青年と恋に落ちた。そうしたら、妹ができた。今度こそ、と思った頃にその男は母に暴力を振るうようになった。そんなことを、物心ついた頃からイザベラは眺めていた。呆れるほど同じ過ちを繰り返し、その度に傷ついてきた母ももう立派なおばさんになっている。感慨深くなったイザベラの鼻を、立ち上るエスニックなお茶の匂いがくすぐった。「母は来客にお茶など出す女だっただろうか」しこりのような違和感がイザベラの中で生まれる。なぜなら、イザベラの記憶の中の母はいつも豪快に笑って炭酸の抜けたコーラを平気で出すような人だった。
「彼氏が、お土産でくれたんだよ。」
イザベラの視線から何かを感じ取った母がはにかんだ。
「いい匂いだね。」
「海外のお茶って言ってた。異国を感じる匂いで、旅行している気分になる。」
穏やかに微笑む母の顔を、ソファから眺める。母は、フィリピンと日本以外で海外に行ったことがなかった。それでも、その顔は確かに幸福感が溢れていてこのお茶の匂いによく似合っているように思えた。イザベラは、ふと「変わっていくのだな。」と感じた。繰り返しているようで、しっかりと時間を重ねた女が目の前にいるのだ。そして、少しだけ口の中がざらついた。

夜になり、リビングの机の上はイザベラの予想通り彼女の好物で埋め尽くされていた。それを、母と妹、そして知らない男と囲む。男は、無口だが優しそうな目をしていてイザベラは少しほっとする。対する、母はすっかり女の顔になってしまってあまり言葉を発しない男にずっと話しかけている。イザベラの隣に座る妹は、やれやれと言った感じでつけまつげを指で弄っていた。
「この子は、昔から音楽だけはすごかったんだよ。この子が入ってた合唱クラブは全国大会まで行ったし、音楽の先生もこの子の才能にメロメロだったんだから。」
「母さん、言いすぎだよ。」
「だって!あの先生が、あんたを大手レコード会社まで引っ張ってくれたんだよ。そして、あんたはでっかい賞も取ったじゃないか。」
母が、食器棚の方を指さす。その動きに合わせて、食卓を囲む全員が食器棚の上に目を向けた。そこには、イザベラが高校時代に全国オーディションで受賞したトロフィーが高々と飾られていた。イザベラはいよいよ恥ずかしくてたまらなくなる。それと同時に「こんなに小さいトロフィーだったっけ。」と首を傾げた。いくつかの理不尽や苦痛に耐えて勝ち取ったそれは、あの頃より小ぶりで、そして価値のないもののように埃を被っていた。
「でも、お姉ちゃん良かったよね。」
昔から察しのいい妹が口を開く。イザベラが妹の方を向くと、妹はためらいがちな目をして続けた。
「だって、今度はうまくいってそうじゃん。結果良ければすべてよしでしょ。」
「そうだそうだ!ワンマンライブ、私たち行くからね!」
母が、高らかに腕を振り上げて言った。イザベラは、家族の期待に応えようと一生懸命笑った。

食事が済み、各々が時間を弄び始めるころイザベラは立ち上がり「帰るね。」と言った。その一言で、再び部屋の空気が引き締まる。妹は、今韓国で流行っているらしいスライムを差し出し「お姉ちゃんは考えすぎちゃう人だから、そんな時はこれ使ってよね。」とはにかんだ。母と男は、玄関口までついてきて小さな封筒をイザベラの手に握らせた。
「これ、何。」
「餞別。ちょっと美味しいものとかこれで食べなさい。」
「それは、もらえないよ。ちゃんとバイトしてるし。」
すると、無口な男が言った。
「もしもの時、役に立ちます。」
「いつか、役に立ちます。」
男の声は穏やかで、高い丘から彼女に言い聞かせるように響いた。そして、イザベラは封筒をバッグにしまい二人に小さく頭を下げドアを開ける。その時、彼女は自分が惨めな気持ちになっていることを確かに感じていた。

湘南新宿ラインの終電は、荒野のような空気で満ちていた。夜の店で遊び疲れたサラリーマンが、ネクタイを緩めいびきを掻き、隣では伝線したストッキングの若い女がサラリーマンの肩に頭を乗せている。その向かいで、イザベラは「目の前の男女と自分はどちらが正しいのだろう」と考えていた。街の灯りが、窓の向こうをものすごいスピードで駆けていく。
「私は、頑張ってきた。」
「私は、彼らよりも正しいはずだ。」
「酔っ払って、あんな姿になる人間よりかはましなはずだ。」
そこまで、心の中で言ってしまうと彼女のぽっかりと空いた穴に冷たい風が通り抜けた。思わず、ため息を吐いてしまってからイザベラは昔のことを思い出していた。

「あんたは、すごい!!」
彼女の歌を初めて褒めたのは、母親だった。それ以来、幼いイザベラは、母の落ち込んでいる背中、疲れている背中、様々な背中に大声で歌を歌い続けた。すると、母はいつも笑顔になってイザベラを抱きしめてくれた。それが、イザベラはただただ嬉しかった。
「イザベラさんは、才能があるね。技術は、練習で何とかなっても声はどうしようもない。君の声は、素晴らしい。」
次に彼女を褒めたのは、中学時代の音楽教師だった。そして、母ではなく音楽の先生に褒められたという事がイザベラの自信を膨らませた。彼の勧めで合唱クラブに入り、期待に応えたくて必死に練習を重ね、多少部員に煙たがられようが合唱コンクールの全国大会まで勝ち進んだ。

「ガンバレ!ガンバレ!ガンバレ!」
家族や先生、同級生たちの声が聞こえてくる。
「ガンバレって、何ですか。」
時を経てイザベラはこう問いたかった。
それでも、当時のイザベラは、母から始まり次々と増えてゆく期待の数すべてに応えようと何も考えずに努力し続けた。しかし、がむしゃらに追いかけた音楽がただただ楽しかったのは遠い昔のことである。流れるようにプロを目指し、飛び込んだ世界で彼女は初めて足を止めた。賞を取っても決まらなかったデビュー。誰も悪くなかった、という言葉で有終の美を演出しようとしたプロデューサー。ふと、あの時こう言われていたら今は違っていたのではないかと思う。

「もう諦めていいんだよ。」

それは、イザベラが心の奥底で言われたい言葉だった。そうして、今の彼女は諦めきれずに意地になった型落ちのアーティストのように、ゆらゆら電車の窓に反射していた。

2018年11月8日。杉並区。
高円寺にあるアパートの一室では、イザベラがパソコンと向き合っていた。壁一面に貼られた海外アーティストのポスター、簡易ベッドと丸い小さなちゃぶ台、そして、バイト代を貯めて買ったローランドの電子ピアノ。そこは、まるで彼女の夢と希望が詰まった小さな宝箱のようだ。しかし、彼女はその宝箱の中で独り言を言いながら眉間に皴を寄せたり頷いたりを繰り返す。なぜなら、彼女が今見つめているページは、彼女の好きなアデルのミュージックビデオでもエドシーランの新譜でもなく、ボイストレーナーの募集要項ページだったからである。
「正社員…月収25万か…。」
「週休二日あるのはありがたいな。」
「でも研修があるのか…。」
こんな具合に彼女はぶつぶつと呟き、やがて疲れた目を揉みその場に倒れ込んだ。
「人生、たまんねえな。」
天井に向かってそう言うと、彼女は何だか可笑しくなって笑った。ファミリーレストランで深夜、厨房に立ってまで稼いだ生活費は、いつも月末空っぽになることも。歌手は、仕事なんだと意気込んでいても、実際は音楽で生活ができないことも。いつの間にか、音楽をするためにバイトをしているのか、バイトをするために東京にいるのか乳白色の生活になっていることも。それら全てが、可笑しかった。
「夢の賞味期限…かなあ。」
イザベラは、夢を諦める時それ相応の劇的な失望がやってくるものだと思っていた。しかし、そんなことが起こるのは映画のシナリオぐらいだ。イザベラの長い音楽活動のなかでは、緩やかな失望しか起きなかったし、その後は決まって砂糖水を薄めたような希望がやってきた。そんな境目のない日々の中で徐々にイザベラは気づいていた。夢は、「自分で、終わらせなくてはならないのだ」と。窓の外に視線をやると、柵に止まった雀が飛び立った。イザベラは、ゆっくりと起き上がり再びパソコンの前に座る。彼女の心は、確実に何かを捨てる準備を始めていた。

昼頃、カップラーメンにお湯を注いだころ携帯が鳴った。画面には「先生」と表示されている。イザベラは、すぐに通話ボタンを押した。
「お疲れ様です。」
「ああ、イザベラ。元気してるかー?」
イザベラが中学生の頃、毎日聞いていたのんびりとした声が彼女の鼓膜をくすぐった。
「元気ですよ。今、カップラーメン作ってますが。」
「おいおい。体は、食い物でできてるんだからなー。自炊しろー。」
「はは。どうしました?なんの要件ですか?」
「明後日のお前のワンマン、声かけたら他にも行きたいってやつが沢山いてさ。大丈夫か、って確認。」
「大丈夫ですよ。」
「おう。ありがとう!ほら、お前の担任だった佐倉先生と、合唱クラブにいた小杉と村田と京子と…。」
「ちょっと待った!何人いるの?!」
「17人。」
「多すぎないですか?いや、チケットは大丈夫ですけど…。」
「みんなお前の成功した姿を一目見たいんだよ。ほら、合唱クラブでお前はヒーローだったし、みんな社会人になったり結婚したりしたけどお前だけは歌を続けただろ?みんな、お前が眩しくて、そんな姿見て元気が湧いてくるんだよ。」
「成功したって…。武道館でライブするわけじゃないし。」
「変わんないなー。消極的思考。」
携帯の向こうで、先生の笑い声が聞こえた。イザベラは、「違うんです、先生。」「私、もう疲れたんです。」と言い出しそうになって唾を飲み込む。それから、この期に及んで彼女は、期待に応えようと明るい声で言った。
「わかりました!張り切って17人、招待させていただきます!」
「うわあ、太っ腹だなー。ありがとう!あ!大事なこと言い忘れてた。」
「何ですか?」
先生は、大きく息を吸い込んでから、何か大事なものを渡すみたいに言った。
「イザベラ、おめでとう。本当…よく頑張ったよ。」
その言葉は、イザベラの届くべき場所にしっかりと届けられた。すると、どこから湧いてきたのか彼女の両目から涙が溢れ出す。
「ああ…うん。照れちゃうからやめてよ。じゃあ!明後日!」
そう言って、返事も待たずにイザベラは終了ボタンを押した。握りしめた携帯は、金属の塊とは思えないほど温かった。

夕方、イザベラは予定よりも早めに渋谷の事務所に到着していた。昼間、高橋に前もって時間をもらえるようお願いをしたのだった。クーラーでも、暖房でもない中途半端な季節にお似合いの空気が会議室を満たしている。落ち着き払ったイザベラの向かいでは、どこか居心地の悪そうな高橋がもじもじしながら切り出す。
「で、話って何かな。給料…の話だったら、もうちょっと待って欲しいんだけど。」
「給料のクレームじゃないです。」
「え!じゃ、じゃあ…マイコとまた喧嘩した?」
「それも、違います。」
完全に落ち着きを失った高橋を前に、イザベラは小さく微笑む。同時に、初めてこの会議室でメンバーと顔合わせした時のことを思い出す。その時も、高橋は落ち着きなくその前髪を揺らしながらMAYAKASHIについて力説していた。そっと、瞼を閉じて深呼吸をする。そして、自分に言い聞かせるようにはっきりとイザベラは言った。
「ワンマンが終わったら、MAYAKASHIを卒業しようと思います。」
瞼を開けて、高橋を見ると完全に固まってしまっている。イザベラは、彼を悲しませたいわけじゃなかった。だから、心がズキズキと痛んだ。
「え。ちょっと、待ってよ。そんな…。なんで?」
「私、14からずっと音楽をやってきました。途中、うまくいかないことだらけだったけれど音楽にすがり続けてきました。なんでって、音楽が大好きだからです。」
「そっ、そうだよ!大好きなんだからやめちゃだめだよ!」
高橋が、必死に声を張り上げた。イザベラは、心を鬼にして続ける。
「でも、音楽に関わるのは何も演者だけではないと気づきました。教える側に回っても、音楽に触れ続けることができます。」
「自分の演者としてのピークは、まさに今だと。判断しました。」
「武道館でライブがしたくて、メジャーデビューがしたくて、ずっと上ばかり見ていたから頑張っても頑張っても報われないと感じていました。ですが、ちゃんと自分が今立っている場所を見つめたら、ここが私のピークでした。ちゃんと、報われてました。」
「もう、燃料切れなんです。現実が見えてしまった私には、もう夢が見られません。」
高橋はしばらく口をぱくぱくとさせ、言葉を探していたようだったがやがてがくりと肩を落としてうなだれた。
「本当に…イザベラはそうしたいんだね?」
「はい。」
「イザベラは、このグループで歌唱力を支えてきた軸だった。だけど、僕たちを見捨てるの?」
「高橋さん、同情を誘うのは大人の汚い手です。」
イザベラが、ぴしゃりと跳ねのけると高橋は真顔になって頭を掻いた。イザベラは、母親のような優しい声で言葉を重ねた。
「高橋さんが、どれだけ熱意をもってこのグループをやっているかわかっています。ずっと、このまま上を目指して走り抜けたい気持ちも、わかります。」
「でも、永遠なんてないじゃないですか。私が、違う形で音楽と触れたいという決断をしたって、ハイネが、大学を卒業するときデザイナーになったって、マイコが地元に帰って家庭を持ったって、アイは…またふらっと旅に出たって、いいじゃないですか。それが人生だと思います。MAYAKASHIという駅に、たまたま今4人と高橋さんが途中下車しているだけでどこにだって本当はいけるんです。」
イザベラの言葉は、会議室をゆっくりと温かくした。高橋は、その空気の所在を確かめるように辺りを見渡した後、頷いた。
「イザベラの気持ちは、よくわかった。だけどね、今日この一回で僕が決めることはできないからひとまずワンマンが終わったら話し合おう。」
「ありがとうございます。」
「イザベラも、ワンマン終わるまでよく考えてみて。僕も、考えてみるから。」
そうして、二人の間にワンマンが終わるまで生まれた秘密はメンバーたちの笑い声によって小規模な同盟のようなものに変わった。

「あれ?イザベラと高橋さんってなんか変な組み合わせ~。」
遠慮なく豪快にドアを開け放ち、登場したマイコは二人の顔を交互に見つめた。後ろから、ハイネとアイが続く。
「ああ、ワンマン前にセットリストのことでイザベラに相談があってきてもらったんだ。」
「ふーん。まあ、いいや。」
マイコは、特に興味がないといった感じで椅子に座った。ハイネとアイも静かに椅子に腰を降ろした。その時、イザベラはアイと目が合った気がした。どくん、と心臓が跳ねる。しかし、意を決してもう一度アイを見る頃にはもう、彼女はいつものように空気を見つめていた。イザベラは、静かに胸をなでおろす。
「今日、みんなに集まってもらったのはこれを授与するためだよ!」
やけに明るい声で言ってから、高橋は机の上に一枚の紙を置いた。メンバーが覗き込んだその紙には「ゲスト表」と印字されている。
「ここには、みんながワンマンに呼びたい人の名前を書いて。そうするとその人はドリンク代だけで入場できるから。親だったり、友達だったり、お世話になった人だったり…それはみんなに任せる!」
「これ、みんなで1枚だけ?」
マイコが、不服そうに紙をつまみ上げて言う。
「そうだよ。これは、みんなで一枚だけ!特別な紙だからね。表は、50人まで書くことができるから、みんなで相談して書き入れて!喧嘩は、だめだからねー!」
まるで、小学校低学年の子供に聞かせるかのような言い方にメンバーたちは笑った。イザベラだけは、高橋のその不自然さにハラハラとした。「じゃあ、僕は次の打ち合わせがあるので出るね!明日の最終リハで会おう!」と言って、高橋は会議室を出ていく。部屋に残された4人は、机の中央に置かれた「ゲスト表」を見つめた。
「えっと、とりあえず50人だから…4人で割ったら1人12人くらいか…。」
「私、業界のお世話になった人たち呼びたいから12人じゃ足りないよ!」
「非常に言いにくいんだけど…私20人ゲスト出したい…。」
イザベラがおずおずと切り出す。マイコの方を見ずとも、彼女が不機嫌になったのが分かった。
「ああ、なら私は3人でいいや。」
空気の変化を感知したハイネが、そう言ってゲスト表に書き込む。それで、少しマイコも落ち着いたようだった。
「じゃあ、次はアイ…」
そこまで言ってしまってからイザベラは後悔した。事情を詳しくは知らなくても、一年近く一緒にいるのだ。なんとなくはわかる。アイには、その表を埋めるべき人間がいない。
「私も、1人でいいよ。」
アイの発言に、驚いたのはイザベラだけではなかった。マイコは、じっとアイの手元を見つめている。ハイネに至っては、心配そうな目を隠せていない。
アイは、ハイネの前から紙を引き寄せると力強い筆圧で「小林ケイコ」と書いた。そうして、何事もなかったかのように机の中央に紙を戻した。その時、アイ以外の全員が頭に思い浮かべた謎をハイネが呟いた。
「ねえ…これ、誰?」
アイは、眠たげな眼をこすりはっきりと言った。

「お母さん。」
「私の、お母さん。」

アイの章「屍を越えて」

2018年10月9日
「朝、庭のシマトネリコにやってきては鳴いている鳥の姿を私はまだ見たことがない。きっとカーテンを開けると、鳥はすぐさま逃げてゆく。だから、毎朝その声とわずかに届く気配を布団の間から感じている。それが、今の私の朝だった。もうしばらくしたら、ハイネがやってきて「そろそろご飯にしよう」って言うだろう。そうして、カーテンを開けるとそこには出来立ての朝食が並び、二人で静かに食べる。それが、私たちの朝だ。もしかすると、こんな風景はあまりにありきたりで、近隣の家々に次々と侵入しても同じ光景なんじゃないかという錯覚に襲われる。でも、それは少しだけ違ったり(例えば、食器の趣味が違うとか。)大きく違ったり(例えば、1人暮らしだとか。)するもんだ。現に、家を飛び出す前の私の朝は違っていた。あの人の料理は、美味しいけれどご飯を食べる時間よりお祈りの時間の方が長かった。いや、そんな気がしただけかもしれない。兎にも角にも、もうあの頃の記憶は私から遠く離れてしまった。悲しいでも、嬉しいでもなく、へその緒を切られた赤子のように漠然と自由になったのだった。」

アイは、休むことなく動かした指を揉んで先ほど日記に書き込んだ文字を見つめている。相変わらず米粒のような字だな、と思いながら変わったことと変わらないことの違いに目を細めた。そして、書き終えたページに母からの手紙をしおりのように挟む。母の字も、相変わらず丸みを帯びた字だ。だけれど、その言葉たちはここ数日擦り切れるほど読んでもアイに沁みなかった。手紙は、アイの身体をいたわる文から始まり、母の近状が綴られ、最後はこの一文で締められている。
「貴方を赦します。帰ってきなさい。」
この一文を話す母の声色も想像できる。何度も、聞いてきた知性のある落ち着いた声できっと諭すように言うのだろう。アイは、静かにその手紙をどかして最後にこう付け足した。
「PS:私は赦されるために生きているんじゃない。」
その文字は、心なしかいつもの彼女の字より大きかった。

「アイ、ご飯にしよう。」
カーテンの向こうから、ハイネの声が聞こえた。アイは、「うん。」と言って日記に手紙を挟み立ちあがる。カーテンを開けると、アイの朝が始まった。
「今日は、ピザトーストとオニオンスープ。」
「おいしそう。」
お互い向き合って席に着くと、部屋に咀嚼音が響く。少しずつ、タイミングがずれて聞こえるそれは会話をせずとも「二人でいる」という実感をくれる。アイは、この時間が好きだった。だから朝は、普段は無口な彼女が一番おしゃべりになる時間でもある。
「ワンマン明日だね。」
「うわー。言葉にしちゃうと今から震えるね。」
「震えてるハイネを見るのも楽しみ。」
「ちょっと!アイ、意外とS。」
「でも、ワンマンの後も楽しみが沢山あるよ。」
「例えば?」
「ハイネの、アルバムデザイン見ることとか。」
「ああ。」
ハイネは、恥ずかしそうに頭を掻いてアイから視線を外した。その口元は、自信の滲む笑みがあった。その表情を確認して、「うまくいっているみたいで良かった。」とアイは心が温かくなった。ハイネと一番長い時間を共に過ごしているアイは、ハイネの表情を見れば大体のことが分かる。だから、その嬉しそうな表情をしまった後、ハイネの表情がさっと曇ったことも見逃さなかった。そして、彼女が何を思い出してしまったのかも想像がついた。
「あのさ…お節介だとはわかってるんだけど。」
「お母さんのこと?」
「あ、うん。まだ、その…あの団体にいるんでしょ?」
「多分。」
「よくは知らないけど、自分の娘が、一年も行方不明なのに捜索願も出さない。コンタクトを取ろうともしなかった。なのに、今さらなんで会いに来るんだろう。」
ハイネの目が、揺れていた。アイは、なるべくハイネを心配させないように言葉を選んでから言った。
「家族、だからじゃないかな。」
「家族?こんなにほったらかしてたのに?」
「それが、あの人の「普通」なんだよ。多数派がすることが「普通」だとするなら、少数派は「変わってる」。でも、少数派からすると「変わってる」が「普通」なんだ。」
「んん…頭がこんがらがってきた…。」
「今の私の家族だよってハイネの事、明日あの人に紹介するよ。」
「それは、ありがたいけどさ。」
ハイネは、耳の先まで赤くして何やらぶつぶつ言っている。そうして、再び部屋の中に二人の咀嚼音が満ちていった。

「今さら自分でも馬鹿げていると思っていたことがある。学校で、いつも私に嫌なことを言う子がいて、その子が私の首にできた汗疹を指さしてこう言った。「いつも首輪をしていないといけないから大変ね。」彼女は、私が普段している団体のネックレスのことを言っている。わかってはいるんだけれど、抗議するのも馬鹿らしかった。
夏、道がゆらゆらと見えるくらい暑くてあの人と繋いだ手は湿って今にも滑りそうだった。公園の12時の鐘が鳴ったら帰れる。それまでは、教典を抱えて歩き回らなくちゃいけない。わかってはいるのに、私は座り込んでしまった。私には、ずっと歩き回る理由がなかった。どうして、こんなことをしているのか。わからないから、馬鹿らしかった。あの人は、ひどく怒っていつも最後は泣いてしまう。私は、その度に「ごめんなさい」と言って、最後に首を傾げていた。」

スタジオに向かう30分前、いつものようにハイネはアイの髪の毛にアイロンをかけている。よほど忙しくない限り、毎日アイのヘアメイクをハイネは頼まれるわけでもなくやってやる。互いに、姉妹がいなかったのでアイは初め「ハイネは妹が欲しかったんだな。」と思っていた。しかし、時が経つにつれ、それは見事に儀式のような習慣になり二人のつながりを確かめる時間となった。ハイネは、器用にアイの髪を少しずつつまんで真っすぐにしてゆく。
「今日は、大人清楚にしようと思ってるんだけど、リクエストある?」
肩越しに、ハイネの声が跳ねる。アイは、ふと思いついて「髪の毛、上げたい。」と言った。すると、一瞬ハイネの手が止まってためらいがちな声が届く。
「首の痕は、大丈夫なの?」
「うん。今日は、動くからその方がいい。」
「わかった。おくれ毛で、隠したりしてみる。」
「隠さなくていいよ。」
後ろで頷くハイネの気配を感じた。その後、何かを振り払うかのようにハイネの指がアイの髪を一思いに持ち上げた。
「アイは、ポニーテールが似合うってずっと思ってたんだ。」
ハイネは、そう言ってはにかみながらアイに鏡を渡す。そこにはさっぱりとした自分がいてアイはその自分を気に入った。

「鏡で自分を見るのが苦手だった。あの人の選んだ信仰についていけなくて消えてしまった私の父が、この顔のどこかに溶け込んでいると思うと落ち着かなかった。会いたいと思うには、あまりに遠い昔のことでこのままきっと消えてゆく記憶なのに。
「あなたは、お父さんと目鼻立ちがそっくりよ。」
「あなたは、賢いからお母さんに似たのね。」
「あなたは、神様からもらった宝物なのよ。」
あの人がそんなことを言うたびに、私は自分が何者なのかわからなくなるのだ。」

昼過ぎ、彼女たちは三軒茶屋のリハーサルスタジオにいた。明日に迫ったワンマンライブは、彼女たちにとって夢の舞台であったキャパ1300人のライブハウス「SHIBUYA XXL」で行われる。当日のステージをなるべく再現できるよう借りたスタジオは、とてつもなく広く、そこにサポートミュージシャンが5人、当日のモニターPA、めったに顔を出さない事務所社長とスタッフたちがMAYAKASHIを取り囲んでいる。よって、彼女たちは今初めての経験を一度にしているかのような気分だった。音楽経験に長いイザベラでさえ、体中から緊張を漂わせている。その様子に、マイコが小声で喝を入れた。
「ちょっと。イザベラの緊張がうつるから何とかしてよ。」
「しょうがないじゃん。これは、しゃっくりみたいなものでどうしようもないんだから。」
「しゃっくりなら、逆立ちしてコーラでも飲めば治るでしょ。」
「だから、例えだってば!」
鏡張りの壁の前で、小さな喧嘩を始めた二人の姿はいくら人々に背を向けていても丸見えだった。アイの隣でハイネが頭を掻いて、救済に入るべきか悩んでいる。そのハイネの袖を、アイはそっと握った。ハイネが、アイの方を振り向く。すると、アイは悪戯な笑みを口元に浮かべて首を小さく振った。
「あーもう!イザベラは、自信もちなさいよ。」
「なんで命令されないといけないんだ。」
「だって、うちらの自信はイザベラでもあるんだから。イザベラがいつもみたいに自信満々に、大声張り上げてくれないとさ。うちらなんてへなちょこ歌手じゃん。頼りにしているんだから、頼りにされなさいよ!」
マイコの声は、もう小声ではなくなっていた。イザベラは、大きく目を見開いてマイコの言葉を聞いていたが、最後には笑いが漏れた。
「…なんだよ。」
そう言って、鏡から顔を逸らしてマイコの方に向いた。その口が「サンキュ。」と動くと、ハイネとアイは顔を見合わせてほほ笑んだ。

「じゃあ、ひとまず最初の曲から合わせていこう!」
高橋さんの一声によって、スタジオ内の空気がぎゅっと凝縮される。まるで各々の集中が粒となって、この部屋の空気を支配しているようだ。アイは、体の中の空気を入れ替えてセンターに立つ。
「ワン、トゥ、スリー、フォー…。」
ドラムのカウントで曲が始まった。一曲目は「ハジマリモーメント」。アイドルとラップの融合をコンセプトにスタートしたMAYAKASHIにとって、この曲はまさに「始まり」にふさわしい曲だった。ギターのカッティングとドラムが軽やかな音を鳴らし、その後ピアノとハイネのラップで曲が始まる。Aメロのラップが、気だるく変化のない毎日の描写で語られた後、Bメロでは緩やかなメロディで「変わりたいのに出口が見えない」そんな悩ましさをマイコが歌う。そして、イザベラのダイナミックな声でサビへ続く。サビは、悩んでいた自分を吹き飛ばすかのような始まりの決意を歌われ、自分たちは「そこ(底)」から始めようという叫びで間奏へ移る。メンバーたちは、この「底」というちょっぴり自虐的な表現が好きだった。それは、作詞家が付けた言葉であろうと、まさしく彼女たちの為の言葉のように思えたからだ。
間奏に入り、4人は隣の肩に手を乗せて声を合わせて歌う。
「la la la la la…」
歌いながら、彼女たちは鏡越しに互いを見つめていた。そうして、この曲は自分たちが思うよりずっと馴染んでいることを確認し合った。アイの頭の中では、パラパラ漫画のようにMAYAKASHIとしての約一年間の出来事が流れていた。そして、それはまさしくアイにとって新しい人生の記憶だった。彼女の中に、「今、自分はここにいるのだ。」という実感が津波のように押し寄せた。そして、バンドの音が最高潮に盛り上がる頃、彼女たちは互いに手を繋ぎ今は見えない観客に向けて頭を下げる。その時、聞こえないはずの拍手が彼女たちの鼓膜をしっかりと揺らしていた。

「身長が伸びると同時に急激に世界が広がってゆく団体の子供たちにとって「正しいこと」を守るのは簡単ではなかった。味方の少ない学校の中で、心が折れて給食の時お祈りをしなかったり、厳罰が待っている嘘をついてしまったり。でも、その度に信じているのかもまだわからない神様に見張られているような気持ちになって、ただきょろきょろと辺りを見回して怯える。それが、私たちの子供時代だった。
そして、ホルモンが変化し始める思春期は特に困難を極めた。
団体で年の近い男の子たちが、勃起を経験するようになって「セックス」がいよいよ現実的なものになってくる時。彼らは、隠れて捨てられたエロ本を見ている。見つかったら、こっぴどく叩かれるのに見てしまう。でも、それくらいならまだ可愛いものだ。現に、団体の男の子に「僕の顔の上に、和式トイレでするみたいに座れ。」と言われたことは今でもよく覚えている。教典の並ぶ集会場の個室で、彼は床に寝そべってそう言ったのだ。私は、まだホルモンが変化する前でそれがどういうことなのかわかっていなかった。だから、言われたとおりに彼の顔の上に座った。パンツの布一枚隔てたその下で、彼が何度か息を吸い、吐き出した。生ぬるい熱がいともたやすく布を破り、私の体内へ入ってくる。しばらくして、私の股間から顔を離すと彼はまるで酒に酔ったかのように頬を染めて満足そうに去っていった。私は、急激に冷め始めた股間を気にしてスカートの裾を握っていた。
それを、多くの人はどう思うだろう。「悪魔の子」の仕業だと怒るだろうか。でも、私にはそうは思えないのだ。自分の意思を押さえつけられて育った私たちは、時々「悪魔の子供」にならなくては大人になれなかったのだから。だから、私は彼を嫌ってはいないし恨んでもいない。」

激しいダンスナンバー、穏やかなバラード、ラップバトル。休むことなく、緩急をつけながら曲目は進み、ようやくすべての曲を歌い終えた時、彼女たちは体力のほとんどを失っていることに気付いた。むせかえる熱気の中で、イザベラの呼吸がマイクを通してスタジオに響く。
「本番も…よろしくお願いします!!」
振り返ってそう叫ぶと、その場にいた人々が思い思いに手を上げて叫んだ。それは、まるで学生時代の体育祭のような無垢な熱気だった。アイは、「これが、チームなのだ。」と思った。何もかも捨てて、初めて手にした彼女の楽園はここにあった。

リハーサルを終えた4人は、スタジオの休憩スペースにいた。ハイネの書き込んでいるノートには、何やら長いセリフが並んでいる。これは、いわゆるMC表だ。何も決めずにMCをこなせるアーティストもいるが、それは人数が多くなると難しくなる。さらに、全員がバラバラな個性を持っているとなるとなおさらだ。よって、彼女たちはこの一年で多くの失敗と改良を経てMCの大枠を事前に決めておくスタイルに落ち着いた。とはいってもこの作業、なかなかに時間のかかることは彼女たち全員が覚悟していた。
「それにしても…やっぱワンマンのMCは長いな…。」
イザベラが、遠くに視線をやり呟いた。
「そりゃ、いつもの30分のライブとは違うよね。約、4倍だし。」
珍しく、マイコもイザベラに同調する。ハイネは、しばらく腕組して考えた後口を開いた。
「あのさ、2時間のライブだからってMCの回数増やさなくてもいいんじゃないかな。本当に言いたいことを小分けにして言うより、ちゃんと効果的なところで時間を多めに取って話せばいい。」
「そうだね。」
「じゃあ、みんなが本当に言いたいことを書きだしてそれを最後の曲の前で話そうか。」
「マイコは何言いたい?」
ハイネからの唐突な質問にマイコは黙り込んでしまった。隣でイザベラは「どんなアーティストになりたいですか?」と散々抽象的な質問をぶつけられた苦い思い出が蘇り、思わず助け船を出す。
「恰好付けたことは言わなくていいよ。だって、私たちのワンマンなんだから。敵はいない。」
イザベラの援護で、勇気が出たのかマイコがぼそぼそと話し始めた。
「ひとまず、感謝の言葉は言いたい。あと、嫌われちゃうかもしれないけど私がどんなにダメ人間だったか。でも、みんなのおかげでそれなりに人間らしくなってきた話をしたい。」
「う~ん。男の話はさすがにNGだよ。マイコの場合、キリないし。」
ハイネの突っ込みに、メンバーたちは笑った。その笑いで、マイコはすらすらと言葉が滑り出てゆく。
「自分の価値が欲しかったんだよね。男の人に執着してたのも多分そのせい。何人もの男をキープしてる私ってすごくない?って。それで、プライドを保ってたのかも。ほら、イザベラみたいにすんごく歌がうまいわけでもないし、ハイネみたいにクールにはなれないし、アイみたいに綺麗な顔でもない。だから、「SNSで何人フォロワーがいるか」とか「何人彼氏がいるか」とか、小粒なエピソードの数で勝負するしかなかったんだよね。」
「だけど、なんかさっき思ったんだけど自分の価値ってちゃんとここにあったんだなあ。って気がしたよ。なんだかんだ、私がいなくなったら君たちもファンもみんな困るでしょ?」
「すごい強気だね。」
イザベラが、吹き出す。だがその後、思い直したように神妙に頷いた。マイコが誇らしげな表情になって、話し続ける。
「本当、最初はそんなつもりなかったし、それこそ目立ちたかったから始めた活動だったけどいつの間にか自分の人生の中で一番誇らしい選択になってた。「私、すごいじゃん!」って自分で自分を褒められるようになったら、なんか今まで追い求めていた実体のない価値が、どうでもよくなっちゃった。」
「大人の階段を上ったんだね。」
ハイネが、マイコの頭をポンポンと撫でた。すると、マイコの目にじわじわと涙が溜まってゆく。そして、その涙を隠すようにマイコは「えへへ。」とおどけた。
「何人も彼氏…のところだけ省いたら、最高にいい話だからマイコはそれで行こう。」
「ハイネは、どうなの?」
ノートにメモを書き込んでいるハイネにマイコが言った。
「あー。私はさ、マイコみたいにかっこいい話なんかないよ。」
「うわ、ずるい。言ってみないとわかんないじゃん!」
マイコのさらなる追及に、ハイネは「お手上げ」のポーズを取ってからしぶしぶ話し始める。
「私もこんなことになるなんて思ってなかったから、大学在学中のサークル活動程度に最初は思ってた。当たり前に学校を出て、就職して、結婚はしないだろうけど税金をちゃんと納めて、老後は年金でつつましく生きる予定だった。普通でよかったし、有名になりたいわけでもなかったんだよね。」
「でも、今考えると矛盾してるなって。だって、「それならMAYAKASHIにどうしてなったの?」と言われると言葉に詰まるよ。マイコは、誇らしい選択だって言ってたけれど私はまだ「誤算」の竜巻に飲み込まれちゃった気持ちの方が強い。」
ハイネの後ろ向きな発言に、イザベラが眉をしかめた。マイコが、イザベラの腕に手を置き無言でなだめる。
「だけど、自分の計画通りに生きていたとしたら、こんなに面白いことも起きなかったと思うんだ。人生って「予想外」の連続で出来てたんだって学んだよ。だって、予想ができる毎日なんてどうやって「今日」と「明日」の見分けをつけるの?そう考えたら、この「誤算」は私のこの1年をちゃんと人生の一部にしてくれたと思う。月並みな言い方だけど「出会ってくれてありがとう。」って、メンバーにもファンのみんなにも言いたい。」
ハイネは、気恥ずかしそうに深呼吸をしてイザベラの方を見た。
「じゃ、次はイザベラ。」
「…意外とこれ、緊張するね。」
イザベラが、背筋を伸ばしてから話し始める。
「私も、二人の話を聞いていて思ったけど言いたいことは「感謝」かな。むしろ、みんなには「謝罪」したい。」
「え!隠れてソロデビュー決めたとかじゃないでしょうね?!」
突然、マイコが鬼の形相で立ち上がりわめいた。慌てて、イザベラが訂正する。
「違うよ!そうじゃなくて…」
「じゃあ、何よ!白状しなさい!」
「まあまあ、マイコ落ち着いて。」
ハイネに両肩を押さえつけられる形で、マイコはしぶしぶ席に座った。イザベラは、ハラハラと波打つ心臓を撫でてから話を続ける。
「私が、謝罪したいのは私がこのグループに入った動機の事なんだ。その話まで少し長くなるけれど、聞いて欲しい。」
「今まで、私の青春は音楽に捧げて来たよ。10代と、20代。この二つは、全て音楽で成功するっていう夢の為にほっぽり出した。自信もあったんだ。「絶対、私は音楽で成功するだろう。」ってね。」
「だけど、一番音楽が楽しかったのってやっぱり音楽を始めた頃で。続ければ続けるほど、生活は苦しくて、続けても続けても、出口が見えなくて。そのうち、自分の意地の為に音楽をするようになってしまってた。こんなに続けたのに辞めるなんてもったいない、とかいろんな理由をつけてさ。同時に、決定的に諦められる出来事が降ってこないか、とも思ってた。それか、決定的に報われるとか、ね。どちらにせよ、すごく他人任せだった。」
「そんな他人任せの行きついた先が、MAYAKASHIだったんだ。これでダメなら諦めよう。これでうまくいかなくてもその時は実家に帰ればいいんだ。とにかく、このグループに私の音楽人生の決着をつけてもらおう。それで私はこのグループに入った。今までさんざん偉そうにしてきたけど、本当は駄目アーティストだった。本当に、ごめん。」
イザベラは深々と頭を下げてから顔をあげると、アイと目が合った。すると、イザベラは全てを見透かされているような気がした。だが、アイの深く澄んだその瞳にはどこまでも公平な深さがあった。これからイザベラがしようとしている事を、全て赦そうとするその深さが彼女の心を穏やかにした。
「で、決着はつきそうなの?」
まだ、噴火の予感を残した声でマイコが言った。イザベラは、その言葉に顔全体でほほ笑んだ。
「うん、つきそう。」
「そっか。なら、私たちは…よかったよ。」
マイコが頷いている。その隣でハイネが、ノートにメモを書き込んでから呟いた。
「こうしてみると、もうこのノートは私たちのほとんどを知っているね。」
「本当だ。ワンマン終わったら燃やさないと。」
「じゃあ…アイの言葉を書いて仕上げようか。」
そうして、ハイネ、マイコ、イザベラの視線がアイに向けられる。アイは、いつもと変わらず落ち着いた小さな声で話し始める。すると、彼女の言葉を聞き逃すまいと3人はアイの方へ身を乗り出した。
「私は…大人になれないって思っていた。失敗も、罪も犯さない「善良な子ども」のまま年老いてゆくんだと思っていた。まるで、小さな小屋の中で、餌だけ毎朝与えられて死ねないまま、最後は小屋の中で痛みもなく死んでいくニワトリみたいに。それでも十分幸せなんだと思うよ。実際、大多数の人が想像しているような景色よりもちゃんとあの中にも愛があってそれなりに温かい場所だった。でも、それだとちゃんと「人間」になれない気がしたんだ。それが嫌だった。」
初めて聞くアイの「嫌」という言葉が3人の胸に刺さった。
「だから、小屋の外に出てみようって。持っている僅かなお金で行けるところまで行ってみようって思った。その後のことは、その時考えよう。そんなことは生まれて初めてだった。それは、もう一つの自分の人生が始まるような…心躍る体験だったんだ。」
「きっと、ものすごい災難に見舞われるだろうって覚悟したよ。だって、今まで守ってきたルールを全部壊してしまうんだから。だけど沢山の人と出会って、みんなが災難から私を守ってくれた。そうしたら、今度は私が災難からみんなを守りたいって思い始めた。それって、ちょっと「大人」になれたってことだよね?」
3人が、大きく頷いた。
「本当に、みんな強い人たちだと思う。近くにいてくれたメンバーもそうだし、ステージから見えるお客さんも。実はみんな強いんだ。だから、みんながこの場所を旅立つときには「みんなが目的地にたどり着けますように。」って、真剣に祈ろうと思う。それしか私にはできないから。」
そう言い終わると、アイは恥ずかしそうに首元を撫でた。彼女の掌の下で、赤い汗疹の痕がじんわりとほのかに熱を持っていた。
「じゃあ、明日。」
そこでイザベラは、言葉を区切った。
「悔いのないように。」
マイコが机の中心に手を差し出した。続けて、マイコの手に、3人が手を重ねる。それは、一つの小さな花のように地下のスタジオに咲いていた。

2018年10月10日
「エンディングにふさわしい今日を生きていたい。そんな風に感じた。エンドロールを引き延ばすような今日じゃなくて、毎日がラストステージ。そういう気持ちで生きたいと思った。だから、もうこの日記は必要ないように思う。ここには、私の今日までの過去しかないから。
今さら、思った。なぜ私は今まで書き残したいと思っていたんだろう。この米粒のような文字で。若かったのだろうか。寂しかったのだろうか。誰かに知ってほしかったのだろうか。全部違うような気もするし、全部正解のようにも思える。
だから、考察は先延ばしにしよう。それがわかる時にはきっと大人になれているだろうから。」

アイとハイネが「SHIBUYA XXL」に到着した頃、会場前には長蛇の列ができていた。彼女たちのライブグッズの購入を待つその列は、車が通過するたびにまるで生き物のように避け、そして、車がいなくなるとまた道路を埋めた。二人は彼らに気付かれないように下を向いて会場の裏口へ向かう。だが、二人は後ろ髪を惹かれるようにちらちらと振り返っては自分たちの挙動を笑った。
「もうちょっと、見ていたい気持ちになるね。」
「本当にあの人たち全部お客さんなのかな。」
「多分ね。」
ハイネは小声で囁くと、裏口のドアを開けながら再び振り返る。アイもまた、敷居を跨ぐときに振り返り、その景色を目に焼き付けた。

会場に入ると、そこは巨大な箱のように思えた。その大きなスペースで、会場スタッフたちが慌ただしく準備をしている。アイとハイネは目を閉じて数時間後の景色を透かしてみた。巻きあがる熱気。届いてくる声は、皆彼女たちを求めている。SEが流れるとキラキラと照明が回った。そうして、彼女たちがステージに現れると張り裂けんばかりの歓声が巻き起こり、1300人の視線は光り輝くステージへと注がれる。
「ああ!二人とも!そこ危ないからこっちこっち!」
妄想で、すっかりぼうとしていた二人の横にはいつの間にか高橋が立っていた。その前髪の隙間からは、汗が光っている。彼は、付いてくるよう指でジェスチャーした後二人に背を向けて駆けてゆく。二人は慌てて彼の背中を追った。
舞台袖から続く階段を登りきると、そこは沢山のドアがある廊下へと出た。先ほどの慌ただしい様子から一転して、廊下は静かで落ち着いていた。高橋は、慣れた手つきで「MAYAKASHI メンバー様」と張り紙のされたドアを開け放つ。すると、そこにはイザベラとマイコの姿があった。
「外にいるお客さんたち見た?!」
マイコが、はしゃいだ声で駆け寄った。ハイネが頷くと後ろからイザベラが叫んだ。
「あれ全部私たちのお客さんだとしたらすごくない?!」
「だからー!!全部私たちのライブ見に来た人だってば!!」
「本当なのかな…現実なのかな…夢なんじゃないかな。」
「ちょっと、ハイネ!!このネガティブお化けになんか言ってやって!!」
マイコが声を張り上げた。その聞き覚えのあるやり取りを聞いて、ハイネとアイは顔を見合わせて笑った。すると、背筋を伸ばした高橋が口を開く。
「とりあえず、みんな揃ったね。この後、16時からリハーサルやるから。それまでこの場所で待機!リハーサルの後、メイクさんが来てくれるからメイクして18時開場。あっ!それから、勝手に出歩いちゃだめだよ!何か、欲しいものがあったら僕に言って。コンビニで買ってくるので。」
「あっ、そういえば、お花も沢山届いてるよ。会場入り口に飾ってあるんだけど、今は危険なので終演後見にいこう!じゃあ、後でね!」
そう叫んで高橋はドアの向こうへ消えていった。残された4人は、広すぎる控室でしばらく自分の居場所を探してもじもじとしていた。ようやくそれぞれの定位置が決まった頃、スタッフからリハーサル開始の知らせが来た。

前日の準備のおかげで、リハーサルは慌ただしくも順調に終わり、控室に戻った時には、みんなうっすらと汗をかきそれぞれの休憩時間を始めていた。そんな空気の中、マイコはくるりとメンバーたちの方へ向き直った。その顔は、まるで最初からそうすることを決めていたかのような自信と悪戯心がにじみ出ている。
「…脱走しない?ここを逃したらもうチャンスないよ。もう一度みたくないの?道に溢れたお客さんたち。あと、入り口に並べられたまだ見ぬ美しい花たちを!」
「だめだよ!もうメイクさん来ちゃうし、ここから出ないでって言われたじゃん!」
イザベラが、慌てて首を振った。だが、マイコは諦めない。
「開場したら、見られないよ!」
最後の方は、政治家の演説のような力強さがあった。3人は互いの顔を見た。その顔には、確かに「見たい。」と書かれている。ハイネが体勢を低くして言った。
「でも、ばれないように脱走しなくちゃいけないよ。裏口から出るとしても会場スタッフがいるし、逆の出口はステージだ。運よく外に出られても、お客さんたちがいるんだから大混乱。マイコ、何かいい案でもあるの?」
すると、マイコも体勢を低くして何か重大な秘密を明かすかのように囁いた。
「実は私、いい場所知っているんだ。」
「どこ。」
「会場スタッフもいなくて、お客さん達をばれない場所から見渡せる秘密の外階段。昔、セフレだったバンドマンに教えてもらった。」
ハイネとマイコは、ためらうことなくドアの方へ向かってゆく。アイもおもむろに立ち上がり、未だおろおろとしているイザベラに声を掛けた。
「イザベラ、行こう。」
3人に見つめられてようやく「まったく…。」と言いながら、イザベラもドアの前に立った。
「旅の始まりだよ。」
マイコは、にやりと笑ってそう言うとドアをゆっくり開けた。

秘密の外階段は、確かに彼女たちにとって素晴らしい眺めだった。会場入り口をやや斜めから見下ろすその場所は、スタッフたちや客たちのちょうど死角にあり、誰にも邪魔されずに堪能することができる。しばらく彼女たちは、その客の中から見知った顔を探してみたり、入り口に飾られた花々に順位をつけたりしてはしゃいでいた。そうしてすっかり気分の良くなったマイコは、バンドマンとこの場所でどんなセックスをしたかなどを話し始める。イザベラがもううんざりと言った様子で叫んだ。
「セックスの話はいいよ!どんな気持ちでこの場所に居ればいいのさ。」
「えー。だってさ、久しぶりに来たからテンション上がっちゃって。」
「まあ…そのバンドマンに感謝しないとね。」
ハイネはそう呟いて、タバコの煙越しに空を見上げた。ビルの間から窮屈そうに顔を覗かせたその空には、うっすらと星が見えた。
「渋谷でも星、見えるんだね。」
「そう言われれば、初めて見たかも。」
「なんか、渋谷って慌ただしくて足元ばっかり見ちゃうもんね。」
4人は、外階段の段差に腰かけて同じ空を見上げる。そうして、同時に脱走という旅を終えて勇気が込み上げてくる。それは、勇者になったかのような高揚感だった。
「そろそろ、帰ろう。」
ハイネが、吸い終えたタバコを捨てて言った。
「旅の終わりはいつも、物寂しいものだ。」
続いて、マイコが芝居がかったセリフを言う。
「違うよ。今からが本番で、これは予行演習だったんだ。」
イザベラが恥ずかしそうに鼻を掻いた。彼女たちは、来た道を戻ってゆく。最後に、アイは空に向かって手を伸ばした。そうして一番強く輝く星を掌に閉じ込めて大切そうに握っていた。

10月10日開場15分前の17時45分。
「MAYAKASHI」のワンマンライブは突然の中止を発表する。
そして、19時のニュース。
「人気アイドル、行方不明か」とアナウンサーが台本を読み上げた。

エピローグ

2020年10月10日。渋谷。
ハイネが、ヒカリエとの連絡通路を通過しハチ公前に到着する頃、彼女の白いシャツはほんのりと湿っていた。彼女は、辺りを見回してから日陰に移り段差に腰かけた。2年前、几帳面に切り揃えられていた彼女の髪は、投げやりに肩にかかっていた。彼女を見知った人が目の前を過ぎたとして、ハイネだと気づく人はほとんどいないだろう。

2年前の10月10日。アイが、突然姿を消してからMAYAKASHIはしばらく時の人となった。なぜなら、アイは「丸ごと」消えてしまったので、警察やマスコミが騒ぎ立てたからだ。唯一の手掛かりは「SHIBUYA XXL」隣のビル屋上にあったアイの靴。だけれど、その下に彼女の遺体は見つからなかった。渋谷駅や渋谷の各所に取り付けられていた防犯カメラにもアイの姿は確認できず、アイと一緒に彼女の母も消息不明になった。その不可解さに、ネット上ではしばらく様々な憶測が語られ、今や「地下アイドル 神隠し 都市伝説」で検索すると多くの記事が見つかる。
だが、一連の波が過ぎ去るとMAYAKASHIは忘れられていった。アイのニュースで彼女たちのSNSに殺到した野次馬たちは、まるで初めからいなかったかのように散り散りに消えていき、その後彼女たちはひっそりと「無期限の活動中止」に入った。マイコは営業社員として事務所に残り、イザベラは地元でボイストレーナーとして働いている。ハイネはと言うと、二人のように新しい居場所を見つけられず大学を1年休学し、そのまま退学した。アイと一番近くにいた代償としてハイネは、時の流れから零れ落ちた。
「ハイネ!お待たせー。」
ハイネが振り返ると、そこには以前より落ち着いた雰囲気になったマイコがいた。ハイネは、しばらく目を泳がせた後再び地面に視線を戻す。マイコの気配が、彼女の隣に腰かける。
「イザベラは、さっき湘南新宿ラインで渋谷着いたらしい。だから、後5分くらいで来ると思う。」
マイコが言い終えると、二人の周りには森の中のような静けさが生まれた。ハイネは、ゆっくりと顔をあげて生ぬるい風を浴びる。そうして、瞳を閉じて植物のように揺れ始めた。マイコは、ちらりと横目で植物になってしまったハイネを盗み見てから同じように瞳を閉じて揺れていた。
「お待たせ―…って、なに!二人とも怖い!」
聞き覚えのある声で二人が目を開けると、そこには少しふくよかになったイザベラがいた。
「うわー。イザベラ太ったねえ。」
「ねえ、マイコ。久しぶりに会って一言目がそれ?」
「まあ、いいや。ひとまず、全員揃ったしお花買いにいこう。」
マイコがそう言って立ち上がると、ハイネも黙って腰を上げた。イザベラは、ちらちらとハイネを気にしている。おそらく、予想していた姿より深刻だったのだろう。その目は、どのように接すればいいのかわからない戸惑いで溢れていた。その様子を見たマイコがイザベラのTシャツの裾を引っ張り小声で囁いた。
「普通にして。」
「いや、でも思っていたより…。」
「ハイネは、ハイネだよ。今のハイネは止まっているだけ。」
最後、マイコは「いい?」と念を押してイザベラの耳から離れた。イザベラは、しばらく考えてから大きく頷いた。

東急百貨店本店の屋上にある花屋に到着すると、色とりどりの花とその香りに圧倒された。マイコは、店に入ってからせわしなくいったり来たりを繰り返し、イザベラは入り口付近でぼうとしている。
「渋谷最大規模の花屋って書いてあったけど、こんなにあったら選べないよ!」
「とりあえず…菊?なのかな。こういう時のお花って。」
「ちょっと!なに勝手にアイ殺してるのよ!」
「ああ…そっか。」
二人が言い争っている横で、ハイネはある花に目を留めた。ゆっくりと、その花に近づくと二人に向かって声を掛ける。
「これが、いい。」
今日初めて聞くハイネの声に二人は思わず振り返り、じっとハイネの方を見てからその指先にある花を見つめた。
「…百合?」
マイコが、呟く。
「確か…百合も仏花じゃなかったっけ?」
イザベラが、ポロリとこぼしてからマイコに足を思い切り踏まれて悲鳴を上げた。そうして、マイコは携帯を取り出し何やら調べ始める。
「百合の花言葉は、(純潔)(無垢)(威厳)。うん、いいかも。それにしよう!」
そう言って店の奥へと店員を呼びに行ったマイコを見送り、イザベラはハイネの隣に移動した。
「アイに、似てるね。」
イザベラが、その真っ白な花を指で撫でると滑らかな湿りと弾力があった。その艶やかさは、この植物が切り取られた後もなお生きようとする姿を体現している。ハイネが、隣で静かに目を細めた。

大きな百合の花束を抱えた3人は、そのままラブホ街へと入ってゆく。急に空気が重さを増したその先に、「SHIBUYA XXL」はある。体育館のような四角い大きな箱は、あの頃と変わらず今でもアーティストたちの憧れの場所だった。彼女たちは、ゆっくりと会場入り口へと足を進めた。すると、そこには大小様々な花束が置かれている。その中には、飾りつけされたうちわもあり、アイの顔写真が貼られている。花束に、ポストカードや手紙が挟まれているものもある。ハイネは、静かにその花束たちに向かってお辞儀をする。
「去年も、沢山お花が置かれていたんだ。」
マイコが、ハイネの隣で優しく囁いた。
「ネットではずいぶん勝手に忘れられて傷ついたけどさ。」
「ちゃんと、私たちはまやかしなんかじゃなく存在してたんだ。」
ハイネが、一歩前に出て百合の花を置いた。そうして、あの夜4人で脱走した外階段を見つめて呟いた。
「おかえり。」
そうして、2年間彼女が必死に堰き止めていた何かが彼女の産毛を逆立たせ涙となって零れてゆく。小さく震えるハイネの背中を、イザベラの掌が支えていた。
「出しちゃえ。全部。」
マイコはそう言って、ハイネを抱きしめた。同時に、昔ハイネに抱きしめられた自分を思い出す。あの頃遥かに弱かったマイコは、今ハイネを守ろうとその腕に力を込めた。その腕の中で、ハイネは受け入れなくてはいけない事々に歯を食いしばって耐えていた。

「アイは、どういう気持ちでこの日記を書いていたのだろう。
アイは、どういう気持ちでこの場所から消えていったのだろう。
ふらっと旅に出たにしては、長すぎる。
私は、いつまでアイを待てばいいんだろう。
もしくは、帰ってきたとして「あの頃」に戻るには遅すぎる。
もう二年が経ったんだ。

もうアイにはこの日記もこの場所も必要なくなったのだと、本当は分かっている。同時に、きっとそれは彼女にとって「いいこと」なんだとも思う。ただ、私は追いつけなかっただけなんだ。この二年間を例えるならば、こんな風景だ。はじめに、怒りと寂しさが竜巻になって私の心の窓を割った。その後、壊れてしまった家の周りをおろおろと漂ううちに周りはすっかり時がたっていた。気づいた時には、焦りが屋根もなくなってしまった私の心に雨のように降り注ぐ。それは、経験したことがないくらい「最悪」だった。だから、もう消えてしまえばいいと思っていた。アイと一緒に消えてしまいたかった。

だけれど、思ったより周りの人たちは辛抱強く手を差し伸べてくれている。今はまだ、その手を力強く握り返すことはできないけれど。その手が、地下にいる私からはるかに遠い地上からちらちらと見えている。それを見上げていると「人生は決定的に欠けているんじゃないんだ」と勇気が出てきた。人生は少しだけ欠けているんだ。それは、がむしゃらに高みを目指して生きていても、死んだように何もしないで漂っていても、結局のところ人生は「足りない」という事だ。そう思えば、気長に生きればいい。マイコは「書くことから、始めよう」と言ってくれた。イザベラは、「ゆっくりでいい」と言ってくれた。高橋さんからは「小説を書かないか」とメールが届いた。もちろん、今すぐには無理だ。だから、今こうして私は日記を書いている。できることから、始めてみようと思っている。

私たちは、変わってゆくんだ。少しずつそのことを受け入れていきたい。いつも、ほんの少し足りない世界と半径30センチの世界を愛せるその日まで。」

ハイネは、ペンを置き自分の痕を眺めた。久しぶりに、書き上げた自分の文字は右に行くほど下がっていて不格好だった。それが、何だか今の自分にちょうど良く思えて弱弱しく笑った。そうして、おもむろに立ち上がり久しぶりにアイのスペースのカーテンを勢いよく開けた。すると、細かい埃が舞い上がり窓から差し込む光が埃を照らす。それは、まるで光の筋のようにハイネの周りをしばらく舞っていた。