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妄想日記「きみが人間だったころ」

きみが人間だったころ、きみの目線の高さにはよく死が転がっていた。

2年前の夏、夜の街をきみと歩いていた。
「ほら、若いカマキリだ」
きみは立ち止まり下を向いて潰れたカマキリを指さしていた。
サッと目を走らせて、確かにその体が少し透明な瑞々しい黄緑色であることを確認した私は、適当な感じでこう言った。
「そう。そんなことよりレストランに間に合わない。急いで」
私はきみの手を強い力で引っ張って歩かせた。
きみの体はとても軽い。
ほとんど足が浮いてしまうような形で私に引っ張られるきみは、それでも首を後ろに捻って言った。
「そんなに急がなくてもいいのに」
私は、その声が聞こえなかったふりをした。

今年の夏の終わり、きみの人生で2回目のドライブに出かけた。
車に乗り込んだきみは、ほんの小さな揺れで車が何を轢いたのかわかるようだった。
「今キミが轢いたのはアリの親子だ」
「ああ、今轢いたセミ、まだ生きていたのに」
そんなことを言われながら運転するのは気分が良くない。
私は対抗するように言う。
「仕方ないじゃない。私の目は車の裏についてないのよ」
隣で何も言わないきみに畳み掛ける。
「それに、木から落ちたセミはすぐに死ぬわ」
きみは私の言葉に対して「そうだね」とだけ言ってしばらく黙っていた。
そうして、目的地が向こうに見えてきた時にこう言った。
「実はね、わたしはもともと人間ではないんだ」
カーナビが「目的地が近づきました。案内を終了します。」とアナウンスした。私は、車を器用に止めてきみの方を見た。きみは日に日に疲れやすくなっているみたいだった。体をドアに預けて、小さな左手でシートベルトを握っていた。
「体調が悪い?ここで待ってる?」
きみは、首だけをゆっくりと回して微笑んだ。
「うん、そうするよ。ここはわたしの目的地ではないみたいだ」
私は頷いた。それと同時に不安になった。
もしかして本当にきみは人間ではないのかもしれないと思ったのだ。
だって、あまりに老いるのが早かったから。
昨日洗濯したばかりの皺のないワンピースからは、皺が目立つようになったきみの膝が覗いていた。

秋の虫が鳴き始めて、きみは眠っていることが増えた。
私は、なるべくきみの近くで仕事をするようになった。
いつものように絵を描いていると後ろからきみの声がした。
「ねえ、今度は何を描いてるの?」
私は、作業を止めてきみの近くに絵を持って行った。
「ネズミよ。ひょうきんなネズミ」
「わたしの目の高さに持って見せてくれる?」
私が言われた通りにすると、きみは痩せた手を伸ばしてその指で絵のネズミに触れた。
「男の子だね。でも、このネズミには年齢がない」
私はクスッと笑って「そうよ。絵だもの」と言った。
「いいな。不老不死なんだね」
きみは、ふんわり微笑んでから続ける。
「死んでしまった命にはね、時の長さが見えるんだよ」
「どう言うこと?」
「木の年輪みたいなものだよ。普段は形の内側にあるから見えないんだけどね。死んだ時、命にその時の長さが戻ってくる。だから見えるようになるんだ」
私は、スパッと切られた木の年輪を想像してから、無意識のうちにきみのことを連想してしまう。
「それは、誰にでも見える?」
「うん。その命と同じ高さで見るんだ。そうしたら、誰にでも‥キミにも見えるはずだよ」
私は次の言葉を言いかけてやめた。
きみがすやすやと寝息を立てて眠っていることに気がついたから。
薄いブランケットをきみの体に掛け直して、私はその横に寝転がった。
きみをじっと見つめてみる。
どんなに目を凝らしてもきみの「時の長さ」は見えない。
安堵した。まだ、きみは生きている。

残業続きの日々を越え、目覚ましをかけずに迎えた朝は10時を過ぎていた。
私は、のそのそと起き上がりいつものようにきみに声をかけようとしてやめた。
その体は、いつものように眠っているように見える。
しかし、明らかにそこに命はなかった。
まつ毛、指の先まで、呼吸が止まっていた。
「死んでしまったの」
私は、そう言葉にして、その言葉が脳に響くとひどく冷静になった。
「葬儀屋さんに電話しなくちゃ」
いちいち声に出して体を動かした。
葬儀屋さんに電話をしてから、花屋へ行き、きみの好きな花を買った。
きみの髪を櫛で解かし、桜色の口紅を引いた。
そうやって体を動かし続ければ、私を正しい時の流れに引き止めておける気がしたのだった。
「ご遺体を、お迎えにあがりました」
夕方に、葬儀屋がやってきた。
私は、きみを抱き抱え葬儀用の車にきみの体を横たわらせた。
「この度は、ご愁傷様でした。葬儀プランですが、Aとのことでお間違い無いですか?」
「はい」
「では、ご火葬場までお連れ様はご遺体の横に横たわりながら運ばせていただきます」
そんな内容、説明に書いてあっただろうか。と首を傾げながらも、私は言われるがままきみを寝かしたふかふかのベットの隣に横たわった。
車が動き出す。
横たわっていると車の小さな揺れまで伝わってきた。
夏の終わりのドライブで、きみが車に轢かれた生き物を言い当てていたことを思い出した私はクスッと笑って隣のきみを見た。
すると、きみの姿は黒いハムスターになっていた。
「え?」
驚いて、私は何度も瞬きをし、目をこする。
しかし、見えるきみはハムスターの姿のままだ。
私は、言葉を失い、その姿から目を離すことができない。
「‥あ」
すると、きみの胸の辺りに小さな光の粒が見えた。
手を伸ばし、指でつまむ。
その瞬間、私の意識は急激に時を遡り始めた。
目がまわるほど繰り返される夜と朝。
その隙間に聞こえてくるきみとの些細な会話や、もっと些細な喧嘩の声。
そして‥私は見たのである。

きみに出会ったあの日の光景を。
「どの子にされますか?」
私は、アクリル板で仕切られたゲージを除いて指を刺した。
「この子‥この子にします」
私は黒い体をしたハムスターを両手で掬い上げ、目の高さに持ち上げた。
きみは言った。
「よろしくね」

あの日から、2年1ヶ月後の秋。
きみの体は人間をやめてハムスターに戻った。
私たちの思い出をその胸に閉じ込めて。

あとがき
本日、わたしの家族だったクロクマハムスターの「くま」が亡くなりました。
2年と1ヶ月。よく生き抜いてくれました。そして、たくさんの思い出を残してくれたくまちゃんへ。この文章と絵を手向けます。