労働は義務と罪悪感の交差点
人間は本当によく他人のことを観察しているなあ…
労働していると日々感心するのが上記である。私たち夫婦はよく「私達って本当に人に興味がないんだろうね」と話す。それは悪い意味で他人に無関心ということではなく、人の悪いところを見つけて一喜一憂したり、自分に影響がない他人の言動が気になったりすることがないという意味だ。特に私は、芸能人など有名人の結婚や私生活なんかにもまったく興味がない。スポーツはほとんど観戦しないものの、スポーツ選手のパーソナリティ的なものにもほとんど関心がない。もちろん、学校や会社においても、何の害もないものを見て非難したりムカつくと思うことがない。
だから、そうじゃない人と出会う時に、非常に疲れてしまうことがある。常に何かに怒っている人(本当にこだわっていることではなく、怒るきっかけを探しているような人や、必死になる必要がないことに必死になる人)といると、筋肉や神経が緊張し、疲れてしまうのではないかと思うのだ。
着付け師の妻がよく話すのは、気軽に着物を楽しもうとする空気の中にある「着物警察」的なもの。「〇〇が正しいから△△は間違い!」と、唯一の正解じゃないものを断罪すること、否定すること、正そうと必死になることは、着物だけでなくすべてのことに共通する。何かのオタクが創作物のミスを指摘してドヤ顔をするコミュニケーションもこれに該当するし、ネットで相手のミスを徹底的に関係ない人が叩くのも、独断型正義の暴走によるものだろう。
労働は義務と罪悪感の交差点であると思う。小学校からこの流れは始まっている。ルールや文化が決められると、それを「他人が」守っているかどうかを多くの人が気にし、違反している人間がいないか相互監視する。労働においてもそれが続く。自分を主役とした場面評価ではなく、他人が義務を果たしているかどうか、他人が自分だけ利益を独占していないかどうかに執着してしまうのだ。「あいつがサボっている」と躍起になる人が多い中、「俺にもサボらせろ」と声を上げる人はいない。全員で我慢することを美徳とする。他者と同質であることに安堵感を持ち、萎縮すること、罪悪感を演じることで、他者から非難・攻撃されることを回避する。自虐的・自己犠牲的な演技はシェルターのような役割を果たす。自信過剰な者が失敗するのを、他人を袋叩きにしたい人が待ち構えている。
都会なのに究極の村社会。それが労働だ。義務を果たし、罪悪感に苛まれないことを安堵の条件とする。他人に規定された人生と生活がそこに君臨している。自分ではなく、あくまでも「他人にどう思われるか」が判断基準になってしまうのだ。一体何のために生まれ、何のために生きているのだろうか、そう問いかけること、その問いについて考えることを、小学校(あるいは幼稚園)以降の集団生活はことごとく否定し、排除する。
アンパンマンの歌で「何のために生まれて、何をして喜ぶ、わからないまま終わる、そんなのは嫌だ」という歌詞があるが、あれを子供に見せておきながら、番組鑑賞が終われば、そんな問いかけを子供にする余裕を親や大人は与えない。数年後、就学児となった子供は、その問いかけと決別して、アンパンマンの「自己犠牲精神」「滅私奉公精神」だけを継承して、大人という産業ロボットに進化してゆく。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?