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不完全なものの面白さ、手を抜く余裕

妻は鬼束ちひろさんが好きなんですが、「暗い歌に共感できる自分は暗い人間だ」と自己評価する妻に、私は逆のことを思います。

影に気づけるのは自分自身が光だからです。暗いものや暗い世界観に何かを感じ取ることができるのは、自分自身が前向きな証拠だと思うんですよね。逆に、他人から栄光や希望をもらわないといけない人は、内発的な明るさに飢えていると感じるのです。

こういう人が労働現場にもいれば、毎日とても面白いでしょうね。当たり前に対し、哲学的に問いかけを続けられるようになりたいですし、無意味なことを無意味だと空気をぶち壊していえる人間になりたいですし、そういう人間が好きなんだなと実感します。

刺激を受けるというか、馬鹿なことを馬鹿だなと笑い飛ばせるような人が身近にいて、多くの理不尽や不可解に飲み込まれず潰されずに生きていける基盤が、労働環境にもほしいところですが、自らがその主体となることもできるかもしれません。

同じく2000年代初頭にヒット曲を出していた矢井田瞳さん。今も新曲をリリースしているようです。私はあまり多くの曲を知らないんですが、2004年あたりのシングルコレクションを、よく大学時代に旅をしていた時に聴いていました。この人の曲といえば、歩いている最中という印象です。

タイトルに全然関係ない音楽の話をしてしまいましたが、ここからが本編です。社会不適合者を自称する私ですが、その不適合性を数字で示してみましょう。鳥肌モノの不可逆的、不治の社会不適合者であることがおわかりいただけると思います。

  • 10年間の労働生活で、総残業時間は数時間

  • 有給休暇は1日も捨てずに全部消化し、繰越可能分もその年度で使い切る

  • 人生で一度も「先輩後輩」の深い関係構築をしたことがない

  • 就職活動激戦の時代に3社にしか履歴書を出さず

  • 50人がネクタイにスーツを着る会社で、ポロシャツで仕事をする

  • 幼小中高大にかけ、一度も「クラブ活動」に参加したことがない

  • 学生時代の体育祭や文化祭で役割を担ったことが一度もない(傍観者)

  • 式典に意味を感じず、卒業式、結婚式を人生において省略した


1.サボりと私の出会い

先日の記事で4歳で時計の読み方を習熟していたと書きましたが、これが私の運命を決定づけました。時間になったら「やめる」という「時間制御型」の人間になることになったのです。

今でもそうですが、どんなに好きなことでも、時間が来ると絶対にやめます。「時間がくると辞めること」自体も「好き」なことなんですよね。電車やバスが時刻通りに来て、ダイヤ通りに運転されるように、私自身も、世田谷DINKSラインの主要路線として人生をダイヤグラムに沿って生きているんだと思います。

かといって、同じことの繰り返しが良いというわけではなく、日々変化を好みますし、新しいことを好奇心のままにやります。けれども、その度にダイヤ改正を実施し、ルーティンの構造を改築します。

(1)制御不能なサボり

余談が過ぎましたが、こうなると、幼稚園から始まる集団生活とは合いません。学級会や先生のありがたいお話、時計通りに終わることなんてないんですよね。時間厳守、5分前行動と言いながら、終わる時間は絶対に守らない。クソな文化だと思っていました。

けれども、諦めては終わりで、その頃から、話が長い人、人の時間を奪う人を徹底的にプロファイリングしてやろうと試行錯誤していました。小学校や中学校や高校は、とにかく学校に通うことで、行事に拘束されますから、いかに時間通りに切り上げるかが鍵でした。

だから、このブログで散々敵対視している実行委員的な人とも、ある程度友好的に付き合いを保っていました。「今日は〇〇だから早めに切り上げようか」なんて、もっともらしい理由をつけていましたが、本当は私が14時40分のバスに乗って最寄り駅に行ければどうでもよかったのです。

こういう「時間通りに終わる」ことへの執着は本当にものすごく、たとえば楽しいイベントや模擬試験など、中身に着目するような行事であっても、終わる瞬間に現場を立ち去ることに全力を注いでいました。それは、その場その場がつまらないからではありません。次にやりたいことを次々思いついてしまうからです。その次に予定が入っていないことなどありません。

その反動で、たとえば、ダラダラ飲み会をすることも、苦手になってしまいました。妻と結婚してから、家で妻と話をする以上に楽しいコミュニケーションがなく、かつ、多くの他人との会話は、愚痴だったり、社会に適合するためのアンビバレンツな葛藤だったり、一体これを言うことで何になるんだろうと思うことが増えました。

式典を疎ましく思うのもこれで、これをやることで、たとえば1年後に何が良い方向に向かうのか、その場の人間の幸福度は上がるのか、それは定量的なものなのか、など、口には出しませんが、色々な思考が出てきて、いつのまにかそれに関連した本が読みたくなったり、こうして文字に起こしておきたくなってしまうんですよね。

時間通りに終わらないものを強制的に時間通りに切り上げるには、「A.そもそもそういうイベントには参加しない」「B.途中で抜ける」「C.引き止められるタイミングを察知して穏便に退散する」の3つしかありません。コミュ障の私ですが、これにはかなりの対人折衝能力が求められます。とにかく他人を分析して、仮に嫌な人の自慢話でも、その人の気分の上下が関数でいう極大値になった瞬間に「あ、そろそろ時間だ」とか、気分がよくなる言葉と一緒に次の予定へと展開する前向きな会話に誘導することをします。

日本人は「終わりにルーズ」「始まりにシビア」な文化なので、「終わりにシビアな人」と思われることがとても重要で、「あいつはすぐに帰る(文化に付き合わない人間)」と諦められることが有効です。そういう意味では「A.そもそもそういうイベントには参加しない」が、私の戦略ということになりますね。

以上が人が絡んだイベントにおける、人生の定時運行に必要な行動です。次は自分自身でコントロールできる部分についてです。

(2)制御可能なサボり

自分で選択できるものは積極的に選択する、これは当たり前なんですが、多くの人がしないんですよね。在宅勤務可能なのに、みんなが出勤しているから、サボっているように思われたくなくて、出社するようなものでしょうか。そういうときは「そもそもサボるのの何が悪いの?」と問います。

そもそもサボるのの何が悪いの?
→皆我慢して働いているんだから、自分だけしないのはだめだろう
なんで我慢しているの?
→それが社会のルールだからだよ
どこにそのルールが書いてあるの?
→常識だろ?
常識ってなんだろう。常識だから正しいのかな?
→そうやって社会は回っていくんだよ
社会が回るって何だろう。他の方法はないのかな?

こういう脳内会話を繰り返すことで、流されることを予防できます。重要なのは、この思考を仕事中にやることです。

今やっていることは自分の意志でやっているものなのか、これで誰かが困っていることが解消するのか、しないなら、それは自分が嫌われることを恐れているか、自分の価値を承認することを他人に委ねていることだと思います。けれども、眼の前の上司に認められ、職場という村で疎外されなかったと言って、それがなんの意味をなすのかっていう話なんですよね。そもそもそんな我慢でしか成立しない会社や組織なら、なくてもいいわけですから。労働と他のことを安易に天秤にかけすぎなんだと思います。

2.並走禁止文化に呑まれない

何でもかんでも完璧にやろうとする文化は根強いですが、それは、同時に複数のことをするのが悪いという価値観の存在が影響していると思います。育児も労働もなんでもそうですが、それをやっている間は他のことをやってはいけないという教えや洗脳が多いですよね。

授業中は飲み物禁止、私語禁止…学校で習う意味不明なルールですよね。水分補給や意見交換は活動自体を活性化・効率化しますし、我慢するからと言って本来の対象に集中できているなんていう科学的根拠はなにもないわけですから、並走禁止主義に疑問を持つことは常に意識しています。

忙しかったり時間がないという場合、人生が単線になっていることが多いと思います。ずっとデスクに向かって仕事だけしていて良い仕事ができるのなら別ですが、たとえばデスクトップを2分割して、一つは仕事、もう一つは自分の創作活動をしてみるとか、必ず2コアで処理するようにすると、絶対に時間が足りなくなります。

時間が足りなくなることがとても重要で、ある程度の時間になったら諦めてそれを成果物にすると覚悟を決めて色々なことに取り組むことで、自分の時間を大切にすることができますし、過剰な安心のために完璧を求め、それにより時間を犠牲にすることが少なくなります。

顧客や上司からまだ何も言われていないのに、起こってもいないアクシデントを予想して過剰な準備をする文化は悪しき慣習だなと思います。上司に怒られてから資料の訂正をすればいいし、客がクレームを付けてきたらきちんと対応すればいい話なんですよね。事前に悪いことばかり予想して完璧なルールのもとに準備したって、他人の反応は予測できないわけですから、そもそも完璧にやろうとすること自体が、完璧にやれば許されるという傲慢な思考なんですよね。

完璧に働いたんだから評価されるべきだ!
あいつは完璧にやっていないからムカつく!
完璧に育児をしているのに子供がいい子に育たない!
完璧に稼いでいるのに家族が上手くまとまらない!
完璧な準備をしたのに!
ああああああ!

完璧主義者の心の声

というように、怒りをむき出しにしている人がなんと多いことか。全部求められてませんよと、小声で言いたくなるわけですが、それでも、求められている体裁にしたいのが人間の常なのかもしれません。けれども、求められる前提には必ず他人が必要で、その他人への期待が、苛立ちを生み出していることを、人間はいつになったら気付くのだろうと思ってしまうんですよね。そして、その無理が「手を抜くこと」を許容できない思考を生んでいるのではないかと思うのです。

3.不完全なものは面白い

情報システムを担当していると、社会がいかに完璧を求めているかを感じます。機械もすぐ動いて当然だというユーザーのクレームはもちろんのこと、その復旧過程を話しても無関心な人が多いです。動けばいいと言わんばかりの態度で催促されるんですよね。治る過程とか、作られる過程とか、そういう「中途」や「不完全」には興味がないんだろうなと推察します。

事務仕事もそうで、たとえば、書類作成について協議する場に、完璧な完成形の書類案を出すことを求められます。たたき台だけを作ってアイデアを自由に出して楽しめばいいのに、その場に完璧なものがないと、怒られたり、準備が足りないと非難されるんですよね。

100点満点から減点する文化の産物なのかなと思います。100点という絶対善を想定することで、それに満たないものを悪とする物差しができてしまい、ほとんどのものを「悪」と捉える文化ができてしまいます。

サービス業も同じで、走り出しの不完全なサービスを叩き批判する文化は随所に見られます。なぜ、こうも不完全なもの、アップデートしていくようなものは嫌われるんでしょうね。「なぜ」や「複雑なもの」や「曖昧なもの」を面白いと思う気持ちの余裕はどこに言ってしまうんだろうなと思います。わからないことを面白いと思う価値観は悪なんでしょうかね。

料理が嫌いな人は「上手く作れないから嫌なんだ」ということが多いですが、一流レストランのように完璧な料理を作れなんて誰も言っていないのに、「上手い」ことを必須条件にしてしまうのはなぜなのだろうと常に考えています。出来上がったプロが作ったものを食べれば楽ですし、費用対効果も高いですが、時間をかけて買い物して、試行錯誤しながら具材を切って、失敗しながら火加減を調整して、食べてみて、片付けをしてっていう「面倒で効率悪くて上手でもないこと」も、結構楽しいんですけどね。

「無駄を楽しいと思う心の余裕が合ってこそ、楽しめるんだろう」と思われがちですが、面倒なことをやる習慣をつけることで、余白を楽しめる感性が生まれるという逆のことを思ったりもします。それは前章に書いた「並走時間を作りまくる」ことで生まれることが多いです。

「結果のために過程がある」と考えすぎなんだと思います。今さえ楽しければいいという瞬間を積み重ねることも、無駄や短絡的なわけでは決してなく、まるで写真や動画の積み重ねのように、点が線になった時に物凄い価値を発揮することがあると思うんです。「〇〇のため」をいったん横に置いてみると、結構いろいろなものに思考や習慣が縛られているのだと気づきます。

夫婦も、子供を育てるためとか、家を継ぐためとか、社会に認められるためとか、「ため」って思い過ぎなんですよね。ただ配偶者が好きで、一緒に楽しくすごしたい、それだけでいいじゃないですか。そこに何か目的を見出す必要ってあるんですかね。そこは仕事も家族も同じで、目的を見出すことをすべての活動の前提にしてしまうから、さきほどの絶対善のように、それに満たないものへの排斥を正当化してしまうリスクが生じるんじゃないかなと思うのです。そりゃあ、キツくなるし、緩急つけることもできなくなってしまいますよね。

4.不戦勝こそが勝利である

効率主義や結果主義ってどこから来ているんだろうなと何度も考えたり、夫婦で話している中で、やっぱり「勝ち」へのこだわりなのかなという結論に向かいつつあります。優れていたい、有利でいたい、優秀でいたい、相対的に良い状態でいたいという感覚が「結果に向かいたい」「そのために無駄をなくしたい」「寄り道や脱線をする時間を惜しむ」「最初から完璧にして時間を短縮したい」的な感じで、どんどん完全体を求めていく流れを作っているのかなと思うんです。ほどよく適当にやっていこう、みたいな価値観はとことん否定されているように思えますね。

そうなると、楽になるための思考は「負けてもいいや」と思うことなんじゃないかなと。これがすべての「サボり」「手を抜く」「無理をしない」「ほどよくやる」につながるのかなと思うんですよね。

あとは、自分たちが何と戦うべきなのか迷走しないことも大事だと思いますね。同僚がサボること、休みばかり取ることに苛立つ人は多いですが、そもそも人員調整は雇用者の役割であって、それをしない人事や経営者に苛立ちを向けるはずなんですが、なぜか労働者たち同士でいがみ合っている、監視し合っているのが現実で、この構造、囚人の構造に気付くことも重要だと日々感じます。

囚われの身同士で勝ち負けや優劣を競ったところで、戦わずに人を戦わせている人の一人勝ちで、戦っている時点で、消耗している時点で、負けなんじゃないかと。そう思うと、今自分が戦っている対象が、自分にとって何かが見えてくるし、それよりも、さっさと帰宅して妻との時間を楽しもうって思えるんじゃないかと思うんです。

強くあることや勝つことから解放されることは、男性の生きづらさへの処方箋としても、昨今議論されるテーマですが、これは性別を問わず「手を抜く大切さ」として、広く再考されるべきテーマだと思うんですよね。正解を追い求め過ぎと言うか、正解の裏に不正解があり、不正解があってこそ正解が生まれている。不正解も不正解なりに正解と共存しうる存在だと思えたら、もっともっと楽になるのかなと思います。

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