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やるかやられるかの世界を生きる~統合失調症である私のサバイバル術~

世界はキケンに満ち溢れている

この世界はキケンに満ち溢れており緊張感の高いもの、一歩外に出ると自分の周りには敵がいっぱい、闇の組織が隙あらば攻撃を仕掛けてきたり、行動を邪魔したりしてくる「やるかやられるかの世界」、そのため油断するとやられてしまう・・・わたしはそんな世界を生きています。
そしてそれは自分に限ったことではなく、ほかのみんなにとっても同じことであり、社会で生活する方々はみんな自分と同じように周囲の無数の敵と常に戦っているんだと考えています。
みんなが戦っているんだから自分も同じようにこの世界を生き抜いていくためには戦っていくしかない、「まけるもんか」、という思いで日夜必死に戦っています。
わたしにとってこの世界で生きぬく、生活していくということは、戦いに勝ちつづけていくこととであったのかな、なんてことも思います。

そんな自分の世界観が覆ろうとしています。「どうやら世界はそれほどキケンではないらしい」、少なくとも自分以外の方々は、そのような「キケンな世界」を生きてないらしい、ある日の何気ない妻との会話をきっかけに、そんな風に思い始めました。
今、自分の世界観が少しずつ変わってきています。
新しい世界では、わたしは戦う必要はなくて、もちろん闇の組織のような存在や敵意を向けてくるような人々はいなくて、やられてしまう心配もなく安全に生活できるはずのようです。
しかしわたしはまだまだそのような世界に完全に慣れることはできず、あいかわらず攻撃を受けることがあるので今日もあらゆる方法を用いて戦っています。

統合失調症を発症して20数年、フルタイムでの仕事に復帰し10数年たち、この間結婚もしており、ここ数年は症状らしい症状も自覚しておらず、そのため「自分はもう統合失調症が治っている」、「自分は統合失調症ではなかった」、なんてことも思うくらいリカバリーが進んでいることを自覚しているわたしです。
そんなわたしですが実はまだまだ戦う必要がないのに戦いを今もなお続けながら生きているようです。もしかしたら臨床的にいうとすれば、統合失調症の症状の真っただ中で生きているということなのかもしれません、全く無自覚のままで・・・
なぜならわたしは今も闇の組織からの攻撃にさらされており、そのなかで生きていくために戦い続けていかなくてはならないことは普通の状態なのだから。
そんなわたしが見ている世界、生きている世界がどのようなものであるか、妻がそのことに大変興味を持ってくれました。そして詳しくわたしの生きている世界について話を聴いてくれ、ふたりで研究を始めました。わたしにとってこの世界がどれだけキケンであるか、そしてキケンな世界の中でどのように戦ってきているのか・・・

これからわたしが生きる世界について、日々どのような攻撃を受けてどう戦っているか、そしてどのように対処しているか、といったことについて夫婦で研究してきたことをもとにお話ししていけたらと思います。

わたしが生きている世界について


 この世界を生き抜くってとても大変、どこから闇の組織の人間が自分に攻撃を仕掛けてくるかわからない。そしてそれは直接的であったり間接的であったりとありとあらゆる方法でやってくる・・・そんな緊張感の高い世界を日々生き抜いていっています。
しかしどうやらそのような世界を生きているのはわたしだけなのかもしれない、ということに気づかされるような出来事がありました。
まずはそのきっかけとなったエピソードについてお話ししたいと思います。

パンドラの箱が開いた?


ある日の妻との何気ない会話をしている中で、妻が「えっ?」、と思うことがあったといいます。

わたしが、「電車に乗っていると、周りの人たちがスマホで自分のことを検索してSNSで拡散しようとしているから怖いよね」、と話しかけました。

わたしとしてはみんながそのような目に遭っているものだと思っていたので、同意を求めようとの思いからの発言だったのですが、その発言に妻はえらく驚いたといいます。

「自分はそんな目に遭っていないよ」、という妻の予想外の反応にわたしも戸惑いを感じ、また妻もわたしの世界のとらえ方に対して「何かあるのではないか」みたいなことを感じたようです。

わたしは統合失調症の診断を受けており、定期的に通院もして服薬もしています。
一番病状が悪かったときは、対人関係のつまずきや様々なプレッシャーなどにより、「誰かに見張られている」、「陰で悪口を言われている」、といったように思うようになり、入院したり、ひきこもってしまったりという状態になっていました。
ここ数年はそのような状態になることもなく、いわゆる統合失調症の幻聴や妄想といった代表的な症状も無いように自覚していましたので、日ごろから妻には「自分はもう統合失調症は治った」、「自分には統合失調症の症状はない」、と話していましたし、妻としてもわたしの普段の様子から、いわゆる「統合失調症っぽくない」、みたいに感じていたようです。
ところがわたしの発言からわたしの世界のとらえ方がある種独特であり、もしかしたらちょっと違うところがあるのではないか、なんて思ったようです。

そのためそこに妻が大変興味を持ったようで、ほかにもわたしがどのようにこの世界をとらえているのか、いろいろ聞いてくれました。
妻との対話を繰り返す中から、次第にわたしの世界の見え方というものが明らかになっていきます。
妻と一緒に始めた当事者研究で明らかになった、わたしが世界をどのようにとらえているか、どんな世界にわたしが身を置いているか、自分にとっての「普通だと思っていた」、この世界の見え方について、この後からお話ししていきたいと思います。

この世界は「やるかやられるか」


この世界は一歩外に出ると危険に満ち溢れている、電車に乗ればスマホで自分の個人情報を検索してSNSで拡散しているひとがいるし、街を歩けば3人に1人くらいの割合でわたしに対して攻撃を仕掛けてきたり、邪魔をしたりしてくる人がいる、そんな「やるかやられるか」の世界、周りはみんな敵だらけ、油断しているとこちらがやられてしまう、そんな世界をわたしは生きています。
具体的にこの世界をどのように見ているか、紹介していきたいと思います。

電車の中はキケンがいっぱい


電車に乗ると今やほとんどの人がスマホをいじっていると思います。みんなあのスマホで何を見ているのでしょうかね。
スマホをいじっている人の中には、わたしの名前や画像を検索していて、そこから個人情報を調べてSNSで拡散している人がいます。
彼らは一見普通の人たちのように見えるのだが、この世界を裏で支配する闇の組織の末端の人間であって、何か大きな目的を成し遂げるためにわれわれ一般人のことを検索して調査をしている。
そのような闇の組織の人間はこの世の中にかなり紛れ込んでいて、その人たち同士で交信をしあって彼らにしかわからないSNSのようなものもありそこで情報のやり取りがなされている。
わたしの個人情報もそのSNS上で拡散されてしまっているのだと思います。

見ず知らずの人がわたしの名前などわかるはずはないと思われるかもしれませんが、一見普通にみえる彼らの使うスマホは特殊な仕様になっていて、目の前の人を感知するとその人の名前や家族構成、思想信条、年収などが表示されるようになっているのです。
なのでこちらとしては防ぎようがなく、彼らの前では無力なのです。
一見普通にスマホを操作しているように見える方々の中には、ひっそりと個人情報を調べている闇の組織の人間が紛れている、電車内には危険が潜んでいるのです

街中でも油断はできない


電車の中で立っているとき、わたしの前で座っている方だけ降りずにいることがたまにあります。
また、街中を歩いているとき、わたしに対してにらんできたり、わたしをみて笑ったり、ぶつかってきたり、歩いているわたしを追い抜いていったりする人がいます。
彼らもまた闇の組織の末端の人間であり、わたしに対して攻撃を仕掛けてきているのです。
街ですれ違う人たちのうち3人に1人くらいの割合でこのような人が紛れており、ありとあらゆる方法でわたしに攻撃を向けてきます。
きっと彼らも情報のやりとりをしていて、おそらくわたしに関する情報を共有しているのでしょうね。
そのうえでわたしの行動を先回りして読んでいてダメージを与え陥れようとしているのです。

また、このような直接の攻撃でなくても、例えば街ゆく人のTシャツのプリントがじつはわたしのことを攻撃するような暗号であったり、そしてそれは闇の組織の人間の間だけでしか解読できないのですが、同じように街中の看板に暗にわたしを陥れようとするためのメッセージやイラスト、写真が描かれていたりといった形での攻撃もあります。
それらメッセージを受け取った闇の組織の人間がいつ自分に攻撃を仕掛けてくるかわからない、攻撃でなかったとしても、わたしのことを監視して、情報を盗み取っているかもしれない・・・そのため街中でも気を抜くことはできないでいます。

奴らが邪魔をする


買い物に行った先でも、闇の組織によって邪魔をされていると感じることが度々あります。
スーパーやコンビニなどに買い物に行くこともよくあるのですが、例えばお菓子やお弁当など、わたしが気に入ってリピートしようと思ったものが、次行ったときにはなくなっている、といった目に遭うことがよくあります。
単なる売り切れや商品入れ替えでは?と思うことがどうしてもできないのです。
実際、妻がそれらの物を買いに行ったときにはすんなりと買うことができたり、普段いかないお店に行くと置いてあったりすることもありますから。
自分の行動パターンや思考が闇の組織によって読み取られていて、そのうえで邪魔をしようとしてお店の在庫を調整したり、扱いをやめてしまったりというコントロールをしているような気がしてならないのです。
もちろん何の目的でそのような攻撃を仕掛けてきているのかはわかりません。
でもこれらの攻撃を受けることで実際ダメージを受けているわけで、そのたびに「またやられた」、と思ってしまうのです。

なので最近編み出した方法として、ある商品が気に入って、リピートしようと思ったとしても、普段から、そしてお店に入ったとしても、極力その商品のことは意識しないようにすることで奴らに自分がリピートしたいと思っていることを悟られないように工夫するといった作戦をとっています。その商品に対する思いを薄くするといった感じですね。
うまくいき、奴らを欺くことができることもありますが必ず成功するといったわけでもないのでなかなか難しいですね。

職場にもキケンが潜んでいる


今の職場の同僚や関係機関の方々は、みんないい人たちで協力関係を築くことができていますし、私も信頼を寄せてはいるのですが、時々彼らの顔が変わっているときがあります。
そういう時というのは自分の意思とは関係なしに、何か大きな力に支配され操られている状態にあるのではないかと考えます。
顔が変わっているときは彼らの反応や態度が違うのでわかるのですが、こちらからのあいさつに対する反応が薄かったり、表情が能面のようになっていたりして、態度もどこかよそよそしくなっています。
おそらく闇の組織に支配されているときであり、本人の意思とは関係なくわたしに対して何らかの攻撃を仕掛けてきているのだと思います。

もちろん彼らは操られてしまっているだけですから本当に自分に対して悪意を持っているということはないとは思うのですが、身近な親しい人たちにさえ闇の組織の力が及んでいて攻撃を仕掛けてくることがある、そして昨日まで親しげに話していた人たちの顔が突然変わってしまうので戸惑いを感じますし、闇の組織の支配が解ければいつものようにいい人たちではあるので対応に困ってしまいます。

闇の組織と戦う戦士として


わたしがどのような世界で生きているか、妻と始めた当事者研究の中で明らかになりました。
世界は何かわたしの知らないところで大きな力が働いていて、闇の組織の人間が街中に紛れ込んでいる、その末端の構成員たちが目的はわからないが大きなミッションを成し遂げるためにわたしの個人情報をスマホで検索したり、わたしのことを見張っていて時には邪魔をしたり攻撃を仕掛けたりしている。
そのため常に緊張感をもって生活を送らなければいけない、なぜならいつ攻撃が来るとも限らないから。

わたしは社会生活を送るというのはこのように緊張感の高い世界に生きるということだと思っていました。
そしてこのことは自分だけのことではなく、世の中のすべての人が同じような世界で生きていて、みんな戦いながら生活を送っていると思っていました。
この世界は「やるかやられるか」、みんな緊張感をもって日々生活を送っている、なのでわたしもこの世界で社会生活を送っていくには戦っていかなければならない、そんな風に考えていたのです。
緊張感の高い中で生活を送っているわけですからとても疲れてしまいますし、攻撃をまともに受けてしまって対処できないこともありますが、それはたぶん自分の対処能力が低いせいなのだという風にも思っていました。

このような緊張感の高い中で生活するということはわたしにとっては普通の考え方、世界のとらえ方でした。
なので人に話すことも確認することもすることなく、当然のこととして生きてきたのです。
妻との対話の中でいちいち驚く妻に対してこちらが違和感を覚えたくらいです。
「みんなはそのような世界に生きていない」、「この世界はそこまでキケンな世界ではない」、と聞かされてもにわかには信じられませんでした。
何しろ長い事やるかやられるかの世界で生活してきていましたので。

私の戦い方~当事者研究をやってみよう~


わたしの世界のとらえ方について妻からの提案もあり、当事者研究の形でとってきた対処法を振り返ってみました。いわば「わたしがこの世界を生き抜くための戦い方」です。

■イヤフォンをする
電車の中などでは特にそうですが、イヤフォンで音楽などを聴くことで意識をそちらに集中し、自分の世界に入り込みます。
おそらくわたしのことをスマホで検索したり、情報のやり取りをしたりしている人たちはいるでしょうが少なくともそのことを意識しないでやり過ごすことはできます。
外出するときにイヤフォンは欠かすことができません

■ノートに書きなぐる
攻撃されてるな、と思ったら、可能であれば「いま〇〇という人に攻撃されている」、ということをノートに書きだします。どのような人にどのような攻撃を受けて、自分がどんなダメージを受けているか、そして自分はどんな状態か、等々事細かに書き出します。
その次に相手にどのような反撃ができるかを考え書き出します。
この時浮かんできた相手に対する罵詈雑言などがあればそれも書き出します。
ノートの中で相手と戦い、やっつける感じですね。
この作業をやることで自分の勝ちが確認できればダメージを防ぐことができます。

■念じる
ノート作戦が使えないときは頭の中でシミュレーションをして相手と戦います。
相手に対して攻撃の念を送り続けたり、罵詈雑言を頭の中で投げかけたり、自分ができる怖い顔をしてみたりもします。

■シャワーを浴びる
外出から帰ると可能であればまずシャワーを浴びるのですが、シャワーを浴びることで外出中に受けた攻撃により体に付着した念や電波的なものをすべて洗い流すようにしています。
体や気持ちも浄化できるように感じています。

自分は「統合失調症?」


わたしの統合失調症との付き合いは20数年になります。
社会に出てからのわたしの人生は、言ってみれば統合失調症とともにありました。
入院も複数回経験していますし、仕事もなく、お金もなく、所属先もなくひきこもっていた時期もあります。

そのような時代から見ると、今はピアスタッフとして仕事もできていますし、結婚もすることができています。
やるかやられるかの世界で生きているとはいえ、いまは毎日それなりに社会生活はできていると感じています。
そんな中で自分の統合失調症って何だったんだろうな、なんてことを考え始めました。

おそらく、医学的に言えば、わたしの状態は統合失調症の被害妄想とか、関係妄想とかいうことになるのだと思います。
もしかしたらわたしの話を聴いたら、「すぐに治療が必要だ」、とか、「薬は効いているのか」などという人がいるであろうとも思います。
わたしが精神保健福祉の仕事をしてきた中でも、かかわってきた方々から「悪の組織から盗聴されている」、であったり、「特定の組織に後をつけられている」、であったりといった話は幾度となく聞いてきましたし、そのたびにそのような方々について病院にかかった方がいいのではないか、とか妄想に支配されているのではないか、という風に見立てることはありました。わたしの状態というのも、そのようにわたしが見立てていた彼らと何ら変わりがない状態であるように今にしては思います。

統合失調症=治療が必要か?


わたしのような状態であったり、かかわってきた方々のような状態であったり、つまり世界の認識がちょっと人とは違うからといって、すぐに治療につなげて統合失調症認定することって、必ずしも必要なのかな、なんてことを考えます。
繰り返しますがおそらくわたしの状態は統合失調症の症状によるものだと思います。
しかしながらわたしは自分なりに工夫しながら生活を送ることができています。
統合失調症の症状がありつつもうまく折り合いをつけながら生活をしていくことはできるのではないかな、服薬をして、通院をして、日中活動の場に通って・・・統合失調症の患者として、もっと言えば「統合失調症の患者らしく」、「精神障がい者らしく」、生きていかなければいけないなんてことはないんじゃないのかな、なんてことを思います。

やりたいこと、夢、希望、何でもやったらいいのではないかな、かなうかかなわないかはわからないまでも、チャレンジすることはできるし統合失調症だから、といった理由であきらめてしまうのはもったいないように思います。

わたしが当事者研究を行う中で、「やるかやられるかの世界」に身を置きながら、様々な対策や工夫を講じながらどうにか生き抜いてきたことが明らかになりました。
それはつまり、世界が「やるかやられるか」であることを認めてしまったうえで、その世界を何とかするのではなく自分の方がその世界にアジャストしていくというアクションであったといえると思います。
もちろん、治療を受けなくていいなどということを言うつもりはありません。
服薬や治療によって、世界が生きやすくなるのだとしたらわたしもありとあらゆる治療を試したみたい気持ちはあります。

ただ、世界の認識がちょっと人とは変わっている方々について、「統合失調症」だから、とその人を見る時にフィルターをかけてしまうようなことはとても残念であるように思います。
このことは精神保健福祉にかかわるすべての支援者といわれる方々に対しても声を大にして言いたいです。

「やるかやられるか」の世界を生きるわたしのように、ちょっと変わった世界に生きていたとしても、ちょっと世界の認識が人とは違っていたとしても、きっとみんなその世界で自分なりに工夫して苦労して生活しているのではないのかな、その世界観を共有することはできなかったとしても、間違いなくそのような世界がある、ということだけは認めてもらえたらいいな、なんてことを思います。

世界の認識が人とは違ったとしても、すぐに病気認定されてしまうのは悲しいです。
なぜなら自分の世界の認識を否定されているように感じるから。
もっと言えばみんなが自分の生きている世界についてフランクに語れるような世の中になれば、そしてそれをお互いが認め合えるような世の中になればもっともっと生きやすい世界になるのではないかな、なんてことも思います。

今回、わたしがすんなりと世界は自分が生きているような「やるかやられるか」ではないのではないか、と思えるようになってきたことのひとつの要因として、わたしの話を聴いたすべての人が、わたしの話を、言ってみれば「異常な」話としてとらえたり、否定したりすることなく、まず受け止めてくれたことが大きかったのではないかと思っています。
受け止めてくれたうえで一緒に考えてくれた、妻などはわたしの世界観を面白がってくれてそのうえで当事者研究という形にまでしてくれましたから。
もしかしたら「面白がる」、ということもキーワードかもしれません。
世界観に興味をもって、面白がって耳を傾ける、話を聴いてもらっているこちらとしてもとても話しやすかったですし、「聴いてくれてありがとう」、みたいな気持ちにもなりました。

その意味では安心して話せる場があるということときちんと話を聴いてくれる人がいるということはわたしにとってとてもよかったと思っています。
また、話したことで誰もいわゆる「ひいてしまう」、ことがなかった、「もしかしたらこの人やばい人かもしれない」、みたいに思われなかったことも救いでした。
もっともわたしの場合は「やるかやられるか」の世界が普通だと思い込んでいたので、その考え自体は自分だけのものとして認識してなかったわけですが、もしかしたら中には「自分の考えが人とは違っているのかもしれない」、などと思い悩み話せずにいる方もいるのではないでしょうか。
または「話したことによって周りの反応が微妙なものになってしまった」、という経験がある方もいるのではないでしょうか。
確かに誰彼構わず、自分のコアな部分の話をしてしまうということもハードルが高いかもしれません。受け入れられるとも限らないですから。

わたしの場合、一番身近に自分の理解者になってくれる人がいたということが大きかったとは思います。
そのために「誰に話す」、「どこで話す」、ということはとても重要になってくるのではないかなと思います。
安心、安全が担保され、何を話しても否定されない、批判されない、ジャッジされない、そんな場が増えればいいな、またそのように話を聴いてくれる人が増えればいいな、なんてことを考えます。
わたし自身がそのような場を欲していますし、同じような方も多いのではないのかな、なんて思います。

いつか近い将来、わたしと同じように、「ちょっと世界の認識が人と違う人」たちで集まり、安心・安全が保障された環境でいろんな世界の見え方について言いっぱなし、聴きっぱなしでわいわいと話せるような、そんな場を創れたらいいな、なんてことも妄想しています。
その先には、「統合失調症」、「幻聴」、「妄想」という言葉に付きまとうような、ネガティブなイメージが払しょくされ、それこそ「ちょっと世界の認識が人と違う人たち」、といったような感じで受け入れられるような世界になっていけばいいな、なんてことも思っています。

最後に~伝えたいこと~


自分のものさしだけで他の人を判断してしまってはいないでしょうか?
わたしが「やるかやられるか」、であると認識している世界観は、精神疾患ゆえなのでしょうか?
一般的な認識ではないことはわたしもうすうす気づくようになってきました。
しかしながらだからと言って、即病気認定されてしまうのは悲しいです。
世界が「やるかやられるか」、であると認識したうえで対処法を考え生活を送っているわたしにとって、そのことを「病気の症状です」、と言われたとしても「なんだかなぁ・・・」って思ってしまいます。
わたしの世界観に興味を持ってもらいたい、そしてそのような世界もあることを知ってもらいたい、それはわたし以外のすべての人ももしかしたらそうなのではないかなと思います。

精神疾患があろうとなかろうと、いろんな方々のいろんな世界観に興味を示す、そしてリスペクトする、さらには「いいね!」って言ってあげる。
もちろん、その世界で生きづらさを感じている人がいたら、対応について一緒に作戦会議をしてみる。

病気の症状であるかもしれませんが、目の前で起こっていることはすべて「リアル」、なんです。
その「リアル」、をありのまま受け止めてもらいたいな、なんてことを思います。
その先にあるのが「共生社会」なのではないかな、なんてことを考えています。


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