ブラックホール

「何処にも居ない。」
さっき迄テレビを見て笑っていたのに、凍りついたような顔でそんな事を言うから。
どうしたの。何がいないの?そう訊いた。
「美雨が。」
この間別れた恋人の事を言っているのだろう。
ここに居るわけがない。
兄はおかしくなったのだろうか。
ついさっきまでのテンションとの違いに驚いている。
「みう…。」
また名前を呼び始めた。
「いない。いないんだ。どこにいったんだ。ああ、こわい、こわい、なんだか、震えてきた、美雨は僕を振って、いまはどこかで、笑っているんだ。僕の事を、忘れて。なんでだろう。」
眼にいっぱい涙をためて、溢れる感情をそのまま口から吐き出している。
「このまま宇宙に飛んで死ねたらいいのに。地球を見ながら、死にたい。海の中でもいいな。美雨のいた、この世で。美雨がいた、世界。愛おしいな。美雨の吐いた息がこの地球の空気になって、でも僕は…ただ重たい身体を引き摺って、くだらない毎日を惰性で生きていくだけ。」
「あの顔は綺麗だった。ただ、優しくはなかった。芯のあるひとだった。周りに流されない。黙っていても我の強さが分かる。高山に凛と咲く一輪の花のようだった。いつも群れない、それでも寂しくなかったんだろう。自分をいつも信じていたんだ。」
いつまで一人で語るのだろうと思っていたら、兄と私のいる部屋がぐにゃりと曲がり出した。奥にある鏡が黒くなり、兄の顔も真っ黒になって、目玉も無くなった。これは何が起きたのだろう。兄の話を聞きながら、眠ってしまい夢を見ているのかもしれない。
それでも兄の声だけはする。
身体が固まって動けない。
目だけしっかり見開いて、前だけ見ている。
前にはブラックホールのような鏡と、ぐにゃぐにゃになった部屋と、七色に光るテレビ、そして兄はドロドロに溶けてしまった。
「美雨は美しすぎて怖かった。どうして僕と恋人になってくれたんだろう。たった一ヶ月の間だけだったけれど、挙動を見ているだけでとても僕は幸せだったよ。同じ空気を吸えて、僕は、幸せだった。」
兄の声はだんだんと大きくなり、耳元で話しているように、近づいてきた。夢よ、早く醒めてくれ。
体感時間は10分。足の指に力を入れたら、金縛りは解ける。そう教わっていてよかった。やっぱり夢だった。目を覚ますと息が上がり、ひたすらに呼吸が荒く、冷や汗もかいた。

一ヶ月後、兄は失踪した。
恋人だった美雨という女性はまだこの街にいるのだろうか。
毎晩怖い夢を見る。異常者が叫ぶ夢。
人が小人になって干枯らびていく夢。
今も忘れない。
兄が言ったあの言葉。
「美雨は僕が殺さないと」

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