『ペンギン・ハイウェイ』を爪に纏った夜
私の目の前に5色のネイルポリッシュがある。
私は大変爪に疎く、ネイルポリッシュが何物かも分かっていない。
そんな人間がet seq.の羽ペンネイルポリッシュ5色セットを買ってしまうのは無謀と言わざるを得ない。または宝の持ち腐れか。
しかし私には買わなければならない理由があった。
文喫とのコラボで、森見登美彦の小説をイメージしたネイルポリッシュセットが出るという。
森見登美彦コラボが発表になった日、どの作品がネイルポリッシュになるのかは判明していた。
しかし色は後々解禁するという。
ソワソワしながら解禁日を待った。
森見登美彦は『四畳半神話大系』の色が一番好きだとコメントを寄せており、余計に胸を躍らせた。私は断固として四畳半主義者であるからだ。
色が発表になった。
森見登美彦が『四畳半神話大系』の色を気に入ったという理由はすぐに分かった。くすみがかったグリーンは、四畳半に横たわる畳を想起させた。くすぶった「私」にも見えた。明石さんのワンピースに似ている気もした。薔薇色のキャンパスライフから一番遠い色にも思えた。
『夜は短し歩けよ乙女』は朱色だろうと予想していた。リンゴ、ダルマ、緋鯉……赤を連想させる色に違いないと。驚いたことに、ラメの入ったピンク色であった。一瞬「うーん」と戸惑ったが、このきらめいた指を折り曲げ、親指を内側にして「おともだちパンチ」を繰り出す乙女を思い浮かべ、納得した。成程、暴力の連鎖を断ち切る色だ。
赤を担ったのは『宵山万華鏡』。そう来たかと唸った。『宵山万華鏡』を怖いと感じている私にとって、鮮烈であった。
『有頂天家族』は辛子色に近く、狸のようで、そして阿呆で、面白き色をしていた。下鴨神社の薫りが漂っていた。
『ペンギン・ハイウェイ』は青色だった。夏のようで、海のようで、空のようで、凛としたお姉さんのようで、世界の果てのようで、そして冒険を続けるアオヤマくんそのものようで……。
森見登美彦は『四畳半神話大系』が気に入ったと書いてあったが、私は『ペンギン・ハイウェイ』の色を、一番気に入った。
5色セットは正方形の化粧箱に入っていた。
綺麗にリボンで結ばれている。
開けるのが勿体無かったが、四畳半主義者として、早く正方形から解放してやる必要を感じた。
化粧箱を開くと長方形が広がり、安堵した。
実際の製品を手に取る。
ネイルポリッシュは消耗品。塗ったら、なくなってしまう。勿体無いではないか。
しかしここで塗らなくては、企画の意図に反する。それに爪に森見登美彦を纏い文字を綴ることが出来たら、どんなに励まされるだろうとドキドキした。
届いたその日、お風呂上がりに私はネイルポリッシュを塗ることとした。
5色の小瓶を並べ、ウンウンと悩む。どの色から塗るべきか。まるで『四畳半神話大系』の「私」が入るべきサークルで迷うかの如く。
間違った選択肢を取れば四畳半に閉じ込められてしまうのではと不安になるのが、四畳半主義者である。どれも選ばないことが正解ではないかと疑ってしまう。
しかし、好機は目の前にぶら下がっている。
……どの色を選んだところで、結果として「私」のように、私の人生も然程変わらないのでは?
とにかく好機を掴み取ることが肝心なのだ。
そして私が掴み取った色。
それは『ペンギン・ハイウェイ』であった。
ネイルポリッシュの化粧箱を開けた瞬間、心に音楽が流れたのだ。サウンドトラックCDを聴き込んだ『ペンギン・ハイウェイ』のオープニング曲が。この曲に導かれよう。今は夏休み。ネイルに縁のなかった私なりの、冒険を。
うん、『ペンギン・ハイウェイ』からにしよう。
Blu-rayの『ペンギン・ハイウェイ』を流しながら、恐る恐る塗っていった。
私は爪を乾かす時間を待つのも耐えられないほどのイラチである。『ペンギン・ハイウェイ』を観ておけば待ち時間も豊かになると策略した。
しかし予想に反し、ネイルポリッシュは速乾性であった。私はネイルの概念を全く理解出来ていない。
そうして指の9本を、モタモタしながらアオヤマくんの色に染めた。
左手の薬指だけは、『宵山万華鏡』の赤にした。
思ったよりも「怖い赤」でゾッとしたが、私は『ペンギン・ハイウェイ』の青の中に、どうしても赤を入れたかったのだ。
アオヤマくんの研究ノートの赤。
お姉さんがペンギンを出す、コーラの缶の赤。
青い世界の果てにある、郵便ポストの赤。
研究を重ね偉くなったアオヤマくんと、お姉さんがいつかまた会えることを祈って。
――本当は知っている。アオヤマくんは恐らく、どれだけ歳を重ねて、どれだけ偉くなっても、お姉さんには会えない。私も知っているし、お姉さんも知っている。そして恐らく、アオヤマくんも。
しかし、祈ることは自由だ。
アオヤマくんの研究が、更に上手く行くように。
そしてお姉さんと出会えるように。
ええい、再会を願って何が悪い! 文学は祈りだ!
ネイルを完全に乾かすために、映画に集中する。
何度も読んで、何度も観た。結末も知っている。
別れの時が来る。
しかし、アオヤマくんは新たなプロジェクトを立ち上げる。
アオヤマくんは研究熱心だ。世界の果てにも行けるし、宇宙にも行ける。人類代表になる。そうして再び、お姉さんと会うのだ。
それが、彼の信念なのだ。
会える、会えるぞ、アオヤマくん!
お姉さんに大好きの気持ちを伝えるんだ!
エンドロールが流れている。
何度も観たのに、私は泣いている。
映画館で観た。Blu-rayでも観た。そもそも小説を読んでいる。それなのにまた、泣いてしまった。
宇多田ヒカルが歌う。
たくさんの「Goodbye」を。
そして最後に「Good Night」を。
「ぐんない」は『ペンギン・ハイウェイ』にとって大切な言葉だ。
初めて映画館で観た時、削ってしまうのかと残念に思った。
肩を落とす私を尻目に、宇多田ヒカルが世界を掬い上げる。
最後に、「ぐんない」。
レイトショーで観た私は慌てて、閉店間際のタワーレコードに駆け込み、サウンドトラックと宇多田ヒカルのアルバムを買った。
帰りの車の中で聴いた。
泣きながら運転をしてはいけない。
脆弱な涙腺には随分と無理をさせた。
家に着いた時、街灯は滲んで見えた。
ネイルを塗るだけ。
それなのに私は『ペンギン・ハイウェイ』を初めて読んだあの日、そして映画を観たあの日を思い出せた。
たった一回塗っただけ。
それなのに壮絶な体験をした。
草臥れた私はベッドで横になり、このnoteを書いている。青と赤の指先で。少しだけ、森見節を意識して。
しばらく私は青と赤の爪で生きる。
その次は何を塗ろうか。
どの小瓶を選んでも、森見登美彦の小説を読んだ体験や、映像化された作品を観た体験に襲われる。
爪を塗ることで、こんなにも様々な感情が溢れるとは思ってもみなかった。
ああ、ここまで書いて、どっと疲れが出た。
そろそろ眠りに就こう。
アオヤマくん、お姉さん、森見登美彦、そして永久機関の相棒である上田誠。
ぐんない。
夏。コーラ。
……エアコンのリモコンにだけは、気を付けなければ!