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【巨人の肩の上から #6】-世界を「ネットワーク」として見てみる

They now invent a seat belt that politely makes way for me when I open the door and then straps me as politely but very tightly when I close the door. Now there is no escape. The only way not to have the seat belt on is to leave the door wide open, which is rather dangerous at high speed. Exit the excluded middle. The program of action "IF a car is moving, THEN the driver has a seat belt" is enforced. It has become logically—no, it has become sociologically—impossible to drive without wearing the belt. I cannot be bad anymore. I, plus the car, plus the dozens of patented engineers, plus the police are making me be moral.

彼ら(自動車を開発するエンジニア)は今や、私が車のドアを開けるときには締まっておらず、私が車のドアを閉めると丁寧に、しかし非常にしっかりと締まって私を縛り付ける自動シートベルトを開発したとしよう。シートベルトを締めずに車を走らせる唯一の方法はドアを開けたまま発進する事だが、これは高速で走る場合にはかなり危険だ。排中律(=「車が走っている、かつ、ドライバーはシートベルトをしていない」はありえない)の法則が完成した。行動のプログラム「もし車が走っているのならば、必ずドライバーはシートベルトをしている」が強制された。シートベルトなしで運転をすることは、論理的 logicallyに、否、社会学的 sociologically に、不可能となった。私はもう悪人にはなれない。私、車、何人もの特許持ちのエンジニア、そして警察が、私を道徳的に振る舞わせるのだ。 [拙訳、伝わりやすさのためやや意訳をした部分があるので注意]

Latour, B. (1992) "Where are the missing masses? The sociology of a few mundane artifacts"

想像してみてほしい。あなたはとあるホテルの支配人である。あなたは今、ホテルの経営に関するある問題に頭を悩ませている。それは、外出の際に部屋の鍵を返却せずに持ち去ってしまう宿泊客が後を絶たないという問題だ。ホテルの決まりでは本来、日中に観光などへ出かける際には、客はフロントに部屋の鍵を預けてから外出するということになっているのだが、それを守らずに鍵をホテルから持ち出し、あまつさえ外出先で鍵を紛失する客もいる。さて、あなたならばどうやってこの問題を解決しようと考えるだろうか?

ホテルの部屋の鍵といえば単価が安くコンパクトなカードキーが主流となってしまった現代ではややわかりにくい例え話となってしまったが、1990年に書かれた科学社会学者・B.ラトゥールの論文(“Technology is society made durable”)では「ヨーロッパのホテルにおいて広くみられる小さなイノベーション」として、部屋の鍵に大きくて邪魔くさい重りのようなキーホルダーを取り付けるという方法が紹介されている。これは、それまでホテルで取られていた「チェックイン時にお願いする」、「“Please leave your room key at the front desk before you go out”と書かれた貼り紙を玄関のドアに出す」といった他の方法よりも効果的面だった。支配人は、「大きくて重いキーホルダーが取り付けられた邪魔くさい鍵をポケットに入れたまま外出するよりは、フロントに預けていった方が良い」とほとんどの客に思わせることに成功したわけである。

ラトゥールはなぜこんな話を論文で取り上げたのだろうか?それは、「社会的なもの」を記述するための方法としてラトゥールが提唱した「アクターネットワーク理論(Actor-Network Theory, ANT)」と深く関係している。彼はホテルの鍵にまつわる上のような現象をこう記述する。「発話者 enunciator」であるホテルの支配人は、客がとある「行動プログラム program of action」―『外出する際には鍵をフロントに預けよ』という規範― に従うことを意図して「ネットワーク」を構築した。ネットワーク上には、支配人、客に鍵を返却させるようにしたいという支配人の意思、それを客に伝える彼の言葉、貼り紙、そして鍵につけられた重り…と、無数の主体が存在し互いに連携している。ラトゥールの論理で重要な点は、ネットワークを構成する「主体」には人(Actor)に限らず、(重りのような)モノ(Actant)も含まれるということだ。支配人はネットワークの中に多くの要素(すなわち客に注意をする言葉や張り紙、そして重り)と、それぞれに想定されたネットワーク上での「役割」(張り紙は客に支配人の意図を伝え、重りは客に鍵を持って外出したくないと思わせる)を用意することで、強固なネットワークを作り上げ、自分が用意した行動プログラムに従わない客の数を減らしたと言える。

逆に言えば、張り紙も重りも、支配人が用意した「ネットワーク」の上で役割を与えていたからこそ、「外出の際には鍵を返却する」という行動プログラムに人々を従わせることに貢献した、とも言える。重りそれ自体に、人間に鍵を返却させる効果があるだろうか?別のネットワーク、例えば目の前にあるメモ用紙が扇風機の風で飛ばないように私が設定するネットワークでは、同じ「重り」でも別の役割(紙の上で、紙が飛ばないように押さえつけておく)が与えられる。そのネットワーク上にも、私、紙、扇風機、「風」(より科学的には、空気)といった複数の主体が各々の役割を果たしていることは言うまでもない。


2年後の1992年に書かれた論文(“Where Are the Missing Masses? The Sociology of a Few Mundane Artifacts”)では、ラトゥールは「車につけられた警報ブザー」に注目している。車に乗り、シートベルトを締めないままエンジンをつけ発車しようとすると、けたたましい警報音と共に前面のディスプレイに “FASTEN YOUR SEAT BELT!(シートベルトを締めなさい!)” と表示される。この煩さにはとても耐えられない、と運転手は慌ててシートベルトを締める。ラトゥールはここで問いかける。「ここで実現されたのは “どこにある” モラルなのか」?運転手の心の中か、車の開発者か、成文化された交通ルールか、はたまたシートベルトそれ自体や警報ブザーといったモノの中に、“それら”が開発されたときから備え付けられているモラルなのか?答えはそのどれでもない。それら全てが構成している「ネットワーク」が、「運転手はシートベルトを締めよ」というモラルを社会的に構成するために用意されたものだからだ。言い換えれば、ネットワークという文脈の上になければ、警報ブザーはただの音であって、シートベルトを締めよということを「警報」するブザーにはならない。肝要なのはモノや人ではなくネットワークなのだ。私(運転手)、車、交通ルール、シートベルト、ブザーはすべてネットワーク上のアクターにすぎない。実現されたのは、「運転手はシートベルトを締めよ」というネットワークそれ自体のモラルなのだ。

ANTから見れば、「鍵を預ける」にせよ「シートベルトを締める」にせよ、大多数の人がそれが正しいと信じてとるような「行動」は、緻密に用意されたネットワークによって「モラル(=道徳的な模範)」とされた行動プログラムなのであって、その起源は「誰か」ではなくmissing masses=人もモノも含むネットワーク上の多様な主体 にある。秩序とは、ネットワークが各主体に与えた役割が問題なく遂行されている状態のことであるにすぎない。これはかなり過激で眉唾ものな世界の見方と言っても良いが、ともあれ、身の回りにある様々なモノ、人が生成する「秩序」を、ネットワークとその構成物という視点から解体してみるという試みも、時には悪くないのかもしれない。

2022/04/21


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