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【巨人の肩の上から #3】 -人に合わせて歌が出来て、時代に合わせて言葉が出来る

喜怒哀楽をカテゴライズ 人に合わせて歌が出来て
悲しい時はこの歌を 寂しい奴はあの歌を
騙されねーと疑い出して 全部が怪しく見えてきて
人を信じられなくなったら 立派な病気にカテゴライズ

amazarashi『つじつま合せに生まれた僕等』(Apple Music/YouTube)

カテゴライズ、すなわち「分類すること」という人間の行動の正体は近代以降、常に哲学、言語学、人類学といった多岐にわたる分野において問われ続けてきた問題の一つと言って良い。
人間は(あるいは「『知』は」と言い換えても良いかもしれない)、はじめは何も理解することができないカオス状態であった現実世界に、「神話」なり「科学」なりと呼ばれる枠組みに則って、意味を与え分類してきた(これは「解明してきた」と言い換えても良いかもしれない)。人間は自分達を苦しめてくるさまざまな出来事に対して、「天災」「ウィルス」「神の祟り」…という記号(すなわち言葉)をあてがい、分類をすることで世界を自らにとって理解しやすい秩序ある形ヘと再編成してここまで栄えてきた。
このことは、同時に、人間は秩序ある形でしか物事を考えられないという「悪癖」の存在も示唆していると言える。すなわち、「カテゴライズ」することなしには現実を捉えられないのだ。男と女、健康と病理、科学と非科学…人間が勝手に生み出しただけに過ぎない「カテゴリー」に現実を強引に当てはめて、世界を理解しようという試みに本当に限界はないのだろうか?このような問題意識は、「近代」—すなわち、人類が啓蒙と秩序化へと大きな転換するきっかけとなったヨーロッパの一時代—を客観的に見つめることが可能となった20世紀以降、急激に芽生えてきたものであった。
「カテゴライズ」行為の解体として、ひとつ具体的な例を挙げよう。ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』は狂気、すなわち現代の用語で言うところの精神について、医学ではなく歴史的な視点から紐解いた極めて重要な著作である。フーコーがこの著作の中で取り組もうとした内容の全体はヨーロッパの社会史についての膨大な分析を含んでいるので、ここで述べるのは私の手に余るが、重要なテーマの一つが社会からの狂人の「隔離」であった。社会はアウトサイダーたちに「精神疾患者」という名札(カテゴリー)をつけ、「精神病院」という名前の施設に監禁することで、彼らを理性の名のもとで合法的に社会から隔離することに成功したのである。「健康」と「病理」というふたつのカテゴリーの間には必然的にヒエラルキー存在し、こうして言葉一医学という「知」に裏付けされたカテゴライズ一は、健康な者が病理に侵された者を診療し、管理し、監視するという社会的な権力構造を確固たるものへと変えてゆく。これが、フーコーが看破した「知と権力」の共犯関係であった。

ミシェル・フーコー(1926~1984)

引用したamazarashiの歌詞も、社会において常に存在する「カテゴライズ」が秘める抗い難い暴力性、権力性を描き出しているようで非常に印象的だ。もちろんamazarashiに限った話ではないのだが、amazarashiの歌は特に、人生や社会についての作詞者(秋田ひろむさん)の哲学や、聴く人へのメッセージを強く感じられる。そこに惹かれる人は多いのだろう。「病気」の精神と「正常」な精神とはどのように区分されうるのだろうか?何を根拠に「病人」は「正常」のカテゴリーから追放され、隔離され、排除されるのだろうか?

「安易な」カテゴライズは思考放棄なのか?

冒頭にも書いたように、人間には常に自分が知覚したものを分類することで思考を単純化し、楽をしようとするという癖があるようだ。たとえば、初対面の相手を外見や声だけで「男/女」というカテゴリーに分類し、「男らしさ」「女らしさ」のような固定化された性別観で語ってしまう人は数多く存在するし、自分だって気を抜いてしまえば(ジェンダーに関係なく)自分の頭の中で他者を暴力的にカテゴライズしてしまうことはいつだってありうる。
見方によっては、言葉に代表される記号の多くはこのカテゴライズのために生み出されてきたと言っても良い。
スウィフトの『ガリヴァー旅行記』の第3話(該当部分はリンク先の213ページ〜)に登場する国、バルニバービの都市ラガードにある言語学研究所では、「あらゆる言葉を消す」という研究が行われいていた。発話は肺を消耗させる行為といえるから、言葉を廃止してしまえば人々の健康に良い。そして、「言葉はものの名前に過ぎない words are only names for things」のだから、「パン」や「コート」という言葉が存在しなくても、パンやコートというモノそれ自体の性質は変わらない。言葉がなくても、モノそれ自体を持ち歩いたり指差したりすれば、十分というわけだ。実際、人間が世界をありのままで理解でき、いちいち目に入ったものを分類しなくても、神のようにすべてを認識して脳で処理できるのならば、言葉は必要ないのかもしれない。
この寓話が示すように、言葉それ自体は世界に対して何も変化を与えない。ただ、人間が理解しやすい形式、秩序的な形式に世界を切り分ける(言語哲学ではこれを「分節化」と呼ぶ)ために、現実に対して言葉が当てはめられるのである。例え話をすれば、「赤」と「青」しか色彩を表す言語が存在しない世界で、我々の言葉でいう「紫色の物」を目撃した人間は、それをカテゴライズするための言語が存在しないことに戸惑い、そこで「紫色」に対応する新たな名詞を生み出すことになるだろう。しかし、色を表す言語は(日本語でも英語でも数字を用いたカラーコードでも)理論上有限であるのに対して、現実世界の色彩は連続的なスペクトル上の座標であり、すなわち無限に存在する。だから、例えば私たちは「紫よりちょっと赤寄りな色」を、暴力的に「赤」だったり「紫」だったりというカテゴリーに嵌め込んでしまう。これはちょうど、性自認が男性でも女性でもない(例えばクエスチョニング:LGBTQの「Q」)人物を、暴力的に「男」や「女」というカテゴリーに当てはめてしまうのと同じだ。
これは人間の本質であり、言語の本質であり、だからこそ時代に応じて言葉は増えていく。「人工」と「自然」という二つの伝統的なカテゴリーでは当てはめきれない存在(例えばクローン生物)が氾濫する世界に直面した時、我々は新たなカテゴリー、すなわちそれらに対応した新たな名詞を必要とするだろう。どんなに理性的な人間でも、カテゴライズ不可能なものが現れたときにそれを名づけずにはいられない、世界を「分節」せずにはいられない、という人間の本性には抗い難い(付言すれば、分節化の進行に伴ってかつては区別をする必要なかった存在への再命名、すなわちレトロニムも必要になるだろう)。発話は健康に悪いが、私たちには言葉で世界を征服する快感を捨て去ることはできないのだ。

ごちゃごちゃと考えていても、結論は出ない。結局、私たちは自分を含めた世界のあらゆる存在を言語を通して考えているし、何か(誰か)を何らかのカテゴリーに当てはめることでしか世界を理解することも、発話することもできない。だから大事なのは、(特に他の人間を分類する時には)それがある程度「暴力的な」人間の本性であるということを一度立ち止まって考えてみること、そして同じカテゴライズでも可能な限り思慮深く行うことではないだろうか。時代に合わせて言葉はできる。今世界に存在するような言葉では表現できないような美点が、自分が今「嫌いな人」というカテゴリーに入れようとしている人間にもあるのかもしれない。

2022/03/27


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