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日記

親から受け取らなければいけない事務的な書類があり、郵送してもらってもよかったのですが、せっかくなのでこの三連休、短い期間ですが実家に弾丸帰省をしています。

実家に帰るといつも驚くのが、家を離れてから改めて見ると当たり前ではないことに気がつく、家の中にある本の量です。私の両親は共に読書家ですし、特に母は大学時代に国文学系の学科に所属していたということもあり、家には古い文学作品を中心にさまざまな本が多く置いてあります。家にいた頃は特に気にしたこともなかったですが、幼少期からさまざまな本に囲まれて生きてきたということは、ふと今になって思ってみるとこれ以上なく贅沢で幸せなことです。

さて、もしかすると経験したことがある方もいらっしゃるかもしれませんが、実家の本棚に並べられている本の背表紙を眺めていると、本の内容と同時に、さまざまな過去の思い出が蘇ってくることがあります。そして、本そのものというよりはその中に包み込まれている過去の自分の像を覗き込もうとするような心持ちで、ふと懐かしい1冊を手に取って、その中身をもう一度読み返したくなるということもまたあるでしょう。もしかすると、こういう時間と共に育まれるある種の「あたたかさ」が、紙の本にあって電子の書籍にはない魅力なのかもしれません。

パソコン作業に疲れ、背伸びをしながらぼんやりと本棚を眺めていたら、村上春樹の『回転木馬のデッド・ヒート』が目に入りました。そういえば大学生になってから1冊も読んでいませんが、中学生の頃から高校生にかけて、生粋のハルキストだった母の影響もあり、村上春樹はよく読んでいました。たしか、最初に読んだのは中学3年生のときに母に勧められた『海辺のカフカ』だったっけ。主人公が15歳の少年で、ちょうどその時の自分と同い年で、でも物語の中の彼はずっと自分よりも大人びて見えて、それがとても不思議な感覚だった。そんなことを思い返しながら、なんとなく過去の自分の青春を想い出すような感覚とともに、気がついたらその本を手に取っていました。


魅力的な小説のもつ美点のひとつは、それを読む時間によって、その受け取り方、書かれている言葉が自分の中に浸透してくる時の感覚のようなものが、玉虫色に変わってゆくということではないでしょうか。きっと、今の21歳の私が『海辺のカフカ』を読んでも、6年前の自分のように主人公の少年カフカに人格的な魅力を感じない気がするのです。逆に、地方の高校生に過ぎなかったときの自分には感じ取ることができなかったであろう人間の精神の機微や、ちょっとしたメタファーの美しさに感動することが、あれから多少の人生経験と読書経験を積んだであろう今の自分にはできるかもしれません。

『回転木馬のデッド・ヒート』は高校生の私にとってはそこまで魅力的な本ではなかったようで、その内容はほとんど覚えていませんでした。それもそのはず、本書はさほど分厚くなく高校生にとっても比較的読みやすい文体の短編集ですが、作者の村上春樹は最初に、それぞれの短編の内容は彼が都会(東京)で実際に出会い、話を聞いたさまざまな人々の話を叙述した、ほとんど事実に基づくノンフィクションである、と説明しています。もちろん、細部は作者の唯一無二の文章力によって’小説的’にされていますが、基本的には各短編の内容は、昔どこかの誰かが実際に「東京」という街で体験した出来事なのです。だからこそ、どことなく都会的で淡々とした、そして無性に大人びた各登場人物たちのありかたを、田舎暮らしの少年は理解できなかったのでしょう。

しかし、東京で数年間一人暮らしを経験した今の自分にとって、改めて読み返す『回転木馬のデッド・ヒート』は不思議な満足感を与えてくれる作品でした。冒頭に収録されておりタイトルにもなっている、本書の執筆理由や内容を筆者が自ら説明した「はじめに・回転木馬のデッド・ヒート」の次の文章は、私の頭の中に、私がよく理解できていなかった自分の'人生観'のようなものについて、不思議な納得感をじんわりと芽生えさせました。

…たとえば僕が小説を書くとき、僕は自分のスタイルや小説の展開に沿って、ごく無意識のうちに材料となる断片を選びとっている。しかし僕の小説と僕の現実世界は隅から隅までぴたりと合致しているわけではないから(そんなことを言えば、僕自身と僕の現実世界だってぴたりと合致してはいないのだ)、どうしても僕の中には小説に使いきれないおり、、のようなものがたまってくる。
[中略]
 他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われていくことになる。おり、、とはその無力感のことである。我々はどこにも行けない、、、、、、、、、、、というのがこの無力感の本質だ。我々は我々自身をはめこむことのできる我々の人生という運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々自身をも規定している。それはメリー・ゴーラウンドによく似ている。それは定まった場所を定まった速度で巡回しているだけのことなのだ。どこにも行かないし、降りることも乗りかえることもできない。誰をも抜かないし、誰にも抜かれない。しかしそれでも我々はそんな回転木馬の上で仮想の敵に向けて熾烈なデッド・ヒートをくりひろげているように見える。
 事実というものがある場合に奇妙にそして不自然に映るのは、あるいはそのせいかもしれない。我々が意志と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分は、その発生と同時に失われてしまっているのに、我々はそれを認めることができず、その空白が我々の人生の様々な位相に奇妙で不自然な歪みをもたらすのだ。
 少なくとも僕はそう考える。

村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』 p.10-15


青春とはある意味、閉ざされた世界の中にある大人によって保護された空間において、限られた一部の人間と狭く深い関係を築くことができるという、もっとも贅沢な留保条件付きで得ることのできる幸せのことでした。
大学生になり、上京し、私の世界は開かれましたが、それは同時に他者と向き合い、それによって自分とも向き合うという苦痛の繰り返しを余儀なくされることをも意味していました。私は今や、青春という軛から解き放たれました。しかしそれと同時に、私は「世間」に対して丸裸の無防備な姿で自己をさらけ出さなければならなくなったのです。

高校卒業から3年と半年、私にとって東京はしばしば極めて孤独な場所のように感じられましたが、それはもしかすると場所の問題ではなかったのかもしれません。それは、無尽蔵に存在している「他者」の生をかいま見ながら、自己の無力感を自覚するという精神的な行為そのもののもつ孤独なのかもしれない、ということです。

大人になるということ、「独り立ち」し、「自由」を手に入れるということの本質は、もしかするとこのような、自分は、自分の乗っている’回転木馬’にまたがって生きてゆかねばならないということ、他者の背中の像をずっと追いかけ、熾烈なデッド・ヒートを繰り広げていると錯覚しながらも、ただ「自分の人生」の周回軌道上を運行しなければならないということを、自覚するということなのではないでしょうか。
そう思うと、この表現はどこか寂しくもあり、しかし核心をついているような、極めて味わい深いメタファーです。

2022/09/25

【追記】
たくさんの「いいね」をくださり、ありがとうございます。自分の投稿にこれほど多くの方が反応をくださるのは初めてなので、とても嬉しいと同時に少しだけ緊張しています。
それなりに何回か書いてきた中で、自分の中で気に入っていたり、特に思い入れがある投稿というものはいくつかありますが、それらの個人的力作よりも、思ったことちょっと日記として書き記しただけのようなものが思いがけず評価していただけるというのは、少し寂しくも楽しい感覚です。ある意味、このような投稿の方が「自然体」で良いということなのでしょうか。

さて、この投稿の後、15歳のときぶりに改めて『海辺のカフカ』を読み返しました。記事の中でも書いた通り、主人公の少年カフカは、もはや私にとっては年下の男の子となっており、彼と同い年のときに本書を読んだときの独特の高揚感のようなものはなかったように感じられます。もう自分は、『海辺のカフカ』をいくら読み返しても、少年カフカを本質的には「大人」の目線からしか見つめることができないというのは寂しいことです。
しかし一方で、6年前の自分にはおそらく理解できていなかったであろう本書に散りばめられている固有名詞——例えばオイディプス王や学生運動、ナチスのアイヒマン、ヘーゲル、シューベルト——がしっかりと前提知識として理解できるようになっていたこと、それらの言葉がそこで登場する意味のようなものを掴めるようになっていたことは、時間がもたらしてくれた大きな収穫だったと思います。
結果的に、私は『海辺のカフカ』という本を15歳の少年だったときよりもずっと「ふつうの一般読者」的に、しかしおそらく同時にずっと味わって読むことが出来た気がします。
総体的に見ればそれは、悪くないことなのでしょう。

2022/09/27


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