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「ギフテッド」支援、その気持ち悪さ

※本投稿はかなり怒った論調で書かれており、やや過激な主張を含みます。怒りのこめられた文章に耐性のない方は読むことをお勧めしません。

文部科学省は2023年度予算案で、特異な才能のある子どもの支援に向けて、8000万円を計上する方針を固めた。海外で「ギフテッド」と呼ばれる子どもの支援に初めて乗り出す。

読売新聞オンライン 2022/12/22「特異な才能ある子ども支援に8000万円…文科省予算案方針、関心に合った授業作り検討へ

政府は来年から「ギフテッド」、すなわち「特異な才能がある子ども」の支援に乗り出すらしい。このニュースを目にした時、心の底からモヤモヤが湧いてきた。このモヤモヤの正体は何なのか。なぜ自分はこれに対してここまで不快感、怒り、絶望を覚えるのか。すぐには言語化ができなかった。

とりあえず思ったことをここに書き出して、自分が「ギフテッド支援」の何が問題だと思っているのか、それをはっきりと系統立てることを試みようと思う。おそらくまったくもって理路整然とはしたものにはならないだろうし、内容も飛び飛びのグチャグチャになると思うが、こういう「言語化できない感覚をとりあえず文字に起こしてみる」という作業にはそういうライブ感も大事なのかもしれない。少なくとも、今ここにある「怒り」という瞬間的な心理的感覚を文字にのこそうと思うのならば、そういったものは言葉そのものではなく文章の体裁や荒々しさのような場所に宿るだろう。

「ギフテッド」とは誰なのか?

そもそも、国を挙げて支援されるというこの「ギフテッド」と呼ばれる子どもたちはどのような人たちなのだろう?記事によれば、「特異な才能を持つ子どもは、授業が簡単すぎて苦痛に感じるなど学校になじめずに不登校となるケースがあり、文科省は支援が必要だと判断した」そうだ。

なるほど、そういうケースはたしかに存在するだろう。私は小中高と地方の「普通の(?)」公立校に通っていたが、たしかにその教室を思い返せば、お世辞にも教室内の”学力”の分散は小さかったとは言えない(入試を経て入学した高校では、小中と比べれば比較的小さかったとは思うが)。そのなかで、できる限り平等な教育を提供するためには、「特別な才能を持つ」子どもには多少の我慢をして簡単な授業を受けてもらわなければいけなくなる(もっとも「特別な才能」など持っていなくても、ちょっと賢くて、親が教育熱心なお陰でやっててよかった公◯式なんかに通わせてもらっていれば、この特権的な退屈感は簡単に味わえるものな気がしなくもないが)。エクスクルーシブ教育を導入すれば、これよりかは効率的な教育体制が可能だ。その理屈はわかる。

だが、問題はそこではない。問題は、教育の現場ではなく、国家がこの支援を行うことを決めたということだ。

不登校の子どもは日本にはたくさんいる。その理由は様々だろう。学校に行きたくない理由なんて無数に思いつく。日本国政府はそのうち、「特異な才能を持つ」子どもたちを特に支援し、その子たちのために特別な教育課程を用意してあげることにした。

なんのために?

答えは見えきっている。その「特異な才能」を拍手喝采のもとで伸ばしてあげて、将来立派に国に奉仕する「人材」になってもらうためだ。国家が「国益」の観点から、子どもたちに勝手に「特異な才能」などというラベルを貼り付けて選別を行う。肉牛を育てる畜産業者が、飼い牛に「A5ランク特選牛」のラベルを貼り付けるのと同じだ。将来性への期待から、子どもたちは国家に投資される。やがて高値の良い肉になるだろう肉牛に、高級な餌と牧舎が用意されるように。

自閉症スペクトラムをはじめとするいわゆる「発達障害」と呼ばれる脳の発達特性を持つ人々は、実際は’障害’(=病理)ではなく、少数派的な脳特性を有しているだけだ。それを「生きづらさ」を伴う「障害」として区分するのは社会の側であり、個々の脳や神経の特性が尊重される「脳多様性」社会が理想とされるべきだ、と考えるのが、脳的少数派当事者たちを中心に形成されてきた「ニューロダイバーシティ」という考え方らしい(『ニューロダイバーシティの教科書』)。
本書によれば、ニューロダイバーシティは、「私たち(=脳的少数者)と彼ら(=多数派)を切りわけるための道具」ではない。多様な脳神経的特性が相互に尊重され、配慮(考慮)され、受容されるためのマインドセットだ。

国家主導の「ギフテッド支援」は偽善の皮をかぶって、その逆を行く。子どもたちは「特異な才能を持つ者」と「そうでない者」に分け隔てられ、前者の箱に入れられた者たちは将来その才能を立派に活用することを半ば強要されつつ、国家に育てられる。その中には、数学の才能が桁違いだと見出されて「ギフテッド」にされたが、実はサッカー選手になりたかった子がいるかもしれない。実際にはまあ数学だけではなくサッカーをする自由ぐらいは担保されるだろうから、そこまで露骨ではないだろうが、それでも、見初められた「特異な才能」を活用する以外の道は暗黙のうちに閉ざされやすくなるだろう。

当人たちにとってみれば、「障害」として差別され息苦しさを覚えながら生きるよりは無論幾分かは快適だろう。しかし、実質的には、「障害」のラベルを押し付けられるのと、「天才」「ギフテッド」のラベルを貼り付けられるのとの間に、何の違いがあるのだろう?

もっと言えば、もちろん、脳的少数者が皆「特異な才能をもつ」と”認定”されるわけでもないだろう。価値中立的に「診断」される脳神経の傾向とは違い、8000万円の予算を投入するに値する「特異な才能」かどうかは国家にとって「価値ある」才能かという基準で定められるはずだからだ。ここにもまた、「選ばれし」脳的少数者とそうではない脳的少数者という暴力的な分類と分断が出現する。これはただのたられば話ということを前置きさせていただくが、前者は「ギフテッド」という素敵な称号を頂き、後者に対してのみ用いる語として「発達障害」という呼称が残るような未来が訪れたとしたら?そのときは、「ニューロダイバーシティ」と書かれた墓を建てよう。

20世紀の悲劇的な歴史の教訓は、個性を尊重する自由主義の理想と地獄の全体主義は遠く離れた両極ではなく、薄い紙を一枚挟んだだけの隣人同士だということだった。だからこそ、ハイエクポパーのような「自由な社会」の擁護者たちは必死に格闘したのだ。資本主義と国家権力が奇妙な共犯関係を結んだこの新’自由’主義の行く末を、彼らはどう捉えるのだろう?今、まさに、その暴力性を隠そうともしなくなった能力主義と利益・効率至上主義のタッグが、生政治(バイオポリティクス)と肩を組んで社会に蔓延している。掲げる看板は、「個性の尊重」か、「新しい資本主義」といったところか。

「ギフテッド」という言葉の持つ気持ち悪さに関しては、それ以上だ。

私はおそらく「特異な才能」を持って生まれた「ギフテッド」ではない(と自分では思っている)が、両親からこの体と心、命を「gift=与え」られて生まれてきたし、生まれた後も、数えきれないほどの人に支えてもらって育ってきた。だが、私は政府によればギフテッドではないらしい。何も「与えられてギフテッド」ないらしい。

「私たちは皆、かけがえのないこの命を与えられてギフテッド生まれてきました」などという綺麗事を述べたいわけではない。だが、政府のこの言明は、「私たちは『与えられた』者とそうではない者を分別することにしました」ということを臆面もなく述べているに等しい、ということだ。どうやら「特異な才能」があるらしいごく一部の与えられし子どもは選抜され、「それ以外」の大多数の子どもたちは今まで通り教室に詰め込まれる。その中には「特異」とまではいかない(というふうに政府に判断された)が、学校の授業を簡単だと思える程度には賢い生徒もいれば、授業についていけなくなってしまいやがて息苦しさから不登校になってしまいかねない生徒までいて、皆同じ授業を受けさせられる。分断が生まれるだけで、状況は何も変わらない。せいぜい、自分がA5ランク和牛として育てられたということに気づかない(あるいは気づいていてもそれで良いと思える)幸福な「特異な才能」の持ち主のおかげで、国家にとっての将来的な「収益性」がちょっと上がるかもしれないだけだ。

それを子どもに強いる残酷さ

私はとある人文社会科学分野を専攻しているしがない学生で、将来はもしも可能だったらアカデミックなキャリアにつきたいと夢見ている。

しかし、コンピューターサイエンスやAI開発やデータサイエンスのような輝かしい分野(実際のところ、私はこの三者の区別さえもろくについていない)と比べれば、(若干のディスになるので何の分野かはここでは明らかにしないが)私の専攻分野はお世辞にも国家や社会に対してわかりやすく「役に立つ」ものとは言えない。したがって国家からの研究予算は雀の涙ほどしか降りていないようだし、大学教員のような研究ポストはほとんど席が用意されていないのが実情だ。「将来はどっかの大学の教授にでもなって、研究も後進の教育もどっちも頑張りたいです!」なんて、口が裂けても言えない。言えるとしたら、せいぜいその分野の海外のトップジャーナルにでも論文が掲載されてご立派な実績ができてからだろう。

これが「選択と集中」だ。国家に益なしと思われれば、予算は容赦なく削られ、金はより国益をもたらしてくれそうな研究分野へと「集中」する。

私はもうある程度は大人だから、「選択と集中」のようなタテマエじみた美辞麗句の裏にあるこういったホンネを多少は見て取れるし、ムカつきこそするが、所詮人文・社会科学系アカデミアのマイナー分野なぞ国からの予算で生き残らせていただいてる立場なのでしょうがないと自分を納得させることもできる。

だが、子どもに対して、国家のこの生々しいまでの国益至上主義を「ギフテッド」という美しい言葉をタテマエにしてなすりつける汚さはどうか。「選択」され、「集中」の対象となる選ばれし「ギフテッド」たちも、私から見ればかわいそうだが、国から君たちは「それ以外」にすぎないと幼くして宣言される子どもたちへの仕打ちはもっとむごい。

彼/彼女らがみな有しているはずの「才能」は、測られ、区別され、国家に利用されるものなのか。実際のところ、「ギフテッド支援」がその露骨でわかりやすい形にすぎないというだけで、結局はそうなのかもしれない。だって「子どもたちの将来は、ひとりひとり無限の可能性を秘めているんだ!」などという言葉は、虚しく響くだけの綺麗事でしょう?そう言われたらそこまでだが、簡単には首を縦に振りたくない自分もいる。これは、嫌な話だしこれ以上はやめておこう。

これ以上はやめておこう

もちろん、その「才能」と脳特性が現状の金太郎飴式義務教育に馴染まず、息苦しさを感じている子どもたちが実際に存在している、という事実ははっきりと認める。そういった子どもたちへの支援が何かしら必要だ、ということにも同意だ。困っている者には、相応のセーフティーネットが用意されていなければならない。それが国家福祉というものだ。

しかし、福祉とは本質的に効率性とトレードオフなことがほとんどだ。だから、富者は累進課税で異常な額の所得税を奪われ、再分配がなされる。稼いでも国に奪われるならば、労働意欲など湧いてこない。生産性は減少し、経済効率は犠牲になる。そのバランスを失い、「揺り籠から墓場まで」の福祉国家を志向した結果、ボロボロになった例も過去にあった。

このトレードオフを知っているから、私たちの道徳心は、福祉の顔をした経済効率の追求という最大の偽善を激しく嫌悪する。福祉は、無償の愛でなければならないのだ。なぜ「特異な才能」を持つが故に不登校になった子どもは政府の金で公助する?それ以外の理由で学校に行けなくなってしまい、助けを必要としている子どもたちの支援は「自助」「共助」におまかせか?国家福祉の領域にまで利益追求の思考様式が侵入しているという事実が、究極的には私にとってはまことに気持ちの悪いものなのだ。


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