たまご (短編小説)

1

コップが満たされることはなかった。ひっきりなしに少女はジュースを求めた。
「ジュースをちょうだい」少女が言った。萎れた観葉植物の周囲に、枯葉が散っていた。枯葉が片付けられることはなかった。
記憶の中身だけは萎れなかった。母親は少女の言葉に耳を傾けなかった。
「ねえお母さん、ジュースをちょうだい」少女は繰り返した。虚ろな目の母親は、身動き一つしないで、体育座りでソファの上に座っている。顎を膝の上に乗っけて、両腕で両膝をしっかり抱え込んで、自閉的な卵のような形になっていた。長く不揃いに伸びた髪の毛が、身体を覆っているから、遠目から見ると、母親の姿は、黒ずんだ楕円に見えた。その自閉的卵の周りを、少女がちょこまかと動き回った。少女は空っぽのコップを右手に持ち、左手で、母親の膝や頭をぽんぽん弄った。しかし、母親はさっぱり動かなかった。萎れた観葉植物や針の止まった時計のように、その部屋にただ存在するだけの、オブジェの一部になっていた。呼吸は浅く、目は半開きだが、眼球は動かず何も見つめていなかった。
「ねえねえお母さんジュースちょうだい」何度も少女は母親にまとわりついた。
母親に声は届いているのか。わからなかった。
すると母親はザッと腕を伸ばしてスマホを手に取って、Twitterを開いた。能登の地震の地割れが目に入った。投稿者をすぐにブロックした。見たくないものを見てしまった。能登の地震から三ヶ月経っているのに今だにこんな写真を投稿するなんて。母親の心拍数が上がった。母親はコップを持った娘の写真を撮った。

「今は娘と遊んでます🥰娘かわいい😁みんなおはよー!お昼何食べようかな?」

という文章を作成して、先ほど撮った娘の写真と合わせてツイートした。娘の顔は隠して投稿した。このようにすれば幸せがツイートとして固定されていく気がした。地震が恐ろしかった。たくさんの値上がりが恐ろしかった。娘がじゃれついてくるのが恐ろしかった。さあ、いいねと返信で私の心を不安から紛らわしてくれと女は思った。
すると旦那からLINEが届いた。「ちゃんとご飯食べてる?真理子にもご飯あげてね?お義母さん呼んでも良いからさ。地震のこと大丈夫だよ。俺が由紀さんを守る😤なんてね。でもマジで大丈夫だよー!今日は早く帰ります😊」
しかし女はそれを無視してジーッとTwitterの画面に釘付けだった。どうでも良い。旦那には私を守れるはずがなかった。旦那の不誠実な励ましが嫌だった。愛媛出身のくせに。地震の怖さを彼は知らない。当事者じゃないんだから。怖いものは怖いじゃないか。だけどどうして私はこんなに恐ろしくなってしまったんだろう。全て振り払ったはずなのに。トラウマとは無縁だったのに。津波のツイートを見たせいか。テレビでうるさくうるさく「津波がきます。逃げてください」とアナウンサーが叫んでいたせいか。なぜ旦那のことも娘のことも何もかも嫌になってしまったんだろう。東日本大震災で被災した記憶がフラッシュバックした。お父さんは帰ってこなかった。避難所で二ヶ月生活した。母と親戚の家に厄介になって肩身の狭い想いをした。とにかく二度と地震と縁を持ちたくなかった。やっと結婚して子どもも生まれて全てを振り切ったはずなのに。そんなことを考えているとあるツイートが目に入った。

「不安なことばかり考えていると不安な未来を引き寄せます😊ポジティブに思考しましょう!ポジティブに行動しましょう!そうすれば大丈夫です!」

彼女はすかさずそのツイートにいいねをつけた。旦那のラインには既読さえつけなかった。
娘がコップを持って「ジュースをちょうだい」と言った。母親は娘の言葉を聞かずに自閉的卵になってスマホの世界に没入した。さっきのツイートに5ついいねがついた。ホッとした。どうやら私は幸せなようだ。私の幸せが他者から肯定されて確かなものになっていく。私には不安な現実が起こるはずがなかった。観葉植物の葉が一枚さらに落ちた。音もなく落ちて観葉植物はすっかり禿げ上がっていた。時計の針もずっと止まっていた。娘はうるさくジュースをせがんだ。女のツイートだけが女の幸せを更新し続けた。

2

旦那の隆は妻の由紀と真理子を心から愛していた。東日本大震災の傷が癒えないままに、能登の地震のニュースを見て、トラウマに囚われていく妻に、ずっと寄り添い続けようと決意していた。
妻が自閉的な卵になって自分の内側に暗く引きこもっても、それを咎めたり無視したりすることはなかった。黒ずんだ卵が割れるように優しく彼女の心を辛抱強くノックし続けた。彼には被災経験がなかったが、トラウマの辛さをよく知っていた。彼は学生時代に酷いいじめに遭って、人間関係に対してのトラウマが彼自身にもあった。そのトラウマを払拭できたのは、妻との出会いによるものだと思っていたので、彼は妻に対して感謝していた。
家のなかの掃除や家事が、仕事が忙しくて行き届かず、観葉植物が枯れて、時計の針は止まったままだったが、それでも彼は家に帰ると夜ご飯を妻と娘のためにつくった。妻は食事を取れる日と取れない日があったが、たとえ食べてもらえなかったとしても、彼は料理を作り続けた。妻はだんだん痩せていって、娘も保育所が休みのときは祖母に預けられることが増えていった。旦那はこのままでは良くないと思って、仕事をしばらく休職しようとも思ったが、給与・生活のことを考えると、なかなか休職に踏み込むこともできなかった。状況としては八方塞がりで、どうして良いかわからなかった。ただ妻に寄り添い、やさしい言葉をかけ続けることを頑張った。また娘がさみしくないように、気を配った。娘が母に対して被害者意識を持たないように、今までの倍、娘を愛した。
彼は神様を信仰していたから、神様にも妻の心が救われるように祈った。しかし、その信仰を妻に押し付けることはせず、静かにじっと心の中で祈り続けた。妻の心が求めていることは何か、鋭敏で繊細な感性で読み取ろうと努めた。
妻がこのように精神的に潰れてしまってから、彼は次のような聖書の御言葉に出会った。

「だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。 あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。」

彼はそれを素直に受け止めて、妻の孵化を待った。

3

真理子は母親と父親が大好きだった。しかし今年に入ってから真理子の生活は一変した。
正月をのんびり家族三人で過ごしていると、父と母のスマートフォンがヴィンヴィンと鳴って、テレビが「大きな地震が来ます」と騒いだ。母はぎゃあああ!と大声で泣き叫んだ。真理子も驚いてわあああと泣いた。父は母の身体を腕で覆って「大丈夫だよ大丈夫だよ」と言ってテレビを消した。しかし母はすぐに父の腕を振り払ってテレビのスイッチを付けた。母はガタガタ震えていた。テレビに母の目が釘付けになった。その瞬間から母は真理子のことも隆のことも忘れてしまったみたいだった。真理子はどうして良いかわからずに大泣きした。
結局家族の住む街は大して揺れなかった。しかし事態は悪化していった。大好きで面倒見の良かったお母さんはいなくなって、今は卵の塊がソファの上に座って、また地震が来るのではないかと怯え続けている、それは母ではなくなっていた。しかし娘は、反応がなかったとしても、母が大好きだったから、ねえねえと話しかけ続けた。
話しかけても反応がなく、時たまスマホをいじる母の様子に少女はとても不安になった。そして不安になるたびに大泣きした。
幼稚園には父親が連れて行った。本当はいつもはママが連れて行ってくれていたのに。朝ごはんもママが作ってくれていたのに、今はパパがトーストを焼くだけだった。美味しくない。パンは口が渇くし、まずい。生活の不満が募っていった。
「ねえどうしてママはごはん作ってくれないの?」真理子は父親にたずねた。
「ママはね。今、心がちょっとつらいみたいなんだ。だけどすぐに良くなるから、真里ちゃんもママが良くなるのゆっくり待っててね」と父親は優しく言った。しかし本当はいつ良くなるのか検討もつかなかった。旦那がカウンセリングを薦めたときは、妻は「私は病気じゃない!なんでわかってくれないの!」と暴れた。妻が暴れたせいで、いくつか皿が割れたが、旦那の心も真理子の心も同時に割れた。真理子は再び大泣きした。旦那は
「おい病気じゃないんだったらしっかりしてくれよ!」とつい声を荒げてしまった。声を荒げてすぐに(しまった!)と思ったが、遅かった。妻の由紀は旦那の怒鳴り声を、さらに心の奥に引きこもるためのきっかけにしてしまった。ぐりりと両腕で膝を抱えて、ソファの上で例の体育座りをして固まってしまった。
「ああごめんな。由紀さん、ごめん。ほんとに。ごめん。俺、君の気持ち考えないで大きな声出して」と言って旦那は謝ったが、妻にはその声はどうも届いていなかった。
悪いことは重なるようで、割れた皿の近くをうろうろしていた真理子が指先を皿の破片で切ってしまったようだった。
「痛い!血ぃ出たああ。痛いよおおお!」と真理子の泣き声が聞こえて父親はすぐに皿を片付けて、真理子の指に手当てをした。父親は心の中で(神さま助けてください。助けてください)と唱えていたが、彼の耳に聞こえるのは、真理子の耳をつんざくような泣き声だけだった。うんざりする気持ちがどうしても溢れてしまったが、彼まで心を暗くしては一家がバラバラになってしまうと思って、祈りながら耐えた。妻は、何かを思いついたかのように血相を変えてスマホにサッと手を伸ばして、何かを熱心に書き込んでいた。ネットの世界に逃げないでほしいと旦那は思った。しかしすぐに妻を責める想いを反省して、どうか妻に寄り添える心を与えてくださいと神様に祈った。

4

その日の晩だった。万策尽きて旦那はへとへとになって真理子と布団に潜った。布団のなかでとにかく精一杯祈っていた。やがて二人は眠ってしまった。しかし妻は風呂にも入らずソファの上でスマホをいじっていた。最近では食事もあまり食べず、風呂にも入らなくなっていたから、彼女の美しい姿は、ずいぶん汚らしくなっていた(それでも旦那の隆は毎朝毎晩妻に「今日も綺麗だね。いつもありがとう」と声をかけ続けた。それは本心からの言葉だった。どれだけ変わっても妻は美しく最愛の人だった)。
やがて十二時を過ぎて日付は3月11日になった。その日は彼女の父親の命日だった。
妻は夜中の二時過ぎまでずっとスマホをいじっていた。Twitterの中には、たくさんのキラキラした、心を明るくさせる投稿があって、彼女はそれらを見ているときだけは、地獄の苦しみから抜け出ているような気がした。彼女は一生懸命にフォロワーの書いたツイートを読んで遊んでいた。しかしだんだん目を開けているのが辛くなってきた。どうしても眠くなってきた。
彼女は、いつも寝るのが恐ろしかった。悪夢に襲われるから。しかし今日に限っては、どうも眠気が強すぎて恐怖を感じる暇がないほどだった。彼女は気絶するようにベッドの上に横になって(旦那が用意していた)掛け布団にくるまってスヤスヤと眠ってしまった。
その日の眠りは本当に暖かだった。
やわらかい夢が彼女に降りてきた。春の木漏れ日がゆっくりと彼女の意識の大地に降り注ぐ。彼女は大きな草原に横たわっていた。涼しい風が彼女の頬を撫でると、久しぶりに心底ホッとすることができた。彼女は草原でごろごろ転がって、大の字に身体を広げた。すーっと息を吸うと草の甘い香りが胸いっぱいに広がった。(ああやっと安心できる)と彼女は思った。
すると上空から、たくさんの天使の大群が降りてきた。あわくやわらかい、金色の光に包まれた白衣の人々が、空からすーっと彼女の前にやってきた。彼らは、金色や虹色に輝き、半透明でとても美しかった。彼女は起き上がって彼らをまじまじと見た。
すると彼女は驚いた。彼らは全て東日本大震災で亡くなった彼女の友人や知人たちだった。何百、何千という天使は、彼女の知り合いの姿をして現れたのだった。彼女は彼らを見て、ぶわっと涙が出た。そしてとっさに父の姿を求めた。
天使の中心にお父さんがいた。津波に飲み込まれて、死体さえ上がらなかったお父さんが目の前に立っていた。
「お父さん」彼女はボロボロ涙をこぼした。「会いたかった。会いたかった。お父さん!お父さん!」彼女は天使の姿をした父親に抱きついてボロボロ泣いた。
「もう大丈夫だよ。怖がらなくて良いんだ。何も怖いことないんだよ。僕らは今は幸せにしているんだよ」とお父さんは言った。
「本当に?でも津波、辛かったでしょ?」
「なあに。死んでしまえばどうってことないんだ」お父さんはにっこり笑っていった。生きているときに見せていた、あのやさしい笑顔だった。「それよりも由紀の泣いてる姿を見たくないな。お父さんたちみんな由紀に元気になってほしいんだ」とお父さんが言った。
「そうよ。由紀。あんた、まだ生きてやることあるでしょ?」と天使になった、親友の佳代子が言った。久しぶりの幼馴染の姿を見て、彼女は本当に安心した。ああ、全ては生きているんだ。魂は死なないんだ。彼女はそう確信した。こうやって慰められているんだから、津波も地震も怖くないんだ。
「そうだよ。何も怖くないんだよ」お父さんはそう言って彼女をギュッと抱きしめた。親友の佳代子も由紀をギュッと抱きしめた。魂にこびりついた、あの恐怖の殻がビリビリと破れていくのを感じた。さあ、由紀はやっと恐怖を振り払って、生まれ変わる瞬間だった。孵化する瞬間だった。
「でも本当に、本当にやり直せるかなあ?」と彼女は恐る恐る天使たちに尋ねた。すると天神たちは笑って光り輝いて
「大丈夫!」と請け負った。彼らはそして光の一つの塊になって、彼女を優しく暖かく包み込んだ。ああ、私は本当に赦されたのだと彼女は安心して、やっと感謝と懺悔に泣くことができた。すーっと心を洗う涙が心臓からこぼれた。彼女は天使の光につつまれて、トラウマの卵をやぶって、生まれ変わった。

5

朝が来ても彼女はその夢を鮮明に覚えていた。彼女の心はポカポカしていた。(お父さんが私に会いに来てくれたんだ。神様がよこしてくれたんだ)彼女はとくに信仰や神秘を信じる人間ではなかったが、そのように強く確信していた。(もう怖がらなくても大丈夫。魂は絶対に死なない。本当に大丈夫)彼女はそう言って、カーテンを開けて、窓いっぱいに朝の光を部屋中に入れた。そしてもう何ともないいう心で、はじめて神様に懺悔と感謝をしながら、家族の朝ごはんを用意し始めるのだった。

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