亀裂 (短編小説)

亀裂が入った。
「あのね、実は」女が言った。
「うん。何?」男は、スマホの画面を見ながら、次に女が何を言い出すのかある程度検討をつけていたから、ギクリとした想いを押し殺して、素知らぬ顔をあくまで崩さずに言った。
「実は」
「実は?」男は促した。「実は」の先に続く言葉は、彼らの関係性を全く別の状態に変質させていくだろう、予感が緊張を生み、空間は居心地の悪さで破裂しそうだった。男は、平静を保つためにスマホの画面を凝視した。しかし、彼は、否応なく、女の次に発する言葉に、釘付けにされないわけにはいかなかった。
そして女が言った。
「妊娠したみたいなの」男の予想通りだった。女の言葉が放たれると、空間が破けて、生気が抜け落ちていった。
「嬉しいね」男はガッカリして言った。「それじゃ籍を入れるしかないね。俺と香織の両親に挨拶しなきゃだね」男は結婚という言葉を使わずに籍という言葉を使った。恋愛の先にあるものは、教会での結婚式ではなく、役所での入籍だった。香織は、男の言葉使いと表情が気になった。男は、スマホをいじりながら無表情に諦めた顔をして、ポリポリと頭をかいて、貧乏ゆすりを始めた。男の足が揺れるたびにカタカタちゃぶ台が揺れて、女の心も揺れて、あらゆるものが揺さぶられて、男の付けたオーデコロンの匂いが、甘苦しく部屋中に広がった。空間は破れたままで、炭酸の抜けたコーラのような気分のままで、男は女の顔を見て、ため息を吐き出した。
しばらくの沈黙のあとで
「ねえ、男の子かな?女の子かな?」と香織は無理に笑顔を繕って言った。
「うん。どうだろうね」男は言った。彼は(本当に俺の子だろうか?)と思った。(他人の子だったら?子どもが出来ないように気をつけていたはずなのに。本当に俺の子なのか?もし生まれたとしても、俺は愛情を持つことができるだろうか?)男は猜疑心にさらわれた。疑うことで、希望を抽出しようとした。しかし、うまくいかなかった。親にならなければならないという確定的な事実を、猜疑によって、殺すことはできなかった。
女は、手帳を開いて、その中に挟まっていた一枚の白黒写真を取り出した。それは、女の腹の中を写したエコー写真だった。女は、その写真の中の、灰色の一粒を指さして、これが、わたしたちの、あかちゃんよ、と言った。男は、これを、愛せるだろうか、と思った。そのインクの染みのような斑点と男との間に、生物学的及び精神的な繋がりを、男は、どうしても見出せないような気がした。(まだ実感が湧かないだけに違いない)と思って、男は香織の腹を見た。まだ膨らんでもいないその中に、男の可能性を父親にして潰す、無限の可能性が詰まっていた。(自分が親になるということは、自分の可能性を諦めなければならないのだ)男にはまだまだ独身としてやりたいことがあったが、それらの夢の一つ一つを諦めなければならないのかと思うと、たまらなかった。そして、子どもができたことを素直に喜べない自分に、イライラした。香織は、男が何を考えているのか見当もつかなかったが、あまり晴れやかな表情には見えなかったから、不安になってきた。香織は、自分の腹をさすって、次に男の手をとって、それを腹の上に当てがって、男にさすらせてみた。男は、しかし、いくら女の腹をさすってみても、父親らしい感情の何か一つでも、感じられずに、女と子どもに対する義務感以上の、人間らしい感情を持てなかった。(男はそれを認めたくはなかったが)彼が強く感じている感情は、憤りだった。
「楽しみだね」香織が言った。
「何ヶ月だって?医者に行ってもう確認とったの?」男は事務的なことを聞いた。エコー写真を見た後でも、事態を上手く飲み込むことができないままだった。
「…」香織は、なんだかやりきれなくなって黙った。
「…」男も黙った。
「ねえ、ほんとの気持ちはどうなの?」女は、男の心情に触れないわけにはいかなった。本心を隠す理性よりも、お腹の中の子どもを拒絶する感情の方が…女は曖昧に思考を終わらせて、ジッと男を見た。思考は終わっていたが、女にはある種の感情的な決意があった。男の返答次第では、その決意は、怒りという形を取って、行動に移されるだろう。
「本当も何も…嬉しい以外の気持ちを持つことが、許されるわけないじゃないか」男は、自分の本心を見ようとせずに、社会的責任に縛られようとしていた。「それ以外に、どんな感情を持てるんだよ?」男は、怒りを心の底から感じながら、嬉しいという感情を装って、善人の側に立つことに決めた。男は社会的善人だった。男は、自分が悪者になって後ろ指を指されることを、極度に嫌った。もしも、この男と女が無人島に二人きりしかいないというような状況があったとしたら、男の発言や行動は、今のものとは全く異なるものになっていたに違いない。男の善人性は、日本という社会基盤から生まれて、それによって支えられていた。
「わかった。じゃあ嬉しいってことで良いよ」香織は男の態度が気に入らなかったが、男の側で、責任を果たすつもりはあるようだから、これ以上男を責めても仕方ないと納得した。女は感情のままに怒り狂いたかったが、妥協しなければならないときもある。結局、男は、同世代の男性の平均年収以上にお金を稼いでいるし、勤め先も立派だし…私は専業主婦になれるのだから。それで良いじゃないか、男の態度や表情は見ないようにして、男の言う「子どもができて嬉しい」という言葉だけを信じようと決めた。不必要なものを見ずに、都合の良い言葉だけを信じて、大人として振る舞おうと決めた。まるで本能に従う獣のようだった。愛されることよりも、これからの生活を穏やかに過ごせれば、それを幸福と呼べば良いだろう。男の愛情よりも、経済力と責任感が幸せの鍵だろう、これからは母親になるのだから。(母親という獣、獣、獣。父親という獣、獣、獣。)
男は社会的責任を果たす決意を、女は妥協する決意をすることで、事態は、大事に至らずに済んだ。彼らは、幸せな人生という装いを望んでいたので、痛みの伴う本当の幸せを、敢えて求める気にはならなかった。男と女は、今後、あらゆる感情や理性を総動員することによって、彼らの間に生じている恐ろしい亀裂を、隠蔽しながら生きていく心積りだった。モノクロの斑点が彼らの心を覆っていたが、その中心にある灰色の染みの一つは、心の暗がりに輝いている、一点の星と呼ぶこともできなくはなかった。エコー写真の中心にあって、それは、他の染みと違って、新しい命だった。(可愛い子どもに決まっているのだ。)男は、心の中で思ってもいないことを思いながら、その思い込みの力によって憤りを押し潰して、残りの人生を決定させた。(私は幼馴染の真理子や華子よりも幸せなのよ。)女は、友人と自分を比較することで、男の不穏な態度を巧妙に見ないようにしながら、優越的な自分を確かなものにしようとし始めていた。彼らは、つまり、現状に納得することになんとか成功していくようだった。臭いものに蓋をして、物事の核心に決して触れない、彼らのその精神的態度を、誰かが糾弾したとしても、彼らは、きっと何のことで糾弾されているのかわからないという顔をするだろう。「こんなに幸せなのに何か問題でもあるの?」と言って、心の隙間隙間に泥々滞留している激情を、彼らは決して認めないで生きていくだろう。
このようにして彼らは亀裂を抱えたまま末永く幸せに暮らした。

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