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未来へつなぐ「平和のバトン」

 ここに、一束の戦争記録の書かれた文書がある。この文書は、僕のひいおじいさんが、僕に遺してくれた、とても大切な物だ。

 僕は、小学二年生の頃から、ひいおじいさんと訪れていた場所がある。知覧特攻平和会館だ。

 ひいおばあさんとも、前はよく来ていた知覧に到着し、平和会館の入口まで歩きながら、ひいおじいさんは、

「このベンチでいつも休憩していたなぁ。」
と懐かしそうに、また寂しそうに呟いていた。平和会館の横にあるお寺の平和観音像に、ひいおじいさんと僕は並んで、そっと手を合わせた。僕は、ひいおじいさんに、

「どんなことを考えながらお参りしたの。」
と尋ねると、

「世界平和と、今年もここに来ることができたという、感謝の気持ちだよ。」
と教えてくれた。僕は、

「平和であることに感謝するんだね。」
と言うと、ひいおじいさんは大きくうなずいた。

 平和会館には、たくさんの戦争に関する貴重な資料や写真が提示されており、ひいおじいさんが僕にも分かるような説明をしてくれた。そして何度も、

「戦争はぜったいにくり返してはいけない。」と言った。
 出口が近づいてくると、ひいおじいさんは、

「いっしょに真叶とここに来るのは、今年が最後になるかもしれないから。」
と言って、カバンの中から、古い紙束を取り出し、僕に渡してくれた。それは、ひいおじいさんが自分で作った戦争の記憶をまとめた資料だった。A四の紙に七枚、ワープロの小さな字で書いてあった。

 僕とひいおじいさんは、その後もしばしば会って、戦争の話をたくさん聞いたりもした。そして、戦争の恐ろしさや、平和であることへのありがたみを強く感じた。また、こんなことも聞いた。

「ひいおじいちゃんはね、戦争中に、海軍で特攻隊員を選抜することになって、覚悟はしていたけれども、いざとなって自分の名前が呼ばれた時、全身がビリビリッと電気が走ったかのように、体ががたがたと震えてきたんだ。」

 僕は、もし戦争が続いていれば、ひいおじいさんに会うこともなかったのだと思うと、自然とひいおじいさんの手を握りしめていた。ひいおじいさんも、優しく僕の手をにぎりかえしてくれた。

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 小六の夏は、毎年恒例だった知覧特攻平和会館に行くことはなかった。なぜなら、六月から、ひいおじいさんの体調が急変し、入院をしてしまったからだ。六月で、中学受験を目指していた僕は、時間をぬって、度々母親と弟と病院へお見舞いに行った。その度に、

「真叶、勉強を頑張っているか?今年は知覧には行けそうにないけれど、戦争は絶対にしてはいけないことは覚えておいてね。」
と、以前と比べてひとまわり小さくなった体で、僕の手を強く握りしめて言った。そして今度は病院で、戦争の話をしてくれた。毎年同じ話だが、また戦時中に震えが止まらなかった話を、僕は静かに聞いていた。

 そして九月のある日、ひいおじいさんは大往生で亡くなった。九十六歳だった。

 今年は「戦後七十四年」。ここに一束の戦争記録の書かれた文書がある。ひいおじいさんが作ってくれた「平和のバトン」を、未来へ受け継ぐためにも、学業にはげみながら、僕の住む日本が、平和をどう守っていくのか、しっかりと見ていきたいと思う。

大漉真叶 鹿児島県 ラ・サール中学校 1年(令和元年度当時)

本稿は第19回作文コンクール「心あたたまる話」の受賞作文です。原文のまま掲載しています。(主催・一般社団法人人間性復活運動本部)

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