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◇特集【仏像の表情に癒されて】

仏像の顔には容姿としての「顔」だけでない、
人の心に訴える奥深い意味があるようです。

如来・菩薩の表情

 京都の東寺で大日如来を拝んだとき、美術館で仏頭(興福寺)を鑑賞したとき、「何とも言えない、いいお顔だなぁ」と深く心に感じ、温かいものに包まれるような思いにひたりました。また、博物館で阿修羅像や不動明王像を眺めたときは「叱咤されるような険しい表情だなぁ」といったその凄みと迫力に圧倒されたこともあります。

 一般的には仏の種類を「如来」「菩薩」「明王」「天」と分けているようですが、ここでは「何とも言えない、いいお顔」の慈悲の相である「如来像」「菩薩像」について触れてみます。

 仏教が伝来した時代順にそれぞれの特徴を見ていくと、
① 飛鳥時代の杏仁形の眼(アーモンドアイ)・古拙(※)の微笑
② 白鳳時代のあどけない顔・おおらかな顔
③ 天平時代の威厳のある厳しい表情
④ 平安時代の満月のような顔
⑤ 鎌倉時代の力強く写実的な顔などが特徴です。
 それぞれ代表的な仏像を並べてみるとその違いが改めて感じられ、
それぞれの表情に癒されるものがあります。
(※古拙…技巧は拙劣だが、古風で味わいのあるさま)

鎌倉大仏

慈悲から読み取る

 如来や菩薩のあわれみや深い愛の心を表情から感じると、人間というのは勝手なもので、何でも許してくれて、願い事も叶えてもらえるような、自分に都合のいいような解釈をしがちです。中には、高度な神仏がいるのに何で地球上から戦争が無くならないのか、といった人間同士の争いごとを神仏のせいにする人までいるようです。

 如来や菩薩の慈悲から私たちが感じ取らなければいけないことは、
「神仏に単に依存するだけでなく、高度な神仏に近付くように人間性を向上させない」、「如来や菩薩のように、心身健全、意志堅固、作法端正、善美積徳、清浄無垢を具えた人間になりなさい」、「利己的な言動で争いの元を作るのではなく、利他の精神で周囲に貢献しなさい」

 といったようなことでしょう。そうなるまで長い目で根気強く、見捨てることなく、皆さんが良くなるように智恵を授け力添えしますよ、と如来や菩薩は優しい眼差しで、あるいは厳しい表情で、慈悲の心をかけて下さっています。

 基本は自らが感じ取って、自分自身が変わることで、棚からぼた餅的に
良くなろうとする発想は、高度な神仏はお嫌いではないでしょうか。

お地蔵

仏像の表情に近づく

 じっと如来像や菩薩像を眺めていると、なぜかリラックスできた、そんな経験をしたことがある人も多いと思います。仏像を見ていて、そのような心理状態が起こるのは、なぜなのでしょう。それは如来や菩薩の放つ神々しさやその醸し出される雰囲気に包まれて、雑念が祓われ安定した心の状態が得られるからです。

 ヒトが人間性を向上させるとは、この如来や菩薩の表情に近づいていくということなのかもしれません。仏像を見て、一瞬の間に味わうあの落ち着いたリラックスした感覚を、常日頃、思い出し、その精神状態を引き出せるようになれれば、心の安定につながり、自分自身への余裕や人を思いやる温かみが生まれるのかもしれません。

 ただし、仏像を拝するだけで、直ちにこうした「安心」が得られることは稀でしょう。日常生活を自身が向上できる場と捉え、人間性を向上させることと併せて、じっくりと仏像と向き合うことです。高度な如来や菩薩が何を教えてくれているかを感じ取れる心を、人生をかけて磨いていくことが大切です。

真理を表す仏像

 仏像といっても御霊(みたま)の籠められた、真理世界を表すような仏像は稀でしょう。形が仏像であれば何でもよいというものではありません。しかし、力を持っている仏像というのは、肌身で感じ取れ、一見して分かるものです。
 例えば、神護寺の薬師如来立像。感じられるのは慈悲、荘厳、威厳、迫力、見通す力、優美、清浄……。それこそ何とも言えないお顔立ちで、神秘的で畏れ多くて、手を合わせてしまうような感覚に覆われます。

 人生で真の力を持つ仏像に巡り会うことができ、その表情から教えを感じ取ることができ、自らを変えて行く意欲が湧いて来る、このような体験ができれば、幸せなことなのかもしれません。


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