見出し画像

人間は粘土みたいに何にでも変形できるか?

欧米の左翼思想の根底には、「人間は産まれた時にはまっさらな存在で、環境によって如何様にも作り変えられる」というタブララサ(白紙)理論というものがある。
赤ん坊の頃は真っ白な善なる存在で、育っていく過程で悪い環境に接することによって悪くなっていく、という性善説的発想だ。

なぜタブララサ理論が基盤にあるかというと、人間に元から悪い部分があったり、遺伝子によって産まれた頃から性格や特性が決まっている、ということになると、社会を変えたところで、完璧に平等な社会を作ることは不可能ということになるからだ。
やはり徹底的に「社会を変えるべき」という結論ありきの議論なのだけれど。

だから固定的な生物学的性(セックス)に対して社会的性(ジェンダー)という流動的なものを生み出したりする。社会的に作られた性に縛られてるという設定にしたら、変えることが出来る、ことになるから。
とことん「生まれつき」というものを否定して、作り変えたがる。
「3つ子の魂100まで」は、これと正反対の価値観だといえる。
そこには現実世界をまるで粘土細工のように捏ね回して、誰もが自由で平等な完璧な世界を作ることが出来る、という異様な万能感や支配欲が見て取れる。
そして、伝統や国家、特に民主主義というものは、世界を完璧に作り変えるためには邪魔になる。
だから左翼は伝統や国家、果ては自分達の正義に沿わない民主主義をも破壊しようとする危険性がある。

だけど、現実にはどうだろうか。

文明社会がジェンダーや差別制度を押し付けているから世の中が不平等なのだとしたら、それらをぶっ壊した、または形成される以前の原始社会は誰もが平等なユートピアだった、ということになるはずだ。
だから左翼は進歩主義と言いながら狩猟採集社会を美化することがある。ずっと違和感を感じていたことだけど。
だけどキリスト教以前の欧米かー社会なんて何の罪も無い生け贄を火炙りにする野蛮社会だったし、狩猟採集民も部族の男には足手まといの高齢者や女子どもを殺す権限があったり、文明社会よりもずっと男権が強い社会だった。

さすがにただぶっ壊しただけでは平等にならないことに気付いた左翼の一部が「啓蒙主義」という形をとってリベラルとして出てくる。この啓蒙主義だって、西洋や中国の王様は既に取り入れていたんだけどな…。
当時生き方の教科書だったキリスト教を投げ捨て、まっさらな状態の人間に左翼の教義を刷り込めば、意識の高い人間が量産されて、平等な社会が出来上がるようになるはずだ、という訳だ。
だけどこれもまた、ベースは理想主義左翼の夢だから、現実にそぐわないことを教えたり、キャンセルカルチャーやレッテル貼り攻撃で異端思想を排除するようになってきて、あれ?キリスト教と何が違うの?となっているのが今だと思う。
では国家主義も宗教も解体されてカウンターとはならなくなった今、何が左翼の行き過ぎを止める保守になれるのだろうか?

一つには、人間の「生まれつき」の本質について、進化論を持って解明しようとする進化心理学がカウンターとなっているように思う。
人間はプレーンな粘土のようにまっさらな存在ではなく、狩猟採集生活を20万年は続けてきた歴史がある。その間に物理的な形質だけでなく、心や行動原理の男女差までもがDNAに刻まれた、とする発想である。
進化心理学では、ヒトは粘土のようにまっさらな変形可能な存在ではなく、太古から刻まれた遺伝子によってある程度、性格や行動は決められている、という人間観なのだ。
無理な理想を追い続けるよりか、人間本来の姿と限界を示してくれる、という面では良いものだと思う。
ただ、やはり遺伝子によって男女差や民族差が示されてしまう訳だから、ナチズムや優生主義に根拠を与えてしまいかねないのが難点である。
でも、結局のところ、同じものを見ても出てくる結論はその人の価値観次第なんだけどね。

例えば、黒人が運動能力に優れている、という研究結果を発表することも、近年の欧米学会では「人種差別」とされることがあるらしい。
黒人は運動能力に優れた動物のような存在で、知識社会に適応出来ないというのか、という訳である。
もうそれあなたの受け取り方ですよね、ていう…。

同じ結果を見ても、運動能力に優れた黒人は、現代社会でも優れたスポーツ選手として活躍し、巨万の富を築く可能性がある、とも言える。または体育教師やスポーツインストラクター等、体力と知力を活かした仕事は他にいくらでもある。
そして、黒人が運動能力に優れている、というのもあくまで「傾向」であって、運動がまるでダメで数学や語学にとても秀でた黒人だっている訳だ。そういう人は教師や研究者など、知識職に就けばいい。

それを頭の隅に置いた上で、そういう「傾向がある」、ということを、個人の職業選択の「参考」とすればいいのではないか。
そういう違いや傾向をどう活かすか、または差別やいじめの種にするか、は価値観次第ではないか。

どんなに差別を回避しようとして都合の悪い結果を隠蔽しても、意地の悪い人間は別の差異を持ち出していじめるものだ。
そのリスクを完全に失くすことはできない。全てに気を遣っていたら、思想や言論の自由を失うことになる。
差別と思想の自由もぶつかり合うもので、バランスの問題だと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?