自分の「怒り」を探ってみる

自分は元々交友関係が狭いのに加えてコロナ禍が拍車をかけて、最近は友達と飲みに行くことがめっきり少ないのですが、先日久々に気の置けない旧知の友人たちと飲みに行きました。

日本酒も進みほろ酔い加減でいろいろ話してると自分の本音なんかも出てきます。ところがどうも私の本音は過激なようで「毒が出てる」と揶揄されたりもしますが笑、自分の根っこに何があるんだろうと思う訳です。

「怒り」かな、とその時も語ったんですが、何への怒りだろうかと。
幼少期から先生とか上級生とか「上から来る何か」に対して反抗心があったのは確かです。特に立場や年上という権力をかざして理不尽なことを押し付けて来られることには徹底的に反発してました。

実は小学校4年生の時に、やたら上から目線の女性の先生に腹が立って授業をボイコットして学級崩壊に近い状態にしてしまったこともあります(産休した先生の代行で来ていた先生でした。毎日のように泣かせてしまったその先生には今は申し訳ない気持ちで一杯です🙇🏻‍♂️)。

そんな過去の恥ずかしい出来事ですが、とても象徴的なので、そこから見えてくるもの、自分の「怒り」の根源は何かと考えてみると、権力や権威で「個」を制圧しようとする人の「目」に対する怒りなのではないかと考えています。
あの「目」、あの「目」に現れている感情ですね。「目は口ほどに物を言う」と言いますが、目は本当に多くのことを伝えてくれます。

自分の中から何かを語っている人の目と、自分の外にある力や所有物(所属組織、人脈、肩書き、学歴、資格、年齢など)を使いながら誰かを制圧したりコントロールしたりマウントしようとする人の目は全く違います。私は後者の目にとても敏感なんだと思います。その目に対する違和感や嫌悪感が私の「怒り」の根源ではないかと今は理解しています。

しかし、その相手の「目」を見てるのは自分の「目」なので、そう感じとっている「目」が自分側にあるということなんですよね。相手側にはそんな感情などないかもしれないのに、相手の「目」から勝手にそうだと判断してしまっている自分の「目」がある。つまりはその自分の「目」を変えないことには、私の「怒り」は解消されない訳です。

そこで、なるほど!と思った訳です。
だから、相手の「目」を見ずにコミュニケーションできる手法に出会ったのか!と。
相手の「目」の情報を勝手に読み込んで過敏に反応せずに、作品を見つめることで相手の思考や気持ちを冷静に理解できる。そんな新しい「目線」を手に入れたことで、何より自分が癒されているんだということに改めて気づきました。

それとともに、道理で自分は企業組織では生きていけなかった訳だ、ということも分かりました。会社の中はそんな目をした人たちだらけですから。

となると、私と同じように組織の中であの「目」に苦しんでいる人たち、あの「目」がそもそものブロックになってしまって意見や思いを共有できていない組織をこの手法で救えるのではないか、そしてそれがまた自分の怒りを癒すことになるのではないか、とも思える訳です。

イケイケガンガンの組織で、ビジネスとは戦いだ!勝ってなんぼだ!成長は自己責任!仕事は結果が全て!というリーダーには全く響かない話しだとは思いますが、人に苦しんだ経験のあるリーダーの方には、共感いただける方もいるのではないかと期待しつつ、今回はこれぐらいにいたします。

ちなみに、目を合わせないでコミュニケーションできる手法の詳細はこちらをご覧ください。
https://www.seriousplay.jp/

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