アラウホ

アラウホは凄い。勢いのあるマンチェスターユナイテッドの、最も勢いのある存在であるラッシュフォードに遅れを取らない守備、文字通り指数関数的な軌道を描いて成長していくフィード、アウトでシュート狙ってみたり、足技試してみたり、今の彼はチャレンジ精神に満ち溢れている。自らの本職であるセンターバックとしての守備があまりにもバルセロナ離れしていることが、彼の自信の基盤となり、数多の挑戦を物理的にも精神的にも許すのだ。もしかしたら今彼は、全世界のディフェンダーの中で最もフットボールを楽しんでいるといえるかもしれない。

アラウホ「そうです」

やっぱりそう。俺の思っていた通り。例えば往年のファン・ダイクのように、あるいはルベン・ディアスのように、既に完成された選手はきっとアラウホよりもできることが多い。しかしセンターバックにとって、一番フットボールを楽しんでいる時期って一体いつなんだろう。ELを揶揄される両雄の間で、ラ・リーガはもちろん、Jリーグなんておこがましく、クラブユースも高校選手権もそう、何も勝ち取っていない、むしろサッカー人生が始まっていない男、又の名を、サッカー人生が始まらなかったからこそサッカーを愛することができた男が真理に迫っていこうと思う。

アラウホ「ありがとう」

こちらこそありがとう。いつも締まり切らないバルサの守備を、テア・シュテーゲンと一緒に支えてくれて。
さて、今日の本題はディフェンダーにとってフットボールを最も楽しんでいる時っていつなんだろう?という話であった。
(「サッカー」と「フットボール」という言葉が入り混じっていてムカつくが、Yahoo!知恵袋によると「サッカーというのはフットボールの一種」で、サッカーの他には例えばアメフトがある。恐らくこの二つがフットボール競技の二大巨頭であり、ヨーロッパではフットボールといえばサッカーなので、そちらとの関連度に応じてサッカー呼びよりフットボール呼びの方がしっくりくるようになる印象だ。ヨーロッパや南米など、サッカーが文化として生活に密接に根付く地域ではない日本では、学生が行うものはサッカーで、プロとして望むものや、同じ育成年代でもクラブユースに属するものはフットボールのほうがしっくりくる?書いているうちに「確かに」という気持ちと「いや個人が世界的なものとしてのサッカーをイメージしているかどうかによる」という気持ちが入り混じって楽しく無くなってきたので、一旦ここまでにする。)

アラウホ「それが良いと思う」

お前にそう言ってもらえると心強いよ。いつも本当にありがとう。気づいたのだけど、私が楽しく書いているかどうかのグラフがあったとして、アラウホが登場するたびに急上昇して、それ以降なだらかに右肩に下がり、これはいかんと思ったタイミングですかさずアラウホが姿を現す、といった形になっている。なるほど、フットボールとはいかにスペースを見つけ、相手の視線を掻い潜って「忘れた頃に勝負をかける」スポーツだとすれば、今この瞬間、私の執筆モチベが減退したところにスペースが生まれ、書く楽しさを忘れかけた頃にアラウホが現れる(以下アラわれる)という仕組みが成立している時点で、私たちはフットボールをしていることになるんだなと、感慨に耽っている。ありがとうアラウホ、書くことの楽しさを知ることは、すなわちフットボールの楽しさを知ることなんだね。

アラウホ「書即是フ、フ即是書」

ああ、そんな空即是色みたいな感じに。でも語感からしても悪くないね、座右の銘にするよ。でも人から聞かれた時にそう答えるのは念の為やめておくね。

アラウホ「賢明な判断」

やっぱり。だんだんアラウホがいかに最終ラインを守っているかわかってきたような気がするよ。自分のやりたいこと、挑戦してみたいことが誰しもあるけど、他人の評価が関わるところでそれを表現するためには、一定の信頼を獲得する必要がある。でも実はその信頼というのは大衆のものではなくて、アラウホで言えばシャビ監督なんだ。他になんと言われようが、良い守備をしてシャビ監督の眼鏡(裸眼)にかなうことさえできれば、チャレンジが「無謀」ではなく「挑戦的」と解釈してもらいやすくなるんだね。

アラウホ「」

アラウホ?


それ以降、僕がアラウホの声を聞くことはなかった。結局いつが一番楽しいのかってことのヒントは得られなかったな。でも、あくまでアラウホが「楽しいこと」に関して答えてくれることはなかったように、そこに一番どうこうということもなければ、予測がつくものでもないのかなと、なんとなく思った。何かに挑戦しているとき、何かを成し遂げた時、それを誰かに受け継いでいく時。フットボール選手としても一人の人間としても、いろんなフェーズがいろんな方向に広がっていて、「一番楽しい」を決めることができるタイミングがあるとしたら、それはきっと生を終える時なんじゃないかな。それが、アラウホの沈黙に対する僕なりの解釈だ。いつか死ぬその時まで、人生をより楽しめるように生きていく。もしかすると、死ぬ間際、どれが一番楽しかったかなー、選べないなーなんて考える時間が一番楽しいのかもしれないし、そんな人生を送りたいとも思う。だから今は、少なくとも楽しいことについては「一番」を考えるんじゃなくて、考えないからこそ、明日はさらに楽しい一日になるんだろうな、という予感を胸に1日を終えるのが良いんじゃないかな。でも仮に、仮に一時なんでかわからないけど楽しいことが考えられなくなったらどうしよう。

アラウホ「…」

いたんかい。ほな大丈夫やないかい。横にはバルデ、クリステンセン、クンデが居て後ろにはテア・シュテーゲンが居て、ガビも戻ってきてくれるし、ペドリがボール引き取ってくれるし、なんならレヴァンドフスキが点とってくれるし、控えにアロンソ、アルバ、エリガルもいるし…なんて心強さに満ちた世界なんだろう。私もそのうち、10年後の現在で心おきなく挑戦できているように、地続きの今を駆け抜けていくことにするよ。ありがとうアラウホ。

アラウホ「それが良いと思う」

しゃべれたんかい。ほな何でもできるやないかい。

2月17日 母の部屋より

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?