書けない時はずさんに考察

おはようございます!今日はむちゃくちゃですね!むちゃくちゃにいい天気です!昨日から続く肌寒さと健やかな晴れ模様がうまくマッチして、大変過ごしやすそうで嬉しいです。こんな日は心ゆくまで朝から文章を書いてから、ちょっと外の空気を吸って即帰宅、また外に出たくなるまで延々と本を読んだりティアキンしたいですね。しかし空模様や気温は想定できても、この清々しい空気感、そして僕の当日の体の調子までは思い至らないのが世の常。ガッチリ新しく始めるバイトに行ってこなくてはなりません。今日はレジの練習をするらしいです。前は(というかギリ今も)文房具売り場で働いているので、似たような感じのレジだといいなと思います。ただ確実に、新天地ではTポイントカード使えなさそうなのが残念ですが。
はい、そんなこんなで僕はあと50分ほどで家を出なくてはなりません。7:50出発なら局所的に走れば間に合い、7:55出発だと腹括って向こうの駅でダッシュしたほうが良さそうです。自宅の最寄り駅までするダッシュは特に抵抗ないのに、目的地の最寄りからダッシュするのは不安なのはなぜでしょう。今考えつく違いとしては、電車に乗っている間、ずっと「これ間に合うのか?いや間に合わせるしかないんだけども」ってモヤモヤに苛まれ続けるのが後者だってことです。Yahoo乗り換えの穴を探したりしてね。ここ一本早いの乗れるやんな!?そう考えると、わりかしずっと意識をそっちにもっていかれる訳なんで、どこか少しもったいない時間の過ごし方な気はしますね。でもそういう時って案外楽しいですけどね。タスクフォーカスみたいな。最優先事項が自動的に決まっていて、それがうまくいかないと他が総崩れになるみたいな構成でもあるから、もう一つの作戦の練度を可能な限り高めるのに時間を使うべき状況。ざっくりいうと終電逃した時とかですね。あれはもっと自由度高いと思いますけども、始発までは生き残らねばならんので。生きる強い意志を持った人におすすめです。終電逃し。サバイバル的なものも、相当に条件設定こだわらないとママゴトという括りから抜けられなそうな国と立場に暮らしている人間からすれば、比較的コスパのいいサバイバルごっこが実現できると思います。僕は夜起きてられないのでもうやりたくありませんが、そちらを苦にしない方は一度試してみてはいかがかな。
ただいま新浦安。8:33。あくびをひとつしました。眠いというよりは、今のは頭が酸素を欲しているだけのやつだと思います。マスクなあ。外してもいいんだけど、8割くらい車両が埋まっているのを見ると、自然とつけたいなーという気持ちが湧いてきたのでつけました。これは、ここ2年以上の習慣貯金からくるものなのかな。あんまりそれが始まる前のことが思い出せませんが。そもそも電車乗ってないからな大学生の頃は。大学からチャリで15分くらい、ゆるやかな坂と激坂を繰り返しながら、小学校とスーパー三軒を通過した、丘と呼んでもいいような標高に2年間住みました。その後、卒業に必要な単位も半年で片付きそうだとなるのが3年生の春。ちょうどこの少し前くらいから、いわゆるコロナ禍の気配がありました。成人式は一月でしたっけ?あれと高校の同窓会は、「滑り込み開催」とは認識しないくらいのタイミングで行われました。あとから考えたら極めてギリギリセーフという感じですが。2月くらいから本格化して、3月には諸々の活動自粛という形となって現れた、という流れだったと思います。成人式はマスク着けてたんだっけ。思い出せないということは当たり前のように、どうしてたんだっけ?という感じで思考しています。あ、1割ほど車両内が空いたのでマスクを外してみました。楽です。でもあくびは出そうと思えば出せるな。空いている窓の正面とかにいない限りは、この閉塞感は避けられないのかもしれません。あまり意識したことなかったですが。今、越中島を通り過ぎたところですが、そもそも京葉線で東京駅付近の駅はしばらく地下を行くので、それもあるかもしれません。これといって嫌なわけでもありませんが、せっかく晴れてるから空が見えたほうがいいだろうな。東京にも着いたことだし、スマホの充電が45%しかないことにも気づいたので、いったん様子を見て書き進めようと思います。
お疲れさんです。いやはや、いやはやです。さすがに7時間も8時間も外で過ごしてたら疲れますね。そこに行き帰りの電車が加わり、いわんやなんとやらです。じわじわ活動限界を見極めていこうと、とりあえず苦にならない運動の量を多方向に少しずつ高める感じで最近はやってます。でも今日については、帰ってきて風呂入ってベッドに横たわってからどっときました。正確には風呂上がって髪乾かしてグラス1杯半の水を飲んだあと、さあ残りの半分どかっと座りつつ書くか、ベッドでぼんやり書くか選べるぞとなった段階でどっときたのを感じました。この時間だと何を何に例えてもいいと思っている節があるのですが、それはさながら峠を越えたと思い込んだ便意が、いよいよ物理的には便器に座ることが叶いそうだとなった途端、つい先刻立てた物理法則を覆す勢いで氾濫を起こし始める、あの感覚のようです。人間の感覚は適当だという有名な一般論があり、なおかつ「適当」という言葉の意味について、sloppy(いい加減な、ずさんな)の根底にmoderate(適度な、ちょうど良い)があるという気の利いた感じの蘊蓄もしばしば耳にします。しかし先ほどの文脈、もといウン脈に限って言えば、断じて人間の感覚はsloppyです。馬鹿げています。ろくでもないモデレーターです。それでいて、この話はあくまで比喩の一環であって、一応文章内の位置付けでいえばカッコでくくれてしまうという事実も癇に障ります。実に癪です。別に怒る必要のない局面においては、例え怒るポーズをしているだけで、感情が100%の管理下にある状態だとしても、不明瞭な何者かの手のひらの上で転がされている気分になります。ここまでくると、事実ではなさそうな物の配分が大きすぎてなにがなんだか分からなくなってきますが。つまりは、あまりに物申したいような体験を気軽に主張に結びつけるべきではないみたいです。物申してはいけないわけでもなく、物申したいような体験を語るには推敲が必要ということでもなく、オマケに据えるとわけわかんなくなるからやめとけ、といった具合でしょうか。一貫して、稀に見るレベルで何にもならない話でしたが、悪くはなかったです。文字数も前に進んだことですしね。
それにしても、最近どうも無視できない予感が宇宙服のヘルメットみたいに頭のまわりにこびりついています。それは、「書かずにはいられないことが枯渇してきているのではないか?」というものです。元々この日記(のようだが呼び方の定まらない何か)は、書かずにはいられないものの集まりでした。これがもたらす効用は、
①生活を貫く習慣をひとつ確立して、いざ精神が不安定になったときの「寄る辺」を用意しておく
②もの作りの中では、もともと興味のあった数少ない方法として純粋に日々技術を高めたい
③プレーヤーとしての向上心を備えることで、これまで基本的には苦手だった読書への突破口を見つけたい
あたりが常々意識しているものとして挙げられます。それぞれの背景にも言及したほうが意見としてはクリアになりそうですが、日記なんで今日はいいです。とても都合がいいですね。
はい、めずらしく番号なんか振るほど何に困っているのかといえば、②と③、とりわけ②に意識がいきがちになっている気がするのです。意識がいきがちになっていることそれ自体というよりは、同じ分量を書こうとしても書き澱む時間が増えて、1日分あたりにかかる時間とエネルギーが大きくなったことに戸惑っています。時間もエネルギーも増してますし、書くこと以外の運動(特に社会との繋がりをどうにかする術)についても少しずつ挑戦機会を作っているのと、それに伴い単純に移動が増えていることもあり、ざっくり仕事量が増えているんですね。どちらかというと理科の時間で習ったほうの「仕事」です。今読んでいる『スプートニクの恋人』(村上春樹)(面白い)(長編小説のなかではあまり頻繁に名が上がらない気がして、なおいい)(ニワカ調べ)(アフターダークも読みたい)(てかまずアンダーグラウンド読みたい)(そしてその前に図書館で雨天炎天を受け取りに行かねばならない)(でも今はエッセイよりも小説の気分)(スプートニクの恋人にも出てきたし、坂口恭平もお気に入りの海外作家の名前が思い出せないが、その人の作品も読みたい)(ゴがついた気がする)で、書きたいことだけは無限に思えるほど溢れていた「すみれ」が、嵐のような恋と、それに伴う生活環境の変化を機に、突如書きたいことがひとかけらも感じられなくなってしまう場面(今読んでいるところ)があります。もちろん僕の現状と、28歳まで10数年、あるいは20数年も読書に没頭した上で、変化のきっかけもエキゾチックなすみれの境遇を重ねてしまうのは乱暴というか、母が慌てて学年帽にくくりつけたゴム紐との縫い目くらい粗い論理ですが、まあ小説に登場する人間に対してフィクションだからとドライに一線を画すのも同じくらい粗いはずです。つまり、環境の変化に対して、物理的に体が対応を試みている最中であることが、書きづらくなっていることに影響している可能性は高そうです。疲労回復のスピードから適応度合いをはかるとい手法が臨床心理(というか神田橋條治先生独自?)の観点からあるみたいですが、どっときては早く寝て、翌朝は疲労1割残しくらいの回復度合いなので、微妙なところです。こちらはもう少し探っていく余地がありそう。あともうひとつ、少し別の角度から考えられる要因があります。「文体ストック」が足りない問題です。語尾とかですね。村上春樹のエッセイを読み始めたあたりから、カッコ書きやようです。みたいです。を覚えて柔軟性が多少増しました。あと文体覚えたての頃はとにかく楽しいです。ただ僕はわがままなことに、ひと塊として文章を読めない作家さんの文体は真似できないんです。なんというか、文体ってその人の魂というか生き様が宿るものだと捉えているので、文体だけ真似することはしねえんだ!という江戸っ子的矜持からではなく、単にできないってことになります。インポッシボゥ。なんでなんでしょうね。まだまだ本を読むということについて、僕の中では不思議がいっぱいです。この不思議ってのが、最高にたまらなく面白いんですよね。大事にしたいんだけど、大事にするってなんやねんみたいなところありますからね。伝わりますかね。結局雑に使いまくることが(乱雑に扱うという意味ではなく、丹念に使い倒すというニュアンスで)大事にするということだと思ってますから。うん、だからとりあえず文体ストックがたまれば、というかまた画期的な文体に出会ったらそれだけでスピードにブーストがかかると思います。適当ですね。もちろんsloppyの方です。ただ興味とか好きというものは、煙みたいに火のないところには立たないらしいので、じわじわ手持ちの手がかりから広げていくしかないらしいです。それでいうと(これはライバロリの文体だと思っている)、海外文学方面に大いなる可能性を感じているのですが、いかんせん訳者が絡んできてややこしい。面白いと言うべきなのかもしれませんが、今の文脈に限れば面倒臭くややこしいと言いたい。まあそもそも英語だったら鍛錬すれば多少は食い下がれそうですしね。元はといえば、村上春樹が僕にとって読みやすかったのは、英語のような端的さからきていそうでもありますから。じわじわやるしかない分、工夫の余地、裁量も大きそうで、そうなると僕の得意分野かもしれません。マストを増やされると頭パンクしますが、ありあわせの材料で、こなすだけならすぐ終わっちゃうけど出来る限り面白くしてね、はすごくワクワクします。人と比べて上手くやれるかは別として。案外自信あったりもしますが、推敲なんか一個もしてないこの場で言うとややこしいので、何も言うまい。というわけで久々に5000時の大台乗ったところで23時になっちゃいそうですし、この辺にしようかとおもいます。それでは皆さん、また明日!

2023年5月24日 もう寝ます

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