小説③なんでもいいというのはたぶん合っている

書くスピードが上がってきている。それも、小説を名乗り始めてから。いや今日はまだ全く書けていないんだけど、まあもうちょっとでもかけているということは習慣に紐づいて全部書き切れていることのイメージが湧いてでてくるから、そう考えると今日まだあまり文量が書けていないことを気に病む必要はないということになる。

大学時代の友人との交換ノートが、また巡り始めた。書き終わった人が次の人を指名するというやり方だと気楽で良いには良いのだが、どうしてもペースが落ちる、というかこれで完成という区切りを設けづらそうに見えた。文量が増え、手作りのラジオ番組だったり小説だったりその形態も豊かさを増してきて、大事な大事な「作るスピード」が落ちてきてしまっていた。スピードが大事というのはいくら信頼できる先生方から(勝手に)学んだものとはいえ、交換ノートを回しているコミュニティの中では僕が勝手に言っている、こだわっていだけのことだ、なんだあいつ、という状態。しかしここはいく。ガンガン行く。なぜならこれもまた自分本位だが、この交換ノート再開は、僕が面白いものを見たいがために提案して、一緒に作るのを手伝ってもらっているものでもあるからだ。だからむしろ、暇なゲームマスターがバシバシ新しい風を吹き込んでいったほうがうまく回りそうな気がする。回れば良いというものでもないのだが、とりあえずいまは回すことそのものに興味があるから、指名制からシフト制への転換を試みている。10人で回している交換ノートを、1週間のサイクルにおさめる。これまでは基本的に1日おきくらいのペースで回っていたはずだから、早くても次の週が回ってくるのには2週間を要した。その上いつ回ってくるかは不確かだ。というかむしろここだ。いつ回ってくるかわからないのはストレスになる。先回りして排除していくという行為には細心の注意を払わなくてはならないが、まあ排除というほどのことでもないし、いやしかしこれも排除だと慎重になる部分も僕の中には持っておきたい、ひとまずテンポ良く、安心して日記やらなんやらをみんなで回していくにあたって、事前に原稿の準備をしておく必要はないにしても、心の準備ができるかどうかというのは重要な気がする。そしてここからはある種コスい考え方だが、いつ回ってくるか分かっているのだから、無理矢理にでもその日(作者の主観による)に完成、ということにして投稿してもらうことにした。新体制を勝手に採用するにあたって、皆には「クオリティを下げたい、いまは上がり過ぎている」「そうはいっても新しい風を吹かせたいだけではある」と説明した。前者なんか特に根拠が僕の中にあるとは感じられなくて、完全に(ということはないか)その数日前に見た千葉雅也さんのツイートの言葉を拝借している。まあいいか。そうだ、これも書いておきたかったから少し脱線すると、長い文章って全てが見たことのない表現で埋め尽くせるわけじゃないから、なんか適当に音のいい、月並みな表現で場を流しながら「ここは譲れない」あるいは「きたきた湧いてきた!こりゃ見たことないぞ良い表現だ」がくるまで待つみたいなところありませんか?ありますよね。そう考えるとすらすら書き進めやすいよという小ワザとも捉えられますが、でも長い文章に限らず音楽だって、そう特に音楽なんかえ、そんなにまんま使って良いの?みたいなサンプリング?っていうんですかね、まあそういうもんなんだとしても音楽以外ではパクりと糾弾されるようなことを気持ちよくやっていて、それを気持ちがいいものだと捉え始めたのは坂口恭平さんがSoundCloudでアップしているくすのきとバウンディのナポリを入れ替わり立ち替わり歌っているやつを聴いてからなのですが、あれは最高なので細かいことは抜きにしてさっさと聴いてみてください。SoundCloudのいいところは、停止ボタンだとどうなのか分かりませんが、たとえばYouTubeミュージックで音楽を聴きたくなった時にSoundCloudの方でいちいち停止ボタンを押さずに再生し始めちゃうんですが、前の曲がぶつ切りにならずにフェードアウトしていくんです。といってもそんな、あとの曲と重なるようなどデカいフェードアウトじゃないですよ、停止ボタンで止めたときスパッと輪切りのように包丁が入るのに対して、音楽が切り替わるときはスルッと、ピーラーで剥いたような感じの止まり方をするんです。ピーラーだとまだ若干真っ直ぐすぎる気もしますが、ええんです。土井善晴さんのひとつの発明ですよね。ええんですという言葉。いいんですでもええんですが、なんか丸いしほんとに大丈夫な気がしてきますよね。エセ方言には思うところがあって、主に良い方向で、よくこの日本語にあたる言葉がどこの国にはないとか、逆にこうやって文章を書く際にヨコモジを使ったほうがしっくりくるときも多かったりしますが、似たようなことはエセ方言でもありえると思うんです。分かりやすいところでいえば、なんでやねん!ですよね。なんでだよ!って結構攻めてますからね。なんでやねん!はもうそこでオチてるから。いやオチてるってことはいま重要ではありませんが、役割が明確に変わってくるというか、見え方が違うどころかもう別の言葉じゃないですか。僕は千葉県の特に方言が目立たない、とりわけイントネーションについてはいわゆる「標準語」というところに属する地域で育ってきましたが、あるいはそのつもりに満ち溢れていますが、だからエセ方言についてしか語れません。片付けるをかたすというのは千葉だけとか、小学校で2時間めと3時間めの間に「業間休み」なる15分休憩が存在し、けっこうな数の生徒が大はしゃぎで外に繰り出す狂気を見ることができるのは千葉県だけとか、僕がマツコの番組経由で知っているのはそのくらいのもんです。かといって今となっては方言が羨ましいとも思いません。エセ方言を使うことができるからです。しかも何度だって標準語に戻ってこれるから、僕のエセ方言は無限の方向へ向かっている。なんにでもなれるということです。これってつまり、特段書きたいことないやつが突き詰めれば1番ものを書くのに向いている、というのは村上春樹が「職業としての小説家」で言っていたことを極めて僕に良いように意訳したものですが、つながってきそうですよね。あの本では文体の話としてこれを言っていました。軽い話しかないのであれば、それを乗せるための軽いヴィークル、つまり文体を探せばなんでも書ける、と。僕はそこをもう少し拡張して、「僕という乗り物」にはなんでも乗せることができるのだと、今まさに考えるようになってきています。千葉の人にはこだわりがない。強いていえば東京の次に強えのは神奈川じゃなくて千葉だぞ、ディズニーが日本に一つしかないのを俺たちは高校生あたりで知るんだぞ、とかほんとしょーもないこと。というのは僕が千葉についてなんの勉強もまだしていないということも大いに影響しているはずですが、今は僕にとって良いところを摂取できれば良い。なんにでもなれるということです、千葉の人は。コンプレックスでもあって、トラウマでもあって、それが与えられた役割でもあって、でもそんなことはどうだって良い。無限に道は拓けているんだから。ラッキーですね。

はいおつ。昼休憩ですが外は風が強すぎます。あまりにも強すぎるし寒すぎるので、こんなことは珍しいのですが休憩を30分ほど残して施設の中に避難してきました。控え室に戻るには少し凌がねばならない時間が長すぎるということで、向かった先は4階、フードコートと本屋のフロア。これをちゃちゃっと書き上げちゃおうとフードコートにさっそく腰掛けても良かったのですが、月曜日ではありながらやはり正午、ガヤガヤはピークを迎えていました。シーンとして、細かな音が気になってしまうような静寂は苦手ですが、なんというかうるさいのが嫌というよりは、まあまだ書かなくても良いしな、と今日書く分をまだ書き切ってはいないし書き始めた方がいいにはいい時間でしたが、本屋に向かう免罪符を得たつもりになって、ちょろっと一周して参りました。今書いているこれを小説と称し始めたからか、以前より小説コーナーが放つ色彩は鮮やかになっている気がしました。生きるヒントを得るためではなく、今は小説ってどんなタイトルがついていて、どんな表紙で、どのくらいの分厚さだとその存在に重みが出るんだろう、とか技術的な興味が僕の見え方の変化を助けたのかもしれません。それに並行して、本が好き、でも小説は読めないというと必ずといっていいほど帰ってくるじゃあ何読むの?に対する返答もいい加減に思いつきたいなーと、これは定期的に訪れる思考のパターンみたいなものですが、今日も少し考えてみました。すると若干これならいいかも、というのが浮かんできました。それがさっき言ってような、表紙の手触りだったり本の分厚さだったり、あとは何より開いたときの匂い、小学生の時、新しい教科書を開いて何を思っていたかはは飛んだ忘れてしまいましたが、欠かさなかったのはど真ん中のページを開いて顔を近づけること、そして二度ほど深呼吸。これが気持ち新たに学期、と呼ばれる区切りを飛び越えるルーティンとなっていました。それをそのまんま言えばいい、まあ小説以外で何読むの、という質問の返答にはなっていないかもしれないが、あんまり内容読んでない、と言ってしまってもいいのかもしれない。それはその場しのぎのお笑いとして。懸命に考え抜いてなんとか捻り出した答え、いやなんだろう、エッセイ?っていうのかな、日記?何かまったく別の生き方をしている人が書いている本、みたいな言い方をするが、次話したときにそんなこと覚えている人と会ったことがない。だから適当でいいんだ、好きなことの話っていうのは。良くないんだけど、TPOとかうるせえよ、好きなもんだけ、どうやったら面白いことができるかその具体的でくだらない、仰々しくて妙に核心を突いている、そんな話だけさせてくれと思うのだが、それはここでいいということなんだろう。しかしまあ、たまにの飲み会でくらいは相手が聞いているかなんて一つも気にせず、熱く細かく語らせてもらうことにしよう。なんでも。なんでもいいんだ、語りたいだけなんだ。それも違うか。語りたいだけというのは違うが、なんでもいいというのはたぶん合っている。

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