<今までちょっと言葉を見くびってた、舐めてたな>
二人の人がいて、15分間共に過ごす。 一人は耳を澄まして聴いている。
もう一人は何を話してもいいし、話さなくてもいい。
その時間を録音して、文字起こしをして、じっくり読んでいく。
そんなワークショップ「澄まし処(すましか)」をしています。
先日はワークショップの終わりに 「今までちょっと言葉を見くびってた、舐めてたなって思った」という ご感想をいただきました。
ワークショップを経て、言葉は見くびるものではない、舐めてかかるものではないと気づいた、という表明です。
といっても、いつもいつも言葉が大事なわけでもない。
言葉が大事にされる場でだけ、言葉が大事に「なってくる」。
そして大事に「なった」言葉が、また次の大事な言葉を連れて来て、だんだんと、 心の中のうごきと言葉が同じ速度になる。
本人にも予想していなかった言葉が生まれてきたりして。
言葉が生まれる土壌を作っているのが聴き手の存在です。
真剣に耳を澄ます聴き手の存在そのものが、目の前の語り手を実らせ
またその実りが聴き手に返ってくるとも思います。
言葉が大事であればあるほど、言葉にならないものの大きさにも 思いを馳せることになりますね。
言葉では言い尽くせない人生。 だからこそ、せめて、現れた言葉を大事にしたいなあって思います。
SUMASHIKA~「耳を澄ます処」から~No.86 2022年より
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?