頼む、頼まれる

頼むこと、頼まれること、というのは、仕事において避けては通れない。頼まれなければ仕事は成り立たない。仕事以外の人間関係においても、頼む・頼まれるを繰り返して関係を深めていく、なんてよくある話だと思う。

だけど私は、頼むことも頼まれることもとても苦しい。

子どものころ、母からはこう言われた。

「何かを頼むということは、自分にそれができないから。できない自分を恥ずかしいと思ってできるように努力しなさい。百歩譲って、どうしても向き不向きとか自分でできないタイミングがあるのはやむを得ない場合もあるけれど、普段からきちんとしてがんばっていれば自分から頼まなくても周りが気づいて手伝ってくれる。自分から頼まなくてはいけない状況になるのは、あなたが普段からきちんとしておらず、人望がないことの証拠。だから、とにかく人に何かを頼むことはとても恥ずかしいことなのだと肝に銘じなさい」

「何かを頼まれるということは、あなたが周りを見ておらず、頼まれる前に先回りして動かなかったから。頼まれる前に予想して先回りして動けなかった自分を恥じて、二度とそんなことのないように常に周囲に気を配りなさい」

私はこの教えを守ろうと必死に努力してきた。高校を卒業して親元を離れるまで、とにかく母より先回りして動かねばならないことと、父と母の指示を受けてから動かねばいけないことを間違えずに両方こなさねば、と、家の中では気を張っていた。家庭でのことについては別の機会に詳しく書こうと思う。

「頼むことも頼まれることも恥ずべきこと」という考え方は、会社での仕事に際し、私をひどく苦しめるものになる。私の主な仕事は不動産の売買契約・引き渡しに関する書類を作ること。引き渡しに関してはどんなに短くても一週間前には決まる。そもそも、契約したからには契約時に取り決めた期限までに引き渡す、と、契約時に決まっている。だから、上司とともに分担およびスケジュール確認をすればいい。

問題は契約業務や他のちょっとした仕事である。

今日はこれとこれをやって、と朝予定を立てていても、「急に商談がまとまった。二時間後に出発する」と、何の前触れも予告もなく三件分の契約をもってこられたりすることがある。こうなるといくらなんでも一人では間に合わないため、上司とともに分担して作成することになる。それ自体は当たり前のことであるし、仕事の優先順位として当然だ。だけど、「どうして予測できなかったのか?事前にわかる部分だけでも入力しておけなかったのか?それができなかった私はやっぱり恥ずかしい人間なのだ」と思ってしまい、涙が出そうになるのをこらえながらPCに向かう。

上司がその場にいるときはまだいいけれどたまたま席を外しているときに頼まれたりすると、今度は私から上司に「三件分の契約書作成依頼が来たが出発まで時間がなく間に合わないため分担を」と言わなければならなくなる。これが非常に悔しいし、恥ずかしすぎて死んでしまいたいと思うこともある。そして、「どうして上司が席にいるときに上司にも聞こえるように依頼してくれないのだろう。どうして契約依頼が来る直前に上司は席を外したのだろう。それはやはり私が人として至らない劣った人間だから神様が私を戒めるためにそうなったにちがいない」という思考に陥ってしまう。

一度上司にそれとなく「時間が間に合わないときに分担を頼むのが心苦しい」と言ったことはあるが、「契約に間に合わせるのが何よりも優先すべき仕事だし、仕事内容は報告してもらえないとわからないのだから」と至極まっとうな答えが返ってきた。上司の言うことがまっとうだということはわかるのだ。だからといってこの苦しさが減るわけではなく、「一か月先まで仕事をすべて予知できていれば少しは楽になれるのに」と思いながら出社することになる。

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