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環境ノート グレタ演説と『天気の子』(前編)

1.序

スウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリが引きつづき話題を呼んでいる。12月2日から開催されるCOP25(註1)の開催地が、現地の政情不安のためにチリから急遽スペインのマドリードに変更されたのだが、グレタ氏は移動手段がなく困っているらしい。というのは、「飛行機は温室効果ガスの排出量が多く乗ってはならないから」である。
 ネット上の反応は、冷笑的なものがほとんどである。こうした見解はネットだけでなく、リベラル派から保守派にわたる多くの知識人(?)が共有しているものだ。「彼女ひとりが飛行機に乗ることを拒否したところで、何の意味もない。ただのパフォーマンスだし、ほんとうに環境のことを考えていない証拠だ」、と。
 単純に事実だけみれば、その通りだ。飛行機に乗るだけで環境破壊に加担していると糾弾されるなら、人によっては日常生活における行為の少なくない部分が糾弾対象になる。これは“正論”であるだけに反論もむずかしく、そのぶん卑劣であると言ってもいい。
 だが、先にあげたようなグレタ批判をしている人たちのなかで、「ほんとうに環境のことを考えて」いる人などどのくらいいるのだろうか。グレタ氏のことは措くとしても、彼女が喚起している問題、すなわち環境問題それ自体が、急速に緊急性を増しつつある課題であるという事実は揺るがない。


 環境問題をめぐる最近の動向を見てみよう。今年だけでも、4月には市民運動団体「エクスティンクション・リベリオン」によりロンドン中心部が10日間にわたって占拠され、世界中で大きく報道された。また、史上最年少でドイッチャー賞を受賞し、今年3月になって翻訳された斎藤幸平『大洪水の前に』は、マルクスの議論を検討する上で彼のエコロジーへの関心を抜きにしては語れないということを、抜粋ノートをもとに文献実証的に論じた名著である。7月に公開されヒット作となった新海誠監督の新作映画『天気の子』は「異常気象」という環境問題を描いていたし、台風15号および19号による被害は記憶に新しいだろう。
 グレタ氏を葬ったところで、環境問題まで葬れるわけではない。この事実にもっとも敏感なのは右派である。彼らの現実認識は正しい。そうであるからこそ、環境問題に関する議論を必要以上にグレタ氏ひとりに代表させ、これを全否定しなければならないのだ。これは保守的なイデオロギー的操作以外でなんであろうか。
 それはそうと必要なのは、グレタ氏の主張の実際の妥当性について各々がもう少し正確に判断することだろう。じっさい、グレタ氏に対する風聞は理不尽な言いがかりも少なくない。
 また、本年のヒット作となった新海誠監督の『天気の子』と環境問題との関わりについても、本稿後編にて、あわせて記しておく。

2.グレタ氏の主張へのごく些末な批判とそのナンセンスさについて

 グレタ氏が日本で広く注目されるようになったのは、2019年9月23日に国連で行われた演説がきっかけだった。これは5分間の短いスピーチで、全文はHuffPostの記事で読むことができるので、まだの人は参照してほしい。

https://www.huffingtonpost.jp/entry/greta-thunberg-un-speech_jp_5d8959e6e4b0938b5932fcb6

 また、10月7日には、早くも彼女の家族との共著(『グレタ たったひとりのストライキ』海と月社)も邦訳されており、けっこう売れているそうだ。彼女の演説が話題になったのは、もちろん日本のみの一国的な現象ではない。良し悪しはともかく、彼女の影響力はもはや世界的なものだろう。ノーベル平和賞の候補とも予想されていたし、詳細は触れないが、スラヴォイ・ジジェクのような肯定的なもの(註2)から、プーチンやトランプのような否定的なものまで幅広い評価が噴出している。

 グレタ氏についての最終的な評価は、本稿最後に戻ってくることにして、ここでは個別の議論に対する反駁はせず、ごく些末なものの一つにだけ触れておくことにする。イデオロギー的な批判に対しては、本稿が反駁の一つとなり得るだろうからだ。
 些末なものの代表として、グレタ氏の「二酸化炭素が見える」発言が一人歩きしているようだ。ネットでは何度もコピペされ、グレタ氏はすっかり頭がおかしな人扱いである。
 これはまるきりデマではないが、かなり言いがかりめいたものであることは確かだ。前掲書に、その典拠を見つけることができたので、以下に引用しよう。彼女の母マレーナ氏が執筆している箇所である。


「グレタはいくら努力しても、ほかのみんなにとっては簡単な方程式、ふつうの生活への入場券となる方程式を解くことができない。 
 なぜなら彼女には、私たちほかの人間が見ようとしないものが見えるからだ。
 彼女の眼には、私たちが排出した二酸化炭素が見える。工場の煙突からたちのぼる温室効果ガスが風に吹かれ、大気中に大量の灰燼をまき散らしているのが見える。
 私たちはみんな裸の王様。そしてグレタは、それを指摘する子どもだ。」(『グレタ たったひとりのストライキ』p9)

 

 上の短い引用からだけでも、「ふつうの生活への入場券となる方程式」同様に、「二酸化炭素が見える」も隠喩的な使われ方をしていることは明らかである。言いがかりのような明らかな誤読に、これ以上多くの人たちが加担しないことを望む。

3.環境問題と資本主義の不可分な結びつきについて

 反グローバリゼーションや気候変動問題についての取り組みで知られるカナダのジャーナリスト、ナオミ・クラインは、自著で次のように述べている。「市場統合が進行中だった1990年代、全世界の排出量の増加率は平均して年間1パーセントだった。ところが2000年代には、今や世界経済に完全に統合された中国のような「新興市場」の登場で、排出量の増加は悲惨なまでに加速し、10年間にほとんど毎年3.4%の割合で増加した。この急速な増加は、世界金融危機により2009年に一時的に減少したことを除けば、今日までつづいている。(註3)」クラインは数多くの研究結果を引きつつ、グローバル資本主義と気候変動との相関関係を示している。


 さらにクラインは述べる。気候変動問題に取り組む運動と、現在の支配的イデオロギーである規制緩和型資本主義とは根本的に相容れないものであり、これまでの運動の大部分は、問題の解決を市場自身にゆだねるという方法に固執してきたがために、貴重な数十年を無駄にしてしまった。現代社会のシステムは、共有資源を民営化し、惨事から利益をあげるための新しい方法を模索する方向へ舵を切っている(註4)、と。これが彼女のいうところの「惨事便乗型資本主義(disaster capitalism)」である。


 環境保護運動を考える上での、クラインのリベラル派に対する批判は明快だ。彼らの穏健な環境保護主義は、惨事否定主義や惨事便乗型資本主義を助長する歪んだ価値観を、積極的に強化しているのだという(註5)。原子力や地球工学にも期待できない。それらは次世代技術を見込んだもので、安全性が確認されていないばかりか、気候変動問題は次世代を待っていられるほど悠長に構えていられる問題ではない。

 そもそも現代社会の行き詰まりを、技術革新のみによって乗り越えようとする態度自体がプロブレマティックだ。それは社会の行き詰まりの原因になっているイデオロギーについて一切の批判をすることなく、むしろそのイデオロギーを透明化するのに加担することになる。とはいえ、こういったテクノ・ユートピア主義が人気を博すこと自体は理解できる。斎藤幸平が論じている(註6)ように、技術によって問題が解決できるのであれば、自分たちの生活態度を変える必要はまったくないし、それに乗っかってしまえれば楽だからである。

[註]
 

1) 第25回国連 気候変動枠組み条約締結国会議

2) https://www.mediaite.com/politics/philosopher-slavoj-zizek-praises-greta-thunberg-her-message-is-simply-take-science-seriously/

3) ナオミ・クライン(2017)『これがすべてを変える――資本主義VS.気候変動 (上)』幾島幸子ほか訳, 岩波書店, p27.

4) 同, p12. 

クラインによれば、たとえば世界中の公有林の中には樹木農場や樹木保護区という形で民営化されたものがあり、その所有者は「カーボンクレジット(取引可能な温室効果ガスの削減量証明)」を受け取っているという。環境保護ビジネスである。

5) 同, p79.

6) 斎藤幸平編(2019)『未来への大分岐』集英社, p341.

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