見出し画像

沖縄の思い出

警衛警備に関連した話。

昭和50年後半の沖縄出動、令和の時代は移動手段が航空機?かもしれないが当時は大型フェリーで船中一泊で沖縄に出動した。

【親族より:昭和58年の「献血運動推進全国大会」かと思料されます】

博多港に各機動隊等が集結、九州管区機動隊大隊長様の訓示まで用意されていた。

博多港ターミナルに出動車を並べるだけでも大手間、さらに部隊を整列させるまで大変な時間がかかるのに何事も型にとらわれる組織はこれを大事として実施する。

散々待たされておえらい方々の話が終わり、さて、積み込み。

出動車(大型バス)を積めるだけ詰込む、フェリー誘導員の腕の見せ所。これにも時間を要す。

隊員も同様、詰め込めるだけ詰め込めで成田のB宿並みで大広間の畳敷き、一人一畳分あるかないかに雑魚寝。

一昼夜を船上で過ごすも船酔いの記憶なし。

出動式が終わり、乗船した時点で飲酒していたからかもしれない。

玄界灘波高しではない記憶。

沖縄に到着後はビジネスホテルが宿舎となる。

警衛警備では通常制服で勤務するのが普通。

が、実地踏査では色々な場所を点検する必要上、出動服を着用して実施するもの。

だが通称ワッペンの出動服は沖縄では着用しないことと指示される。

理由は県民全体、出動服に嫌悪感示す、出動服から旧軍を連想するからと沖縄県警の随行者に言われたそうだ。

皆さんご存じないかもしれないが、ひめゆりの塔事件(昭和50年現上皇陛下ご夫妻がひめゆりの塔を訪れた際、火炎瓶で狙われた事件)の後でもそんな感じで反権力?の民情が強い所。

翻って今から数年前、辺野古基地問題で鉄条網を挟んで派遣部隊と反対派の言い争いの映像見て沖縄でも出動服着て警備するようになったと時代の流れを感じた。

当警衛警備については不穏な事件事案は発生せず。

夕食はホテル近くのステーキハウスで夕食、この辺、米軍基地の町との感慨強し。

ステーキハウスから食事を終えて、ホテルに帰る際、いるんだ、これが。立ちんぼ。

こちとら、夏時分で白の半袖カッターに紺色ズボンの見るからに警察と分かるような恰好なのに、寄って来る。

いや、その商売熱心さに脱帽。勿論、部隊で宿泊中、連れて帰れるわけがない。

そんな記憶の沖縄出動の話。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?