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TRPGという「未知の世界」の話

MMORPGで知り合ったフレンドの中に、TRPGを遊ぶ人達がいた。

どうやら、私が思っている以上に、TRPGで遊んだ事がある人、今遊んでいる人が多い。

私のTRPG初遭遇は、「フォーチュンクエスト」の3巻「忘れられた街の忘れられたスープ・下」に出てきた。「ダンジョンの主であるブラックドラゴンとTRPGで対決する」というシーンだ。

ファンタジー小説の中でさらにダンジョンの奥深くでゲームとしてダンジョンに挑戦する、というシチュエーション、今思えば入子構造過ぎて、よくこれを書こうと思ったな深沢美潮、と思わなくもない。

当時読んでいた時の感想を思い出すとすれば、登場人物達が会話する様子そのものが面白かった、という印象が残っているだけで、TRPGそのものには強く惹かれなかった。

当時の自分は、フォーチュンクエストやスレイヤーズを読んで「ファンタジー小説」を書きたかった。

ノートにフォーチュンメンバーのところにDQ4の天使の子とドラゴンがやってきて何か依頼する、的な話を書いていたのを記憶している。

その時「たくさん書いても、読むのはあっという間なんだな」と自分の書いた文章を読んで思った。自分がたくさん書いたと思ったところで、それは「おはなし」としては早すぎる、短すぎる、という感覚は、今でも自分の中で何かを書く時に蘇る。

話が前後するが、私がTRPGに惹かれなかった理由はふたつほどある。

ひとつは分かりやすい。「一緒に遊んでくれる友達がいない」からだ。当時の友達にルールブックを読んでもらって、かつ、キャラを作って、シナリオを用意して、遊ぶ時間を約束して…という、相手にお願いするハードルがあまりにも高過ぎた。(多分これはあるあるなのではないだろうか?)

二つ目は、改めてTRPG文化に触れた時に感じた、「物語がその場の判断で決まっていく」感覚が、どうしてもピンとこなかったというところにある。

私にとって「物語」とは、すでに「誰かが考えて、ラストまで書かれている」もので、マンガやドラマを見たり、観劇をして時も、「脚本家や監督がオチまで決まっている」から安心して見ていられた。

この感覚はおそらく、「上方芸能(いわゆるお笑い)」にも通じる。芸事は「完成している物語」を覚え、演じ、披露して、人を笑わせるもの。という刷り込みがある。もちろん落語家の創作落語、芸人コンビのオリジナル漫才やコントなどもあるが、これも「一旦完成させて」あるからこそ披露できるもの。というイメージだ(出して反応を見て構成を変える、などもその場でやらないので、客の目からは見えなくなる)。

完全なる「その場の発想だけ」で話すものは、私の中では「トークショー」扱いで、だからこそ、その「その場の発想」自体をゲームに取り込むTRPGという遊び方で、自分主体となって発言して楽しむ、という発想すらなかった。

演者と観客は、舞台という高さによって区切られているものだと思っていた。

けど、そもそも演者と観客を分けずに、「自分が演じる」事そのものを楽しんでいい、という文化がある事に、私は改めて「未知の世界」を見た。

そして、未知だからこそ、やってみてその感覚を知りたい、とも思った。

そして、フレが主催(いわゆるゲームマスター)をしてくれる事になり、私は「プレイヤー」として初めてTRPGに触れた。遊んだのは、「エモクロアTRPG(https://emoklore.dicetous.com)」という、ルールブックが全てサイト上で読めるTRPGだ。

その時に思った事や感じた事は、また次のnoteに書きたいと思う。






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