軽率な教えが孕む毒
要約
・なるべく結果ではなく手段を教えた方が良いよ
・なんでかというと成長しないし結果だけ常に得ようとする人はいつか破綻するから
・教わる方も質問内容を曖昧な表現や分からないの一言で済ませないように文章を練る
・解像度上げたり不明な部分の言語化をしたりする
・質問者も回答者も対等なので等価交換すべき
・そもそも勉強する事に向いていない人もいるよ
・ホントは自覚してコントロールできれば良いけどパーソナライズして教えるしかない
・魚の釣り方だけでは足りないらしい
放課後ていぼう日誌でも、釣りバカ日誌でも無くてこれは老子(諸説あり)の"授人以魚 不如授人以漁"の話である。
魚を与えれば1日で食べてなくなってしまうが釣り方を教えれば一生食べていけるというのがこの言葉の意味で、現代では結果ではなく手段を教えるべきだという例えに使われることが多いエピソードとなっている。
今回はその魚の釣り方だけでは足りないという多くのポエムが触れて屋上屋を架す内容となってしまうが書いていきたい。
・現実は今飢えている
そもそも魚の釣り方の背景として飢えている人へ教えるというものがある。これは主に環境に起因する知恵や知識、材料あるいは人数の多さが問題の大部分を占めている。そして現時点で飢えている。
飢えてる人間は何をするか分からないし、そうでなくても死んでしまうかもしれない。"だから魚を与える。そうすれば延命できて心理安全が稼げて言うことを聞いてくれるようになる"ハズだ……こういうことを割と真面目に書いてる人が割といるから死んでほしいと思う。
・いつからそんなに偉くなったのか
赤子に毛布や食事を与えるように何もできないから万事手助けする。こういった必要があると思っている。確かに、そういった一面もあると見られてもおかしくはない。しかし、本当にそうだろうか?生まれたての子供は必ず守られ与えられているのだろうか?そんなものは程度問題で論理の飛躍でしかないと反論もあるかもしれない。しかしながら、常に与えられるとは限らない事も重要なのだ。食べ物を用意されたとしても飲み込まなければ血肉にならない。飲み込むことについて親は子に教えただろうか?有史の限りそのような事例はないだろう。これは生物的な反射で生き残るために組み込まれた本能である。
随分と脱線したように思うが、人間には学習し生存する本能がある。仮にその本能が無い、あるいは失うと死しか待っていない。この本能で照らし合わせてみると、万事手助けしてやると奢り・傲慢で一方的な憶測でする行為は、相手の学習し生存する本能を鈍らせ、より楽で疲労のない方法にシフトしてしまうのである。相手を本当に思うのなら万事手を尽くすのではなく相手に学習する機会を残すべきである。それをあまつさえ相手に与えておけば良いと思考停止して本人の学習機会を奪うことは結果として本人を殺すことと同じである。
・昔懐かしいネチケット
その昔(そこまで古くないが…)、ネットを使うときには3つの言葉が常に前提としてあった。その3つとは「ググレカス」「半年ROMってろ」「嘘を嘘と見抜ける人でないと使うのは難しい」である。最近は煽りとして浅い理解されている場面が多いがこれ以上圧縮できない説明であり、これをマスターすればもう言うことはないレベルである。
1つ目の「ググレカス(ggrks)」は説明すらコピペネタで済ませたいところだが…(google it!)
現代社会に生きる諸君らには説明不要だと思うがGoogleと呼ばれる検索サービスがあり辞書や事典で調べるようにありとあらゆることを調べることができる。殆どの人間の知識はGoogleの下位互換なので質問はまず検索してからにしろという言葉である。この言葉の本質は、情報の集中や繰り返しの禁止という情報の散逸や伝言ゲームによる情報の改変を防ぐ、また質問の解像度を上げたり本質的な目的の言語化といった質問自体の質を高める、そして何より検索により結果を得ることで自己強化つまり学習の機会とその成功体験を得る事ができる。
2つ目の「半年ROMってろ」はROMから説明が必要かもしれない。Read-Only Memory(Member)から来ている言葉で元は読み取り専用の事を指すが半年間は書き込むなというのが意味になる、実のところ半年はその場での振る舞いを学び、恥をかかないために勉強しろということである。この恥というのは冷笑的な空気が醸成されやすいネット空間ではどんなに正しい事でもその場の正義に沿って白も黒に変わり、この正義を間違えることを恥としている。勿論、究極的にはこの正義が正しいという保証はできないため無視してしまっていいことだが出る杭は打たれるのは当然でありそれだけの覚悟を持たなければならない。
3つ目の「嘘を嘘と見抜ける人でないと使うのは難しい」は匿名掲示板元管理人のひろゆき氏の有名な言葉である。本来の意味で言うと匿名掲示板の管理人だからといって各ユーザが書いた内容が正しいものなのか判断できない(各ユーザがそれぞれ責任を取るべき)といった内容である。これはネットに限った話ではなく、真実かどうかは自分でしか最後の判断は下せないし、判断を下せない人は選択自体をするべきではないということである。判断を下すためには知識が必要でそのために(特に前の2つを)勉強する必要がある。フェイクニュースなどという言葉は近年出てきた遠くの出来事のように感じる人も居るかもしれないが、気づいていないだけで意図のない情報などない。何かのために情報は作られるのだから。
・最後まで責任を取れますか?
自分の言ったことで後になって酷い目にあったことがある人は意外と少ないかもしれない。しかし不用意な発言で困ったことにいつでもなる可能性がある。オオカミ少年という寓話がある。意図的に嘘をつき続けた結果、真実を話しても信じてもらえなかったという話だ。これは意図的に嘘を繰り返していれば信頼性は下がってしまうのは当然であり正しい情報は信頼性を維持あるいは向上する事になるという説話的側面があるが、仮に嘘だったが本当になったものと本当だったが嘘になったものがあるとすればどうなるか。現代社会の情報が目まぐるしく変わる時代において与えた情報も追跡して適宜修正があれば変更を伝えなければならないというのが世の中の潮流だ。昨日まで正義だったことが翌日には正義が別に移っているかもしれないわけでこれを各ユーザに個々連絡をつけて説明するのは非常に大変な作業となってしまう。更に現代では情報の拡散速度も年々増加多種多様化及び高速化しているため少しの毒も収集がつかなくなることがある。
さてこうなった時点で情報を教えた人は悪いのか?答えはお分かりですね?(ワザップジョルノ感)
・メタ思考と認知傾向
ここからは少し面倒な話をします。上記で書いたとおり究極的には自己責任論を振りかざして終わらせたいところですが、このコンテキストに載ってこない(載せられない)人たちも一定数います。これまでの文章の例えをなぞるならそもそも魚は食べられない人(他は可)やオオカミ少年しか居ない集落(嘘つき村)等です。分かりにくいと思うので解説すると前者がメタ思考で後者が認知傾向となります。
メタ思考とは、簡単に言えば相手の立場になったり俯瞰した立場で考えることであり物事の本質を捉える思考方法です。例の魚が食べられない人に魚の釣り方を教えても食べることはできません。このあとの認知傾向の話にも通じますが、ではどうするべきかと考えられるのがメタ思考です。回答を1つだけ書くと、魚を売ることで食べられるものを手に入れるです。
認知傾向についてですが、これは先天的な部分と後天的な部分とあり数え切れない程の専門書になる内容なので全ては割愛しますが前者は脳機能の成育不具合等で後者は環境や外傷性の問題等があり物事の把握が難しかったり逆に先鋭化してしまう事を指します。例の嘘つき村は、村で育った少年は嘘をついている実感などありません。仮に対偶である正直な少年が嘘つき村で育った場合は正しい情報を伝え続けていたのに信じてもらえず嘘を伝えると信用されたという話になります。これは環境による後天的な認知傾向を指しています(ただしこの話自体は前述の情報の真偽が入れ替わったらの話とは対応していないです)。
定義が終えたところで、どうもメタ思考と認知傾向がダメな人が一定数いるという問題である。残念ながら、この人たちに説明したり学ばせたりする事は非常に難しい。魚の釣り方を覚えないどころか学ぶ気も無いし必要性も理解していないからです。
・人は知らないものをおよそ自分と同じレベルであると仮定してしまう
自らの知識を元にしか想像できないため、住む世界が違う人間のことは分からない筈です。ですが、ここまでは納得できるのに何故か異文化と対面した時にギャップに驚いてしまうのです。なぜギャップがあるかと言えば、無意識に自分と同一視しているからで知りえない事は簡単には想像できないです。
ここから導かれる結論としては、自分の思考法と全く異なる人もいるため物事を教えるにしても席につくかつかないかも正しく理解するかも難しいという事です。
関わるなら個人に合わせて教える必要があります。
無人化システム組みてぇ…無人化システム組みたくない?