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人間とは失敗を繰り返す醜い下等生物である。(仮定)

失敗することは、決してマイナスの面しか持たないとは限りません。そのことを心に刻み、同じ過ちを繰り返さない、成長することこそが本当の「生きる」ということなのではないでしょうか。では、ここで皆さんに問います。
皆さんは、「生き」ていますか。

皆さんこんにちはsentliber運営メンバーの大学1年生のみっふぃーです。
今回は私の趣味である、「差別」の起源を踏まえながら、「生きる」という意義について話そうとおもいます。

初めに、みなさん歴史はすきですか。またそれはなぜですか。
中学校に所属していた経験がある人ならば、歴史を学んだことはあるでしょう。
そのとき、歴史を学ぶことを楽しいと感じましたか。たいていの人は、覚える事が多くて大変で楽しくはないと答えます。これは、暗記の作業が面倒だという考えからなのですが、そんな考えはフル無視で、私たち学生は歴史の学習を強制されます。
しかし、それは当然のことだと私は思います。
もしあなたが日本語の勉強をしたくなくても、日本語は日常生活に不可欠である故、学びますよね。それと同様に歴史の勉強は生きる上で必要なのです。なぜなら、過去の過ちを繰り返さないため、生きるためです。

中世のヨーロッパで行われた「魔女狩り」というものを知っていますか。簡単にいってしまえば、周りの人と少しでも異なる性質を持った所謂「異端者」と呼ばれる人を「魔女」と称し火あぶりなどの残忍な処罰の方法で虐殺していった事件です。少なくとも4万人はその生贄になりました。
綺麗事に聞こえるかもしれませんが、その処罰された4万人の人全員が何か悪いことをしたと思いますか。ただ、人と少し違うだけで、人々から忌避され犠牲となったのではないでしょうか。人間は自分を少しでも違う人を恐れる傾向にあります。なにか心当たりはありませんか。例えば、近所で大柄な外国人にあったとき、多少警戒してしまいませんか。そして、その恐怖を取り除くために排除しようとするのが人間です。その性質のせいで4万人の人が犠牲となったのです。
他にも例はたくさんあります。ヒトラー政権のユダヤ人虐殺、アパルトヘイトや日本では※非人という被差別民もいます。
※…非人というのは、最初は神に最も近い存在とされていました。人でない(非)というのは、一般人よりも身分が低いからでなく、身分が高い神であったからです。そんな精巧な身分が差別用語となったのは、神に近い存在を自分たちと比較して恐れ始めた人がいたからです。差別され始めたきっかけは魔女狩りとよく似ています。

最初に述べた通り、過ちを犯したということはそこまで卑下することではありません。問題なのは、人々が全く成長していないという点です。ピンとこない人のために具体例を出すと、いじめ問題です。近年、いじめによる不登校生徒が増加しているそうで、年々過去最多を更新しています。いじめは、自分と対象者を比較していくことから始まります。そして、少しでも異なる箇所があるとそこに付け込んで、恐れ初め、いじめへとつながります。

さて、今いじめを行っている人は生きることをしていますかね。

まずは、日々の行動を振り返ってみましょう。私たちには生きる権利があります。

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