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自然法とは?

【人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能である。これは、生存する目的を仮定することによる目的と手段による説明であり、原因と結果による因果的説明とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】



 「われわれがここで提出する単純な自明の真理を考え、またそれらが法や道徳とどのような関係をもつかを考察するにあたって注意しなければならないのは、それぞれの場合についてそこにのべられた事実が、生存という目的が前提された場合、法と道徳はなぜ特定の内容を含まなければならないかの《理由》を示しているということである。この議論のたどる普通の形態は、簡単にいって、そのような内容がなければ、法と道徳は、人々が互いに結合するさいにもつ生存という最小限の目的をも推し進めることはできないであろうということである。この内容がない場合、人々はそのままでは、いかなるルールにも自発的に服従する理由をもたないことになろう。つまり、ルールに従いそれを維持するほうが有利であると思う人々が自発的に最小限の協力をしなければ、自発的に服従しようとはしない他の人を強制することは不可能である。とりわけ強調したいのは、このアプローチにおいては、自然的事実と法的ないし道徳的ルールの内容とが、とくに合理的な関係をもっていることである。というのは、自然的事実と法的ないしは道徳的ルールとがもつこれとはまったく異なった形の関連を探究することも可能であり重要だからである。たとえば、心理学や社会学のようなまだ若い科学は、一定の肉体的、心理的あるいは経済的条件が充足されなければ、たとえば、幼い子供が家族のなかで一定の仕方で食物を与えられ養育されることがなかったならば、法体系や道徳律などというものは、確定されえないということ、あるいは一定のタイプに一致する法だけがうまく機能しうるということを発見するかもしれないし、またすでに発見しているかもしれない。自然条件とルールの体系とがこの種の関係をもつのは《理由》によって媒介されるわけではない。というのは、この種の関係は、一定のルールの存在を、人々がそれを意識的な目的ないし目標にしていることに関連づけるものではないからである。幼年時代に一定の仕方で食物を与えられるということは、人々が道徳律あるいは法を発展あるいは維持させる必要条件であり、また《原因》でさえあるということは十分示されるだろうが、しかしそれは、人々がそうする《理由》ではない。そのような因果的な関係は、目標とか意識的目的にもとづく関係とはもちろん矛盾しない。因果的な関係は、実際、目的的関係よりも重要で基本的だと考えられるかもしれないが、それは、この因果的な関係が、自然法の出発点となっている意識的目的、目標を人々がなぜもつかを実際的に説明するからである。しかし、このタイプの因果的説明は、自明の真理にもとづいているのでもなければ、意識的な目的とか目標に媒介されているのでもない。それは、社会学や心理学が、他の科学と同様、観察に、また可能な場合には実験により、一般化と理論という方式を用いて確立するものである。したがってそのような関係は、一定の法的ないしは道徳的ルールの内容を、以下の自明の真理としてのべる事実に結びつける関係とは異なっている。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第2節 自然法の最小限の内容,pp.211-212,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:自然法,生存する目的,目的と手段による説明,原因と結果による説明,因果的説明)

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