尼僧の懺悔9

終わりの日は突然にやってくる。

それは実に些細なことが始まりだけれど、ずっと抱えていた小さな病が、ついには命を奪うのに似ている。

ある朝、隠し持っていた御禁制の携帯電話が師匠に見つかった。
うっかり部屋に置き忘れたそれを、たまたま通りがかった師匠が発見したのである。
何年も使ってきて、一度も犯したことのない、凡ミスであった。

即時没収、そのまま説教となった訳だが、私はこの日を随分と待っていたような気がしていた。
チャンスがあったらいつでもそこから逃げろ、と年下の彼に言われていたのもあっただろう。
どうしよう、などど狼狽する前に、もうここしかないという決意が固まっていくのを感じた。
それは7年近く尼僧をやっていて、初めてのことだった。

それまで一度も、師匠に反論や不服を申し立てたことがなかった私は、その時初めて、もう辞めさせてほしいと告げた。
最初は怒られたことに対する子供じみた抵抗と受け取られて、頭を冷やせと言われたのちは、まったく取り合ってもらえなかった。

それでも、半日師匠の部屋の前で低頭し続けた。
時々何をしているのかと、自分をうそ寒く感じる瞬間もあったが、ひたすら辞めさせて下さいと願い出ているうちに、ようやく話を聞いてもらえる事になった。

もはや携帯など、どうだってよかった。
今ここで力を出さなければ、二度とこの沼のような生活から抜け出せないような気がした。

治らぬ持病と瑣末な病気にさいなまれ、外国人の世話に疲れ、師匠の被害妄想に翻弄され、兄弟子のセクハラに怯え、死神の誘惑に耐えながら、毎日を送ることに疲れたと答えた。
師匠にしてみれば、いまはそれどころではない、という空気であったのだろう。
事実毎日忙しく、私のことは気に掛けていても、優先順位は低いに違いなかった。私とて、そこに不満があったわけでもない。
ただ単に、もう無理が続かなくなった、それだけだった。
最後の最後に、私は我儘を通したのである。

もっと早くに告げてくれれば、と師匠は謝罪をした。
特に兄弟子のセクハラについては責任を感じると言ってくれたのだが、一部で私を信じ切れないような空気を醸していた。
無理もない、あれだけ仕事も出来てキレ者の兄弟子である。
だれもがまさかと思うだろう。
それでもいい。いっそすべてが私の狂言でもいい。
動き出した歯車を止めないために、なりふり構わず、とにかく実家に帰してくれと懇願した。
最初は難色を示し、否定的であった師匠も、病気のせいで私が意固地になっていると思った部分もあったのか、かくして事件から一週間ほど後、私は実家に帰されることとなった。

実家に連絡をすると、母親は手放しで喜んでいた。
父親は何をしでかしたのかと怒っていた。
遠距離の彼は、もう憂鬱なメールが来なくなることに心底ホッとしていた。

寺と尼僧という貝殻を無くした、裸のヤドカリのような私は、ただのアラサ―の坊主頭の女になって、夜の京都駅に立っていた。
駅に見送りに来た師匠は、私が好んでいたレモンティを最後に渡してくれた。
病気さえなければ、師匠は慈愛に満ち、親以上に慕いたい人間であることは変わらなかった。
渡されたレモンティの甘さが、いやに染みた。
なんだかすべてが無性にくだらなく思えた。
数日前まで必死にしがみついていたものが、なんだったのか、わからなくなった。
あれほど高く聳えていた塀をひとたび出れば、死のうとしていたことさえ怪しくなるほど、世の中は色と光といろんな刺激でごった返していた。

かくして一か月後にまた寺に戻る、という期限付きで、私は7年の軟禁ともいえる生活から自由になった。
私は27になっていた。

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