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尼僧の恋9「夕暮」

自傷によってなんとか日々をやりくりしていた私の毎日は、少しも明るい要素がありませんでした。
卒論のテーマは自身の出家についてでしたが、単調な毎日で得られた境地はまだまだ浅く、卒論のテーマとしては消化不良を起こしていました。

ある日、午後の授業が突然休講になった私は、暇つぶしにサークルの部室に立ち寄りました。
誰もいない部室は、出家して以降、唯一といっていいほど昔の自分に戻れる貴重な場所でした。
もとより姉御肌で、酒豪で、喫煙上等の男気溢れるダメな女だった私は、出家と同時にそれらすべてを捨てたのですが、
旧知の仲間しか訪れない部室という準プライベートな空間は、清貧な尼僧であるプレッシャーからも解放される、特別な場所でした。
久々にタバコなどを吸っていた所に、元カレ的になってしまった例の後輩が突然現れます。

彼もまた講義の空き時間に立ち寄っただけらしいのですが、久しぶりに見る後輩は、就職活動の始まったせいもあって少しだけ大人びた空気を纏っていました。
私は二人の間にあった色々はおくびにも出さず、就活は調子いい?などと先輩らしい当たり障りのない会話をしていました。
そういえば二人の会話は、いつも一方的に私が話して、彼が答えているだけとういうスタイルでした。
いつもどおり、もとどおり。我々はただの先輩後輩でした。

「それで先輩はどうなんすか?」

水を向けられて、一瞬私は言葉に詰まりました。
卒論もそうでしたが、毎日はそれ以上に苦しかった。
肘の内側にある、無数の傷が急に痛むような気がしました。

「うん、まあ、卒論なかなか埋まんない。」
「じゃあこんなとこでサボってたらダメなんじゃないんですか?
ていうかタバコってなんなんすか?不良尼(笑)」

そう、後輩はいつも、そんなふうに痛いところを突いてくる男でした。

「うるせえ、私にもいろいろあんだよ!(笑)」

お互い笑いあったところで、私の緊張の糸が弾け、
弱い自分がよからぬ方向に走るのが分かりました。
衝動は自分の理性など一瞬で突破し、光の速さで体を使役します。
私はおもむろに作務衣の袖をまくり

「ほれ、こんなんなってる」

縦に無数に走る切り傷を彼に見せてしまいました。
おどけたように言ったつもりのセリフでも、
さっきまでの解れた空気は一瞬にして凍り付き、そのことで自分がしたことの拙さがわかりました。

「なにしてんすか。」

一瞬息を飲んだ後、呟いて絶句した後輩の声で、自分がしたことのアホさに気付き、私は狼狽しました。
彼にまた重いものを背負わせてしまったと、ようやく理解が追いつき、
「死にたいって訳じゃない、むしろ生きたいからやってるの。死ぬような傷じゃないでしょ。心配しないで。」
等と弁解しても、もはや全く説得力はなく
「これみて心配するなっていうほうが、無理です。」
という沈んだ後輩の言葉に
「だよな。」
と自嘲めいた乾いた笑いで返すのが精いっぱいでした。

まあとにかく大丈夫だから、心配しないで。
勝手にふっておいて、元彼女面して、ほんと意味わかんないな私。
でも話せてよかった。そろそろ門限だし寺帰るわ。

ちょうど部室にきたほかの部員の気配を感じ、一方的に話を畳んで、私は部室を後にしました。

晩秋の夕暮れは重く、時雨をはらんだ黒い雲の間から、寂しそうな朱色で見慣れた大学のキャンパスを染めていました。
放課後の部室に集まってくる人の群れを足早に抜けながら、
もう彼に頼ってはいけないのだと、私ははっきり自覚しました。
そんなに深く切ってもいないのに、腕の傷がチリチリと痛みました。

腕の傷なんて見せて、彼に何と言って欲しかったのか。
彼に解決してもらうことは絶対にできないとわかっているのに、
なぜ打ち明けてしまったのか。
ばかじゃなかろうか。
綺麗な思い出の写真に、墨をぶちまけてしまったような、重い後悔が残りました。

ほどなく後期の授業は終わり、卒論は時間切れのような形で完成され、私の大学生活は終わりました。
もう図書館に行く口実はなくなり、後輩との連絡手段も失った私は、自動的にふわふわとした後輩との関係を終わらせる事になりました。

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