兵隊を支える銃後の手紙ー大日本国防婦人会の事例から
前線に出動している兵士や入営した現役兵を支える大きな力の一つだったのは、故郷からの手紙でした。家族のやり取りに加え、地域の団体も、またそうして支えてきたのは、これまでも何回か紹介してきました。ここでは、日中戦争当時に大々的に結成された大日本国防婦人会と兵士とのやりとりを紹介させていただきます。
まず、こちら。海軍の戦艦「山城」で勤務している水兵から、出身地の長野県縣村田中(現・東御市)の大日本国防婦人会への1938(昭和13)年正月の消印がある年賀状です。普通の年賀消印で、上陸している時に普通郵便で出したものです。
「洋上の初日に君が代をお祝申候 十三年元旦 軍船 山城 電信室」として名前を書いてあります。出征時にお世話になったとか、何かを送ってもらったとか、そのうえでの年賀状でしょう。軍事機密に引っかからないようにと「戦艦」という言葉を使わず「軍船」と記したのでしょう。電信室と入れたのは、もちろん配置でしょうが、何か軍艦の電信室から伝えられたような効果を期待していたのかもしれません。よく考えていると思えます。
なお、ここで出てくる「君が代」は、大日本国防婦人会のことではなく、「天皇の御代」という意味です。
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こちらは、同じ1938(昭和13)年11月15日差し出しの軍事郵便で、大日本国防婦人会上諏訪町分会(上諏訪町・現・長野県諏訪市)から、佐世保局気付で軽巡洋艦「天龍」乗艦の兵士に送ったものです。同年8月23日に発会した記念に、分会で作った絵はがきを出征や入営中の兵士に送ったとみられ、裏は発会式の様子となっています。
手書きのあいさつ文、かすれているところ、読みにくいところがありますが、何とか読めるところを拾いますと「此のたび当町に国防婦人会が出来ました。皆様の為めに何とか志てつとめたいと思って居ります。当町には十三日の朝雪が降りました。かの永田鉄山様の除まく式を一時よりなさる御様子で志て本年は珍らしく早々雪が参りました。御身御大切に御盡し下さいませ。無事(推定です)なよう御祈り申し上げます」と何とか読みました。
参考までに、永田鉄山は上諏訪町(現・諏訪市)出身で末は陸軍大臣になるとうたわれたほどの、優秀な人物。陸軍少将で軍務局長を務めていた1935(昭和10)年8月12日、陸軍省で相沢三郎陸軍中佐に白昼、斬殺されます。国家総力戦のために国家の諸機能を統制する必要があるとしていた永田鉄山は「統制派」の中心人物といわれ、後の東条英機総理は、永田の考えを継承したともされています。
消印と文面から、永田鉄山中将(死後昇進)を偲んで旧高島城内に胸像が建てられ除幕されたのは、早い雪の降った1938年11月13日午後だったことが分かります。この胸像は太平洋戦争当時に金属供出され、戦後の1965年に同じ高島城内の高島公園に再建されています。
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兵士が戦場で力を発揮するには、こうしたバックアップが不可欠だったのでしょう。手紙も慰問品も届かないという状況になると、やはり兵士の心は荒んでいったと思われます。戦争を動かすシステムは、こうして幾重にも張り巡らされていくのです。ちょっとしたことでも、危険性を察知するには、いろんな目配りが必要だと感じます。