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戦時遺物の由来求めてー長野県主催歩兵第五十連隊歓迎会の杯から分かったこと

 1905(明治38)年3月に仙台で編成された歩兵第50連隊は日露戦争に投入され、樺太の占領をしたのが初陣となっています。しかし、このころはまだ、正式な駐屯地が決まっていませんでした。そこで当時の長野県松本市の小里市長が広大な土地の提供と建設費寄付などを申し出て誘致に成功、兵舎も完成し移駐したのは1908(明治41)年11月のこと、というのは別記事でも紹介させていただきました。長野県の部隊ですので、関連品をあさっていたところ、こんなきれいな杯が出てきました。

陸軍を示す星のマークに桜でしょうか。縁の金も残っています。

 杯には「長野県主催歩兵第五十連隊歓迎会記念」と外側にはっきり残っていました。そこで「歩兵第五十連隊史」を開いてみましたが、特に歓迎会の記述はなく、いつごろのものかは、これだけでは分かりませんでした。大きな歓迎会があった機会とすれば、明治の移転時(1908年)、大正期のシベリア出兵からの帰還(1921年5月)、済南事変に巻き込まれた満州駐屯からの帰還(1929年5月)、満州事変後の治安戦を終えての帰還(1934年5月)、日中戦争で華北へ出動後の帰還(1940年1月)と、いくつか考えられます。

「長野県主催」
「歩兵第五十聯隊」
「歓迎會記念」

 さりとて、長野県も終戦時に大量の資料を焼却しているし、もし県立歴史館に古い資料があったとしても、探し出すのにかなりてこずるのは目に見えています。
 幸い、この杯には出荷したであろう商店のラベル「各国陶磁器 長野カク為 藤嘉精選」が直接貼り付けられ、のこっていました。

出荷業者のシールがしっかり読めました。

 これは、長野市中心市街地にある陶磁器店「藤嘉」のことではないか、と推測し、ならば何か手がかりが得られるかもしれないと思い、お店を訪ねました。
 応対していただいたのは、6代目の滝沢嘉助さま=訪問時67歳=。まずは明治期にこの屋号を使っていたか、ということですが、1854年の安政元年創業以来、すっとカク為の名前で使っているとのこと。ちなみに、当主のお名前も代々襲名しているといい「手続きが大変なんですよ」と笑いながらお話くださいました。

きれいな状態で残った杯

 杯を見ていただくと「このシール、懐かしいですね」とおっしゃった後、「薄口の美濃焼。市之倉で作ったものですね。マークや文字は転写でしょう。全体の厚さが均一でできの良い品ではありますが、値段は安い方だと思います」と、さすが、専門家です。
 そしてラベルが直接杯に張ってあったのは「箱入りではなく、宴席に並べて使うのが前提。乾杯したら、各自でたもとに入れてそのまま持ち帰ってもらえるようにしたのです。おそらく、出血サービスをしたので、その代わりにPRをということだったのでしょう」と当時の取引の背景まで教えていただきました。
 年代については「昭和に入ったころのものでしょう」とのご発言。少なくとも、明治40年代というような古い物とは考えられないとのことでした。
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 となると、満州駐屯からの帰還時(昭和4年)か、満州事変ころ(昭和9年)か、というあたりでしょうか。また、先の連隊史には1921(大正10)年に長野県を含む5府県の特別大演習があったと記載があり、写真集には長野市を訪れている写真があるので、この時に長野県が地元部隊を慰労しようと歓迎した可能性も捨てきれません。ただ、おおまかとはいえ、ここまで絞り込めば、また何かの機会に手掛かりが出たとき、役立つと思います。
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 足を運ぶことで、当時の軍隊と地域のかかわりの一端をうかがうことができ、また、地元のお店についても見識を深めることができました。やはり、モノから地域へと広がる歴史研究は面白いものです。ちなみに、藤嘉は訪問させていただいた後、しばらくしてから店舗を閉じられ、通販に集中されるようになりました。ふっと店を訪ねてお話ができる、最後の機会を捕らえられたのでした。

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