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関東大震災の朝鮮人絡みの流言と、惑わされた人たちが起こした事ー二度と繰り返さないよう当時の信濃毎日新聞に見る

 1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災で行われた、朝鮮人虐殺、中国人虐殺、間違われた日本人への虐殺。その時、長野県へはどんな情報が流れ、どんな動きがあったのでしょうか。流言の発生源は政府自身という研究もあり、実際に警察が注意を呼び掛けていて権威付けしてしまったのが、増幅したとみられます。あまりの伝播に政府も何とか抑えようとします。表題写真は同年9月14日の信濃毎日新聞朝刊の記事で、この段階にあっても、流言が日本を文明国に非ざる国に諸外国に見られるほどの危機感を持っています。

 <9月4日付夕刊(3日発行)>
 最初の朝鮮人関連記事が載ります。「朝鮮人400名捕縛 爆弾を持てるもあり」と見出し。「3日午後3時高崎よりの情報によれば2日午後11時、東京市内の不逞鮮人約400名は捕縛され爆弾若干その他のものを押収されたと」という内容。東京の話を高崎で聞いたという伝聞の伝聞記事で、具体性がありません。

<9月4日付朝刊>
「不逞鮮人脱獄し軍隊と大衝突」という記事が載ります。横浜監獄の「不逞鮮人」が全部脱獄して市内を横行しているので歩兵第34連隊が出動、朝鮮人400人との間に大衝突をしたというもの。衝突したというのに、それ以上の情報がないのは不自然ですし、続報もありません。それに、この件についての目撃者も、ついぞ現れることがありませんでした。

 長野県内でも警戒が始まり「松本市大警戒 消防組出動す」の記事では、松本市の薬店に「3人の朝鮮人が身なりを変えて」塩酸カリを買いに来たが不審に思って売らず警察に通報。これを聞いた青年団が市役所に押しかけ警戒を陳情したので、市は消防の手配をし憲兵隊も活動、市民は戦々恐々としていると。

 隣接する山梨県では停電になっている甲府市で「市内真っ暗となっているため不逞鮮人が団体を組んで横行」し、連隊では総出で警戒に務めているが朝鮮人の数が多くて十分な警戒ができないので青年会総出で30人ずつ隊を組み、こん棒を持って警戒していると。影におびえ、出て行った自分たちにおびえているような話です。

 警視庁はこうした混乱の拡大を抑えるため「朝鮮人の妄動に関する風説」には「虚伝」が極めて多いので報道するなと新聞社に警告しています。

<9月4日付号外>
 「横浜囚人解放」として、「横浜刑務所は火災のため囚人を解放したが解放せられた囚人中には朝鮮人も多数いた」とだけ報じています。なぜことさら「朝鮮人も多数いた」と強調するのか。それに、朝刊で既に軍隊と衝突を起こしているとされているのに話が逆戻りしています。ちぐはぐな情報を精査せず載せている印象で、情報に追われて精査していない雰囲気があります。

<5日付夕刊(4日発行)>
 「本県鮮人取締」という記事で、長野県警察部が震災とともに「各地の不逞鮮人が暴行をたくましゅうするに鑑み」、各警察署に命じて朝鮮人の取締りを励行し厳重な監視をすると決定、碓氷峠は群馬県と連携し特に厳重に警戒するとしました。これは、警察の公式見解と言える、初めての記事です。読者は「不逞鮮人」の存在を肯定する方向で受け止めたでしょう。

 長野市では軍人分会や消防組が避難してくる人に朝鮮人がいないか警戒と記事に。松本市では4日午前3時ごろ松本郵便局近くにいた2人の朝鮮人が、夜警中の消防手や青年団に打ちのめされ、松本署に突き出されたが、怪しくもなく放免されたとの記事が出ています。とうとう、無実の被害が出てしまいました。

 また、震災避難者の記事で「3日御代田駅で4人の朝鮮人列車強盗が現れたことは既報のごとくだが、それ以降、乗客の戦々恐々たる度がその絶頂に達し、列車中に朝鮮人を発見すると「ソレそこに朝鮮人がいる」と騒ぎだし、下車せしめ警察官の手に渡している」という一文があります。
 問題は「既報」の事件の概要です。4日付夕刊にあった記事には、「列車内で短刀を引き抜いた凶漢が金を出せと迫り」とあるだけです。列車はそのまま進行したと。警察の調べではなく、被害者の親戚の又聞き記事。いつの間にか「4人の朝鮮人列車強盗」に変化しています。

 一方、この日から信濃毎日新聞記者による現地報告の連載があり、うわさと違って、逆に朝鮮人が襲われている場面をつづっています。3日の上野の森で避難民の間を「鉄棒やこん棒を携えて鮮人狩りをしている有志もある。ときどき発見されては追われたり逃げそこなったりするものは書くこともできぬような凄い場面を見せられる」「『ウヌッ、畜生』との声を聴くとき、そこには血に濡れた鮮人を見出すのだ」

 現地報告では、大和民労会という団体が「朝鮮人が爆弾を投じて火を放ち井戸に劇薬を投じて邦人を損なうことを発見したら」警察か会に引き渡せという宣伝ビラがあちこちに張ってあるとも。「鮮人を発見したらやっつけてください諸君、と宣伝する神経の尖ったような顔をした老人もある」という状態。当時の東京の雰囲気をよく伝えています。

<5日付朝刊>
「本県内の大警戒」と題した記事。長野県警察部の警戒は政府から発せられた模様として、朝鮮人労働者の多い場所で警戒していると伝えます。実際に政府が警戒するよう電報を発していました。
 しかし、別の記事で警視庁は朝鮮人の大部分は何ら凶行をしないのでみだりに迫害、暴行を加えることなきよう注意を呼びかけている―としています。ただ、警視庁も朝鮮人による放火はないと断定していません。そうしたあいまいな態度が読者を混乱させたことでしょう。

 それで現地の情報に少しでも触れて確認したくなり、避難者の談話の扱いが大きくなりがちです。「不逞鮮人等、石油で放火す」の記事は長野市出身者の談話で一部目撃談はあるものの、「石油で放火」の部分は又聞き情報ですが、見出しにもして強調してしまっています。否定できない以上、やっぱりあったとの先入観が働いているのでしょう。ちなみに、震災後の文部省所轄の「震災予防調査会」の調査では、出火地点を134か所と特定、そのうち77カ所で延焼を起こしたとしていますが、出火理由を「放火」としたものは一つもありません(「トリック」加藤直樹より)。また、放火で立件された朝鮮人もいません。

調査報告を生かしたとみられる、火災の状況を記した「関東大震火災火流地図」

一方、同じ紙面の、別の東京から避難してきた人の話。「朝鮮人ですか。だいぶ不穏なこともしているのは事実らしいです」と、朝鮮人が加えた行為はあいまいだが「皆殺気だっているので、朝鮮人は見つけ次第殴り殺されたのがあるようです。私も2か所でやられるところを見ました」と、朝鮮人への暴行は具体的です。ほかにも朝鮮人が物騒だとして、朝鮮人とみると寄ってたかって殴りつけ半死半生にしてしまう―との証言も載っています。迫害を受けているのが朝鮮人なのは明らかです。

<9月6日付夕刊(5日発行)>
 2日に東京へ向かい4日に長野へ戻った人の体験談があります。池袋付近で「鮮人が石油の倉庫に火をつけようとしているのを警戒中の青年団らに取り押さえられたと人々が騒いでいかない方が良いと引き止めましたのを(略)強行しましたが、付近はこん棒を振っている青年団が殺気立って血眼で鮮人を探して歩いていました」。朝鮮人の行動は、ここでも伝聞です。記事は見出しに放火未遂を取り上げず、少し慎重になっているようです。

 この記事の下には「卑怯千万の市民 朝鮮飴屋を恐がる」との見出しで、長野市民が「あらゆる揣摩憶説をたくましくして『朝鮮飴屋をたたき殺してしまえ』とか市外に退去を命じてもらいたいと長野警察署に猛烈に申請して、朝鮮飴屋のごときは市民に包囲されて泣いているという」。長野署員は「他の鮮人も反対に戦々恐々としているありさまである。当方ではむしろかわいそうで慰めてやりたいほどである」と語っています。

<9月6日付朝刊>
 「東京長野間 新聞電話開通」との記事があり、ようやく情報の確認ができるようになってきた様子です。朝鮮人関係は流言飛語の話題で取り上げられています。「大震災の上田市中は流言飛語至るところに行われ爆弾を所持した鮮人3名が入り込んだの、いやそれは磯部駅でとらえられたとか、市民はいずれも戦々恐々としている3日夜、上田署某刑事が夜警中暗中に怪しき鮮人体の男をひっとらえたが(略)鮮人ではなく元上田署巡査であった」

 「流言飛語の張本人2名処分さる」の記事では、松本市では流言飛語行われつつあり4日夜、駅前で市民が朝鮮人と見誤られ、群衆に取り囲まれたが派出所に保護され難を逃れたとし、あまりの軽挙妄動を憂えるとしています。無根の風説を流したとして10人が検挙されたほか、青年会が非常識な宣伝ビラをまいたとしています。記事の論調が県民に落ち着くように呼びかけ始めた感じです。ちょうどこのころ、当時の信濃毎日新聞主筆、風見章が東京を実際に見聞して戻り、社員を集めて「流言飛語に新聞社が動かされては末代までの名折れである」とし、朝鮮人問題への軽挙妄動を戒めています(風見章日記・関係資料より)。

<9月7日付夕刊(6日発行)>
 やっと「鮮人暴行等の流言飛語が遺憾 福田戒厳司令官談」との見出しが出ますが、記事は中途半端。「無頼漢取締 人身安定す 戒厳令奏功」との記事も「不逞鮮人および無頼漢の取締りを厳重にしたため一般の人身引き続き安定に向かいつつあり」としており、「不逞鮮人」がいたとの印象を与えています。ただ、ほかには関連記事や見聞の話がなく、新聞社側がより冷静になった印象を受けます。

<9月7日付朝刊>
 ようやく9月6日、政府が公式に朝鮮人への暴行を認めて戒めた内閣告示が出ました。「鮮人迫害と山本首相の告示 国民の節制を希望す」との見出し。もし不穏の動きがあれば速やかに軍隊か警察に通告するところ「民衆が自らみだりに鮮人に迫害を加えるがごときは、もとより日鮮同化の根本主義に背戻するものにしてまた諸外国に報ぜられて決して好ましきことにあらず」として自重を求めています。ただ、あくまで外聞を気にしているこの論調が、朝鮮人や中国人の虐殺隠蔽につながっていくことになります。

<9月8日付夕刊(7日発行)>
 内閣告示は出ましたが、まだ記事中に朝鮮人との衝突の話題が出ます。横浜の被害まとめの中で「多摩川上流の不逞鮮人百余名が竹藪の中から出てきて目黒付近を襲撃したので在郷軍人青年らは竹やりを作り白鉢巻を目印にしてこれを撃退した」とあります。襲撃されてから竹やりをつくり白鉢巻をそろえてという不自然さがあります。特に見出しにはなっていません。

<9月8日付朝刊>
 「酒興の人騒がせ 無根の事実を宣伝す」との記事。6日夜、中野町の民家へ泥酔した男が兵士600人と朝鮮人600人が近くで衝突し一部があちこちに動いているとしたので、家人は近所に知らせ子供や女は泣き叫ぶ。警察に駆けつけ事実無根と分かり、泥酔した男が捕まったと。
 しかし、一度は周囲に信じられるぐらい、まだまだ朝鮮人の流言を真に受けていたことが明らかです。

<9月9日夕刊(8日発行)>
 「半鐘を打てと騒ぐ 震災を見てきて発狂」との記事。7日夕、長野市で「鮮人が押し寄せてきたから半鐘を打て」と大声を上げて男が触れ回ったので、あわてて飛び出すものもあったが様子がおかしいので巡査が取り押さえ取調べ。精神的に不安定なところにスズメ脅しの音を聞いて早合点したと。

<9月9日朝刊>
 犯罪事実の否定が掲載されます。「井戸の中に毒薬、放火強盗につき南谷検事正談」とした記事。東京地裁検事正によれば「今回の大災害につき不逞鮮人が徒党を組んで各所を徘徊し爆弾を投ずるとか井戸の中に毒を投入するとかあるいは放火強盗を働くとか種々の流言が行われているが7日夕刻までには左様な事実は絶対にない。もちろん鮮人中には不良の徒があるから警察署に検束して目下厳重取調べを進めているからあるいは少数の窃盗その他はあったかもしれないが流言のような犯罪は絶対にないと信ずる」と。結果的に、この談話が正確だったことが後に明らかになります。

南谷検事正談話と長野警察署の朝鮮人保護の記事が並ぶ9日の信毎

 これに並べて「長野署鮮人保護」という記事が。長野市内に住む朝鮮人3人が流言飛語に震え上がり屋内にいて飢餓に瀕しているのを署員が発見し、旅費を与え7日夜に木曽須原へたたせた。8日夜には高崎で腕を切り落とされ上田で治療を受けた朝鮮人に帰国の旅費を与えてやったと。

 明らかに朝鮮人への記事の雰囲気が変化しました。しかし、同じ朝刊には「鮮人の背後に主義者の扇動 今やこれら不穏行動は跡を絶つに至れり」との記事。関東戒厳司令部発表で「不逞鮮人の行動につき種々の風説喧伝されしが事実震災当時においてはその形跡なきにあらず」と、いくつかの例を挙げ「亀戸警察署において2日鮮人6人及びこれを扇動したる邦人主義者一派を拘束せるが警官の命に服せず暴行をあえてするのみならず他の拘禁者を使って不穏なる言辞を弄せる」(亀戸事件)等の事実はあったと強調。流言も主義者が流布したものが少なくなかったというストーリーが示されます。一応、「自ら制裁を加えるがごときなきを望む」とはしていますが。

 以上、9月4日付夕刊から9日付朝刊まで見て来ました。長野県内では3日夕から5日にかけてが朝鮮人デマのピークだったようです。東海道線や山梨県内の中央線が不通になった影響で、現・長野市の篠ノ井駅が東京と関西などをつなぐ接点となり、多くの人が動くようになってデマも広がった様子です。また、警察や軍隊が応援で手薄になっているという状態が緊張感を増幅させた側面もあったようです。

 幸い、長野県内で朝鮮人が殺される事態は紙面で確認されませんでしたが、多くの朝鮮人住民が迫害を受けました。政府のデマ否定が9月6日までずれ込んだことは、重大な問題だったでしょう。3日に上野の森の様子を伝えた記事からも、もっと早く政府が朝鮮人迫害の情報をつかめたはずで、そのころに声明が出ていれば、長野県内の混乱も少なかった可能性があります。

 雑報を一通り見ると、明快に「朝鮮人の暴動」を見聞した話や当局が発表した事例はないのに、人々の伝聞情報が独り歩きしていた様子が分かります。一方で、「朝鮮人が暴行されている現場」は記者を含め、いくつも明確な目撃談がありました。上野の森の現地ルポは、人々が興奮した不安な中、情報を冷静に判断できなくなっている様子を浮き彫りにしています。また、ビラの張り出しがデマの増幅にもつながったと容易に想像できます。

 初期の報道は関東大震災という未曾有の出来事の中、正確な情報を確認できなくても、何か伝えねばとの思いが、本来慎重に扱うべき情報を垂れ流すような形になったと思えます。しかも、記事では伝聞や憶測で使い分けていても、読み手は「やはりそういうことがあったのだ」ととらえたでしょう。新聞が落ち着くのも、情報の入手や確認が容易になり、関係機関が正確な情報を出し始めた6日からでした。

 この論考は、新聞記事がどう伝えたかに絞って当時の情報の流れや人々の行動を検討しました。普段からの、朝鮮人への差別感情や蔑視がきっかけとなって、朝鮮人に日ごろのうっぷんを晴らされるのではないかと、自分たちの身に覚えがあるからこそ不安になり、やられる前にやっつけるという意識が広がったさまが分かります。
 そして、それは権力者も同根であり、そうした行為を打ち消すのに時間がかかったといえるのではないでしょうか。そこに、震災を利用した社会主義者弾圧をもくろむ警察の狙いも絡んでいた様子が浮き彫りになったと思います。震災を利用したのは、本当は誰だったのか。

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