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戦前も戦後も、バスの席を譲らず

 表題写真は、戦争末期に爆撃機B29からまかれた「紙の爆弾」、いわゆる「伝単」の一枚に書かれた文章です。戦争を継続しているのは軍閥であり、それを倒せば戦争が終わるといった趣旨で、一般民衆の決起を呼びかけていますが、特に効果はなく、結局政府首脳や天皇によってポツダム宣言受諾が決められ、民衆がかかわることなく戦争が終わります。

 これに象徴されるのは、日本人の自主性のなさ、お上に従う根強い体質です。人間関係を上下でしかみれない、空気を読む、自分から行動しないのに文句はいう…。こうした日本人気質は、実は戦前から戦後、今日に至るまで変化していない様子です。
 1948(昭和23)年8月10日発行の長野県内月刊誌「信毎情報」
は、「忘れられる人々」と題し、グラビアで傷痍軍人の姿をルポしています。こちらは、バス車内の傷痍軍人の写真です。

足の不自由な傷痍軍人に席を譲る人もなく

 「かつてわれわれをたたえた彼女たちは冷たくも座席に腰かけ、私はこうして不自由な身体で立っていく…」と写真説明。しかし、こうした反応は決して終戦を境に変わったのではありません。

 1940(昭和15)年8月13日付信濃毎日新聞の投書を紹介します。
 「長野電鉄にて ▼このごろの長野電鉄線は、いつも満員です。その日も湯田中からの都会人、しかもリュックサック背負った体位向上?をもって自ら任ずる若き男女でしたが所せまきまでにひろがり、私たちは中途から乗るので腰かける場もありませんでした。▼ちょうど延徳駅と思いました。傷痍軍人章をつけたご老人が足を引きずりつつステッキをつきながら乗ったのでしたが、この若き人々の誰もが席を譲ろうとする人もなく、しかも章を見て見ぬふりをしている奴らのみだったのです。この時局に自分は遊ぶためにこうしてきて、しかもそれができるのは誰々の為かも知ってか知らでか。▼ぜひもっともっとこうした人々に敬意と一般民が感謝の念がなければならないと思います。また、ああした場合、車掌も「ちょっと席をお譲り願いたいものです」ぐらい言いうる訓練もほしいと思います」

 戦前も戦後も、同じようなことが起きているのです。現場で声掛けする人がいないのも共通です。そんな中、当の傷痍軍人の思いを代弁するコラムが1942(昭和17)年12月6日付信濃毎日新聞にありました。
 <車内に傷痍軍人席>
 「ある陸軍病院を訪れて、傷痍軍人の方々の話をきいたが、さまざまの話の中で、汽車などの乗り物のなかに、できることなら傷痍軍人席という風なものを設けてもらえないであろうかという言葉は、かなり多数の一致した意見のように見受けられた。
 自分たちも乗り物に乗るときに、そういう設備がないために非常に気がねであるが、ほかの一般の乗客たちも、おそらく気がねなのではなかろうかというのである。自分たちが白衣で、あるいは傷痍軍人の徽章をつけて汽車に乗り込んでいくと、なにか席を譲れと要求しているように思われはしないかという気がして、大変気がねだというのである。
 親切にされるのはうれしいのだが、どこか親切を要求しているかのようにみられるのは心苦しいというのである。それだから、もしも傷痍軍人のための席であるといった風な場所が、初めから設けられていたならば自分たちはもちろんのこと一般乗客もずいぶんたすかるだろうというのである。
 傷痍軍人席のような設備ができれば、それに越したことはない。しかし、それよりも、そういうことを思いつくに至るまでの傷痍軍人のこまやかな心遣いをおもって、筆者はもったいなく感じたことをここに付け加えておきたい」(転載終了)

 みんな、何とかしたいという思いや不快な感情はあるのに、それを改善するために自分からは行動しないこと。「車掌が言ってほしい」という言葉は、システムの指示には従うという、暗黙の了解があるようです。そこから「専用席」というアイデアも出てくるのでしょう。
         ◇        ◇
 一人ひとりが住みよい社会を作るために体を動かしたり声を上げたりすることを、自分からはやらない。誰かに指示してもらい、取決めをつくってもらえば従う。これは、個人の行動を嫌い、権力に従うという、日本人の思考を表しているのかもしれません。世の中はどこかのえらいさんが動かしているという、主体性のなさ。でも、心から納得しているわけではないから、おかしいと声を上げる人や行動する人を、逆に非難する。自分は我慢しているのにあの人たちはーといった、ねじくれた心理である。

 こうした日本人の行動原理は、多分に農耕的です。共同作業をするため、誰かに従う必要がある。天候という人知の及ばない物に左右されて、あきらめを必要とする。そんな中で、大多数の善良で従順な庶民と、その特性を生かして搾取する人という構造が固まってきたのではないかと。

 でも、もうそんなこととはさよならしませんか。我慢してその鬱憤を弱者や行動する人にぶつけるなんて、カッコ悪くないですか。行動できなくても、行動する人を素直にすごいなあとみてやれませんか。その積み重ねが、みんなが住みよい社会を生んでいくんではないでしょうか。その力が「戦争なんてやりたくない」という、庶民の願いをずっと形として維持していくことにつながるのではないでしょうか。

 最初に紹介した信毎情報のグラビアでは、療養所の食糧確保に苦労したり、金網あみなどの技能を身に着けたりと、懸命に生きる傷痍軍人さんたちの姿が一緒に紹介されていました。この写真は、配給された砂糖をコメなどに物物交換する傷痍軍人の方です。

砂糖を米と物々交換

 ひたむきに生きる人たちを、せめて邪魔しないでいく社会であってほしいし、できるなら「一緒にやろう」と声を出せる人が一人でも多い社会でありたい。自分の責務でもあると思って居ます。

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信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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