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防空演習で戦時体制強化も、空襲被害は壮絶

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1928(昭和3)年に初めての防空演習が行われて以来、人々に戦時体制をいやでも植え付ける狙いから防空演習が頻繁に行われます。が、日本の防空対策は人が待機して消化させるというのが基…
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#防空演習

貴重な1942年の防空演習記録ーニューラルネットワークの色付け写真でどうぞ

 長野県上田市の小県蚕業学校(現・上田東高校)の1942(昭和17)年度卒業アルバムを入手しま…

1931(昭和6)年に長野県内各地を巡回した戦争映画「大空軍」は航空予算獲得の世論作…

 1931(昭和6)年2月11日の紀元節に合わせて、松竹系の劇場で映画「大空軍」が封切られま…

長野市初の防空演習は1932(昭和7)年。本番はその11年後に。

 日本で防空演習が最初に行われたのは1928(昭和3)年、大阪においてでありました。長野県で…

「逃げるな、火を消せ」と、盧溝橋事件から間もない1937年8月、長野県全域の初の防空…

 北京郊外の盧溝橋での日中両軍の衝突から交渉がこじれて日中戦争がはじまった1937(昭和12)…

戦時下、空襲に備えて各家庭に求められた灯火管制。アイデア商品もたくさんあらわれま…

 大日本帝国の戦時下における空襲対策で、民間に最も求められたのが、夜間、屋外に光を漏らさ…

空襲対策に毒ガス防御が重視されましたが、結局使う場面はありませんでしたー懸賞では…

 第一次世界大戦では、毒ガスが兵器として戦場で初めて大規模に使われました。しかし、終戦後…

<戦時下の一品> 川原式防空カバー

 防空演習が1928(昭和3)年の大阪を皮切りに各地で行われるようになりますが、いすれも夜間に外に光を漏らさず、敵機から空襲の目標を隠す「灯火管制」が特に重視されました。これを将来の科学力の前には無意味で暗闇で住民が混乱するだけと喝破した信濃毎日新聞主筆桐生悠々が軍部の圧力で退社させられるほど、灯火管制は重要事項とされていました。  そこで電灯に付けるさまざまな灯火管制用の「傘」が作られ販売されましたが、それらが主に紙製で電球の熱を避けて大きめに作られていたのに対し、今回入

少女雑誌も、乙女に軍国主義を沁みとおらせる付録で迎合

 大日本雄弁会講談社が発行していた「少女倶楽部」の日中戦争当時の付録をいくつか収集しまし…