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関ヶ原の戦い、敗者たちの戦死塚

11月12日(日)に放送されたNHK大河ドラマ『どうする家康』では、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いが描かれました。室井康成著『日本の戦死塚-増補版 首塚・胴塚・千人塚』(KADOKAWA)では、関ヶ原古戦場に遺る「東首塚」「西首塚」のほか、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊・大谷吉継の「首塚」、島津豊久の遺体を埋葬したとされる「島津塚」の伝承を考察しています。

西首塚(岐阜県不破郡関ヶ原町)

西軍(石田方)将兵の首級を埋葬したとされますが、近代以前は単に「胴塚」と呼ばれ、大きさも東首塚よりも遙かに大きかったとする伝承もあります。

東首塚(岐阜県不破郡関ヶ原町)

東軍(徳川方)将兵の首級を埋葬したと伝えられていますが、前近代までは「首級塚」と呼ばれていた可能性があります。

石田三成の首塚があった付近(福島県郡山市和田町高倉)

処刑された石田三成の亡骸は、首・胴ともに京都の大徳寺三玄院に埋葬されましたが、なぜか現在の福島県郡山市内に三成の首塚が築かれたとする異説を、前田慶次が旅日記に記録しています。

小西行長の首塚(岐阜県不破郡垂井町岩手)

処刑後に京都三条大橋で晒された小西行長の首級は、彼を捕縛した竹中重門の家臣によって竹中氏の所領に持ち帰られ、明泉寺の境内に埋葬されたとする伝承があります。

大谷吉継の首塚(滋賀県米原市下多良)

伝承では、大谷吉継の縁戚に当たる祐玄なる僧が、関ヶ原の戦場で自害した吉継の首級を埋葬したとされます。なお、吉継の首塚とされる古跡は、岐阜県揖斐郡揖斐川町春日川合にもあります。

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