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子どもを鍛えることにおもねる必要なし

『学び合う教室文化をすべての教室に』(古屋和久)の投稿で、二瓶弘行氏の名前を挙げた。同氏は、私のメンターであり、こうなりたいと強く憧れを抱いた人物の1人である。筑波大学附属小学校で長い間国語教師として教壇に立ち、現在は大学教授としてご活躍されている。

二瓶氏の授業はこれまで10回以上は参観しているが、全ての授業で子どもが全員挙手をして、豊かに語り合っている。一年生、六年生関係がない。その姿はまさに圧巻である。

そんな二瓶氏だが、もちろん年度当初からそんな子どもたちなのではない。
『対話授業づくり一日講座』では、その秘訣が書かれていた。

四月。国語の授業開き。
「読みたい人、いませんか?」
シーンと静まり、1人の手も挙がらない年さえある。しばらく待って、促すとようやく数人の手が挙がる。その数人の子を精一杯褒める。
「きみたちも40人の仲間の性格や得意不得意なことをまだ知らない。その中で『あいつカッコつけてる』なんて思われたらどうしよう。そう思っているかもしれない。『自分はあまり上手に読めない』そういう子もいるだろう。そんな中で今手を挙げたきみたち。二瓶ちゃん(同氏の一人称)は君たちを思いっきり褒める。


それが初日。
2日目。わたしはまた音読をやる。初日よりも手を挙げる子は増えてくる。「この先生は、下手に読んでも怒らない。褒めてくれる!」

そして1週間くらいが経った時、また言う。
「読みたい人、いませんか?」
1番初めの時、手を挙げる人はいなかったけれど、今はこんなにいる。いやあ、君たちは成長している。今日はね、手を挙げていない人の気持ちを聞いてみたいんだ。手を挙げている人の気持ちは分かる。読みたいって気持ちだろ?でも聞きたいのは、どうして君が手を挙げていないのか、二瓶ちゃんにはわからないんだ。
「どうして手を挙げないのか」と聞かれて、意見いえるようなら音読くらいは手を挙げるはずた。だから、こう続ける。
2年生の秋の頃だったかな。わたしね、国語の時間に教科書を読んだことがあったの。〜中略〜(自身の音読をした時の笑われた経験を話す)こんな気持ちの人きっといるだろう。そんな気持ちは今から捨てなさい。捨てていい。これから先、つっかえて読んだり間違ったりすることはある。それをもし笑ったら、二瓶ちゃんは絶対に許さないよ。だから心配するな。下手でもいい。読みたくないなんて気持ちをやっつけて、頑張って手をあげてごらん。
そしてまた次の日。
「読みたい人?」と聞くと手を挙げる子がさらに増える。それでもまだ、手を挙げられない子がいる。
二瓶ちゃんには手を挙げられない人の気持ちわかるよ。きっとこんな人もいる。
〜中略〜(自身の3年生の頃の経験を話す、前の日と言い方を変えて挙手を促す)子どもは私の話していることはわかる。でも行動に移せない。そんな簡単に心が変わるほど、子どもは甘くない。いろいろな思いを重ねて成長しているから、手を挙げていても、心から読みたい!と願う子は少ない。でも、手は挙がる。そう言う空気を作るのは2週間でできる。五月の連休前までには、そういう集団をつくる。音読を通して自分の声を人に聞いてもらうことに躊躇しない集団を、四月いっぱいでつくる。
〜中略〜
読みたい人?と聞かれた時に、40人全員が当たり前のようにごくごく自然に手を挙げるムキになって手を挙げる子もいない。自分は音読する学びの場の一員なんだと、ごく自然に手を挙げる。そういうクラスをつくりたい。
そのためには、授業開きの1時間目からが勝負になるのだ。

二瓶氏の徹底した哲学を感じる。一時間一時間を妥協しない。要求を高く突きつける。多くの教師は強い意志を持っていたとしても、途中で「まあこれくらいなら」と満足してしまう。二瓶氏にはそれがない。二瓶氏はこれとは別に「こんな教室にしたい」という明確な青写真があり、子どもにも共有している。
同著には、「音読すらみんなの前でできない子が、みんなの前で自分の意見など言えるはずがない」とまで言っている。その通りだろう。
子どもを鍛えることにおもねる必要は全くない。

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