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悪だと知っている行為を続ける方法

問題意識

私は車好きでよくガソリン車を運転する。そしてある日、気候変動についての本を読んで、ガソリン車の出す排気ガスが気候変動の要因の一つであり、気候変動によってグローバルサウスの人々が害を被っていると知る。このような事実を私が知った後で私がガソリン車を運転することは、倫理的な悪さを伴うように思われる。

以上を一般化すると、私には次のような直観があると思われる。

直観
私へ快をもたらす行為Aが、他人への害をもたらす事実Fによって構成されていることを知りながら、それを知る前と同じように行為し続けることは悪い。

最初の問題

この直観を一旦正しいものだと仮定する。さらに、私は倫理的に正しく生きたいと欲していると仮定する。これらを仮定した上で、以下の問題を考える。

問題1
私へ快をもたらす行為Aが、他人への害をもたらす事実Fによって構成されていることを知った場合、私は当該の行為をやめなければならないのか。

先の例に戻って確認する。私はガソリン車の運転によって排気ガスが出ており、それがグローバルサウスの人々に害をもたらすことを知っている。その上で、私はガソリン車の運転をやめなければならないのだろうか。言い換えれば、上記のようなことを私が知った上で、私がガソリン車の運転をすることは倫理的に正当化できるのだろうか。

問題1への答えは、事実Fによって構成される行為Aが、pro tantoに悪いのかprima facieに悪いのかによって変わる(ここで、他人への害をもたらす事実によって構成される行為は、何らかの点で悪いと仮定している)。

pro tantoとprima facieの違いは以下に従う(強調筆者)。

あるものXが「さしあたり(prima facie)」悪いというのは、単純化すれば、Xは暫定的に悪いのだが他の考慮事項によってその悪さが帳消しされうるという⽴場である。さしあたりの悪さは、仮にXがすべてを考慮して(all things considered)悪くないとわかったら、⼀切残らない。これに対して、Xが「プロタントに/その分だけ(pro tanto)」悪いというのは、単純化すれば、他の考慮事項にかかわらずXは⼀定量の悪さを伴うーーただし、量の問題として、他の考慮事項を合わせて考えるとよさが上回りうるーーとする⽴場である。プロタントの悪さは、仮にXがすべてを考慮して(all things considered)悪くないとわかったとしても残る。したがって、たとえ花⼦の操作がすべてを考慮して悪くないことに同意しても、その上で花⼦の操作をさしあたり悪いと考えるのか、それともプロタントに悪いと考えるのかでは、⼤きな違いがある。前者によれば、花⼦の操作は⼀切悪くないことになる。後者によれば、(他の考慮事項があるために正味で悪くないとはいえ)操作の悪さは残るーー操作をせずに爆弾のありかを聞き出せたならなおよかったーーことになる。

「操作(manipulation)の倫理学: 論点の概観」 p. 14 脚註15

以下では、行為の悪さをpro tanto とprima facieに場合分けして問題1への答えを考える。

行為がprima facieに悪い場合

一般的に、行為がprima facieに悪い場合、その行為が持つ悪さは、他の考慮事項によって帳消しにされうる。そのため、今回の議論で言えば、私が行為Aをやめる必要はない。つまり、その行為によって生み出される快が害を上回っていれば、私はAを倫理的に正当な仕方で続けて良いことになる。

ここで一つ注意。ここで生み出される快を享受する存在には、私以外の存在が含まれうる。例えば、ガソリン車の運転がprima facieに悪いとして、ガソリン車の運転によって私が物流を迅速に循環させ、多くの人々が利益=快を享受しており、そこでの快の総量がガソリン車の悪さを上回るとしよう。この場合、私のガソリン車の運転の悪さは無かったことになる。

行為がpro tantoに悪い場合

一般的に、行為がpro tantoに悪い場合、その行為が持つ悪さは、他の考慮事項によっては帳消しにされない。そのため、行為Aがどれだけ多くの快をもたらしたとしても、行為Aの悪さは残り続ける。

例えば、排気ガスを伴うガソリン車の運転がpro tantoに悪いとすると、ガソリン車を運転し続けることは、それによってどのような快がもたらされたとしても、悪さを伴う。

そのため、ガソリン車の運転は、それよって物流を半端ない効率で回せたとしても、《ガソリン車ではない別の手段で物流が回せればなお良かった》、といったような評価を受けることとなる。

問題1への回答

ここで問題1を再掲。

問題1
私へ快をもたらす行為Aが、他人への害をもたらす事実Fによって構成されていることを知った場合、私は当該の行為をやめなければならないのか。

ここまでの議論により、問題1への答えは「行為Aがprima facieに悪い場合はNo。行為Aがpro tantoに悪い場合はまだ不明」となる。前者(prima facie)の場合は行為Aによって大量の快を生み出せば良いが、後者(pro tanto)の場合はまだよくわからない。以上を踏まえて次の問題へ向かう。

実践の問題

次に考える問題は以下。

問題2
私へ快をもたらす行為Aが、他人への害をもたらす事実Fによって構成されていることを知った場合、私はどのようにすれば当該の行為をやめなくても良いのか。

ここでも、行為Aがpro tantoに悪いのかprima facieに悪いのかで場合分けしよう。

行為がprima facieに悪い場合

行為Aがprima facieに悪い場合に当該の行為をやめずに続ける仕方は、すでに述べた。行為Aによってもたらされる悪さを上回る良さを、行為Aによって生み出せば良いのである。例えば、排気ガスを出す車を運転しながらも、多くの荷物を運んで人々へ届けているとする。この場合、荷物を受け取った人々の快を上昇させたとして、ガソリン車の運転は正当化されうるかもしれない。これが問題2への答えとなっている。

行為がpro tantoに悪い場合

行為Aが悪いと知っており、さらに行為Aがpro tantoに悪い場合に、当該の行為をやめずに続けるにはどのような仕方が考えられるか。言い換えれば、以上のような状況でも倫理的に正当化される行為Aとはどのような行為か。

ケースバイケース、という回答になってしまうだろう。Aがpro tantoに悪いとしても、もし仮にそれ以外に取れる手段が残されていないのなら、Aは全てを考慮して(all things considered)正当化できるだろう。例えば大きな荷物を運搬する電気自動車がまだないなら、そのような事実も加味した上で、ガソリン車の運転は正当化できる。

しかし、そもそも行為Aによって達成したい目的が自己満足のようなものであれば、行為Aは all things consideredでも悪いと思われる。例えば、「ガソリン車を運転して排気ガスを出しまくることが楽しい」という特殊な欲求は、電気自動車など他の手段では満たされないが、そもそもこのような欲求を持っていること自体が正当化できるものではないかもしれない。

以上より、pro tantoに悪い行為を悪いと知った上で続けられるか否かは、具体的な状況によって答えが変わるものだと推察される。

結語

結局、一番厄介なのはpro tantoに悪く、かつall things consideredで正当化される行為である。その状況では最適な行為をしたはずなのに、なぜか悪さが残っている。

このような、all things consideredでは正当化されるが、pro tantoで悪い行為が、私の人生には溢れている。そのような行為は、現場に立っている際には最適なのに、完全に正当化することができない。私が過去にした行為や、これからするべき行為について悩むとき、その行為の多くは、all things consideredで正当化されるが、pro tantoには悪いようなものである可能性が高いのかもしれない。




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senry
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