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神の前に立たされて

雨の朝、半分目覚めて、うつらうつらと微睡んでいる。眠っている時間は思考も停止しているのだろうか、 何も考えないでいられたら、どんなにか良いだろう、心は空っぽにできても頭は何某か考えてしまうものね。嗚呼、脳内でことばが蠢きはじめている、昨夜の続きを忘れてはいない。枕元には読み止しの『石原吉郎詩文集』がひろげられたままだ。

無益な思いわずらいから、弱り切っている頭を解放してやらなければならない。考えなければならないことが実に多いのに、そのための余力というものが、私にはほとんど残されていないのだ。(一九五六年から一九五八年までのノートから)

午後からCTの検査予約を入れていた。仕方なく寝間を離れ、身支度をはじめる。静脈に造影剤が流し込まれ、まるで虫が這い上がってくるような気持ち悪さが不安を募らせる。全身がとても熱い。病理の中に身を置くようになってからは、随分と気弱になったものだ。とうとう、この朽ちゆく肉体を受け入れねばならないのかと残りの日々を考える。死が遠くにあったとき、内なる人のことなど顧みることはなかった。あしたは輝きに満ち、胸には希望が宿っていた。

雑踏のなかにあって我を忘れているとき、せわしなく雑多な仕事に追われて、自分をうしなっているとき、ふと我にかえって、我とわが身につぶやく。「俺はいまどこにいるのだ。」そうして、結局、私が神の前にいること、それ以外のいかなる場所に立っているのでもないこと、そうして、私が実に立たされていること、ゆるされてそこに立たされていることを、愕然たる思いで知ることこそ重要なのだ。それは、ほっとするような安らかなことであるとともに、おそるべきことでもある。(一九五六年から一九五八年までのノートから)

幻の中で神殿に満ちる主の衣のすそを見たイザヤは非常に怖れて、みずからを「汚れたくちびるの者だ、滅びるばかりだ」と言った。圧倒的な聖さに触れたとき、人は何を思うのか?どんな言葉が口をつくのか?「あなたの悪は除かれ、罪は赦された」セラピムのひとりが祭壇で燃える炭を火ばしで挟み、イザヤのくちびるに触れてそう宣言する。離れていると慈しみを乞う存在として仰ぐことができる方、しかしながら期せずしてその方の息遣いや感触に手が届く、そんな日が来れば怖ろしくて立っていられないだろう。深夜、あるいは明け方、誰かに呼ばれているように目が醒めることがある。音もなく寝静まった街を見下ろし、雲間に月明りの影をあおぎ、部屋の中を歩きまわる。祈るよう促されている、胸に語りかけてくる小さな声を聞いて、椅子に座り手をあわせ目を閉じる、確かにわたしは神の前にいる、静寂の中に彼を知ろうとしている。彼と格闘し、くらいつき、負かされ、降伏する。I surrender all.

ヨブは主に答えて言った、「わたしはまことに卑しい者です、なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです」「みずから悟らない事を言い、知らない測り難い事を述べました」と。わたし―自分の内側に目をやってみても、何ひとつ誇りうるものが見当たらない。労した事が何になろう、成した事は実を結んだのか、水一杯差し出せたろうか、風が吹けば、わたしの魂などもみ殻のように飛ばされるだろう。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」姦淫をしている場で捕らえられた女に対する処罰を試みられたイエスが言ったことばだ。結局、年寄りからはじめて皆その場から立ち去ったという記事(ヨハネ福音書8)に、軽々しく誹謗中傷をSNSにあげる人たちのことを思った。当事者ならともかく加害者に対して残忍な報復の必要を平気で口にする人がいる。人間はおそろしく卑しい生きものです。年齢を重ねていく中で、それを認めることができる人は、なんと幸いだろう。いま、神の前に立たされて、こころの内を深く探られている―これが最後の恩寵、あわれみかもしれない。

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