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「生活思創」を試考する<終編>見通しの良さが評価軸

◾️生活思創の目的について

今回が「生活思創」の試考の最終回。前回、生活の慌ただしさの中にある「見通しの良さ」に貢献するなら、それって目的として掲げられるかもしれないな、なんて書きました。

また、このシリーズの第一回には、現時点での「生活思創」の定義、なんて目的らしきことも書きました。

「生活思創」とは、日々の生活に立ち止まって、もう一つの新しい生活の眺めを創る表現活動。

・日常の体験を引き伸ばしたテーマ
・実証ではないが、理念でもない中庸な構成
・試す体験ができる結晶化した提案

第一回からの再掲

そんなこんなで前編ー中編ー後編と3回も書き綴ってみると、もう少し、定義を結晶化できそうな気がするのです。そもそも、小生は差積化(させきか)で遠くまで行こうとするタイプなので、朝令暮改ほどではないですが、春令冬改(しゅんれい・とうかい?)ぐらいのまったりとした変化累積を信条としております。 
 しかし、本当に遅筆なので、書籍を仕上げるのが辛い(苦笑

本題です。「生活思創」の役割をもう少し明確に書き込み、それを定義にしたいなというのが今回の主旨です。そこでの手掛かりは「見通しの良さ」という視点ワードです。これはライト・ミルズの著作『社会学的想像力』に出てきます。テリトリーが細かく分かれる社会学の中で、カテゴリーを越境する視点という意味合いとして解釈します。(もっと多義な気がするけど、ここではそう解釈してます)
  カテゴリー越境はいいとしても、どうやって良し悪しを測っていくのかが曖昧です。カテゴリー境界内の物差しは比較的しっかりしています。社会学の中ならアカデミックな視点でカチッとした語りができるでしょう。しかし、社会学が政治学やら経済学、果ては医学や科学までも網羅して語ろうとする時、まさに社会的想像力が求められるですけど、どうやってその越境した視点での語りを評価したものか、かなり怪しい。ここに「見通しの良さ」は登場します。怪しさは変わらなくても、精神衛生上はかなり改善できているという実感値、とでも申しましょうか、「見通しの良さ」には越境への肯定感がみなぎっています

さて、「見通しの良さ」とはどのあたりに使いたいワードなのかの説明から入ります。

再掲 図表49

生活思創の全体領域として四方に敷設したのが再掲:図表49です。
中央から四方に矢印が向かっています。日々の生活への試考を拡張するイメージです。今度は逆に、この範囲に「見通しの良さ」を被せてます。図表57では、四方から矢印が中央にやってきます。


図表57


生活思創の4つの視点で起きていて欲しいことが、真ん中の「見通しの良さ」を説明してくれます。「見通しの良さ」は字義の意味を反映したアイコンとして、山登りでの視界の開け具合をメタファーにしてみました。

 ・言語学視点では記号接地が生活思創のコア要素になります。実生活での切実さです。「家庭が思ったように回らない」と感じさせる生活での不条理さです。ここでは生活思創が試考しながら目指す「見通しの良さ」には「人がいる感じがする」ことが必須条件なります。一言で言うと「気配がある」です。よって、単独登山は生活思創の範囲外になります。

社会学視点では、周囲の環境との呼吸を大切にします。生活思創で越境するとは、地元の公共活動や、関わりのある社会制度なども語っていくことになります。そこに実生活との折り合いを模索します。すると、「見通しの良さ」は社会の変わり方や、公共活動の抱える課題など、広めの話を取り込んでいるかどうかが重要になります。境界は細胞膜のように呼吸できるように扱いたいのです。一言にすると「道が続く」感じです。

・数学的視点では、ありえる整理の仕方を追求します。数学的証明には程遠くても、対称性を強く意識することで、「あるある」感を極大化させます。圏論をメタファーの整理学として活用しています。ここでの良し悪しは、より「空が明るい」世界に連れて行ってくれる気分かどうかになります。未知のキーワードが光をくれる感じの有無です。

哲学的視点では、生活での不合理をどこまで言語で解像していけるかどうかがポイントになります。特に分解するときは相補性を大切にます。同じ言葉が別の言葉に置き換わるのではなく、何か主要な単語の対立構造(不合理の源泉)が表現できればいいなあ、そう思ってます。
 これによって、語れそうな起点が増えて、「足元が硬く」なってくれます。周囲を見渡せる気分になれば、自ずから「見通しも良く」なると期待できます。


◾️生活思創の見通しが良さを循環図にしてみた

「見通しの良さ」は「はい!これでおしまい」という句読点ではないのです。むしろ、生活思創が最も対峙するのが生活信念の固化です。たぶん、万物流転に感しては共通の同意をもらえると思います。ならば、生活信念が変化しないのはマズイ現象といえます。どこかで、環境変化との反故をきたすからです。どんな老舗の人気ラーメン屋も、時代に合わせて少しずつ味を変えています「この店は相変わらずウマイね」と言われるためにです。

「見通しの良さ」を循環図(図表58)に転換して思考してみました。比較対象があるとわかりやすくなるので「見通しのなさ」が相対(図表59)します。

図表58

まず、図表58。「見通しの良さ」を経由しながら変化していく信念の循環図です。中央にある新しい生活選択は、成功体験=生活信念に沿っているもの、失敗体験=生活信念に反するものに分かれます。ちなみに、どちらでもない体験は、基本的には生活信念に反してない限り、今の生活信念を肯定します。成功は生活信念の良さが確信されます。

ここからがポイントなのですが、成功体験への確信も、山の途中でもう一度、生活信念の見通しの良さを感じるだけのものです。表現は難しいのですが「悪くない」感じでありながら、「まだ先があるから、次に淡々と向かっていこう」という気分ですかね。清々しさを感じますが、そこは固執する場所ではないことも感じています。
 また、失敗への反省も余裕が持てます。判断を保留できる「おだやかさ」があるのです。ネガティブ・ケイパビリティと言い換えてもいいでしょう。「ふーん、まずはこんな感じなのね」みたいな。


図表59

対比した図表59は、生活信念が「見通しのなさ」でできている場合です。遠くが見えない、遠くを見ようとしない、遠くを見たくない、いきさつはどうであれ、近くの状況のみで生活選択の良し悪しを判断します。同じような選択をした他者や、従来から流布されている定説との比較で成功・失敗の判断を下します。
 比較という行為が簡単な分、判断への反応もシンプルです。成功は単純に良いもの=優越感、失敗は同様に悪いもの=劣等感になりやすいのですね。「みんなが良いと言っているものを達成できたから、成功」→今までの生活信念のそのまま、「自分たちだけがうまくいかなかったら、失敗」→今までの生活信念はそのまま。
 両者は分離して扱われます。ケース別にベスト・プラクティスだけを集めることになり、生活信念はバラバラに分離していきます。ますます生活選択は、案件ごとの一貫性のないものになり、都度の「みんながどうしているか?」だけが頼りとなります。

◾️小生の場合でみてみましょう。

長女の不登校のケースを眺めます。「小学校に通うことが普通であり、不登校は世間から逸脱している。だから、娘は小学校に行くべきで、家庭が落ち着くためには、早く元に戻るようにすることだ」。この時点では、「見通しのなさ」にある生活信念からの発想だったとは思いませんでした。当然でしょう!、ぐらいに思ってました。
 しかし、この生活信念は小生が自身の生き方から持論としたものでもなんでもなかったのです。「みんなそうしてるじゃん、だから、そうしなければまずいでしょ」といった周囲からの刷り込みで固化した信念なのでした。
 当然のことながら、従来の生活信念に照らし合わせるなら親も、親から見た子供もにとっても不登校は失敗体験です。こうなると生活信念は分離し始めます。学校の勉強についていかなきゃとか、進学先を考えなきゃ、みたいな「見通しのなさ」を個別にカバーしようとします。

まあ、そうこうして、図表58に移行するわけですが、簡単ではありません。そこには「見通しのなさ」を「見通しの良さ」にまで切り替える葛藤があるわけです。

トレッキングする山のルートを変更するので、地図も新たに入手せねばならん状況とでも言いましょうか。

 小生のケースの話を続けます。長女が市の運営するフリースクールに通い始めると、子供の表情が劇的に好転するんですな。いままで子供の表情を見ていなかったことに、自分が気付かされるわけです。すると、こちらも気分が変わります。もう「清々しい」としか形容できないのですが、不登校であることから別の意味深い選択があることが確信できるんですね。周囲に同調していた借り物の生活信念が、徐々にですが、「見通しの良さ」を持った新しい生活信念「生き生きして毎日を過ごすために生活を選択していく」に変容するのでした。
 もちろん、この過程にも失敗体験はいくつもあります。算数は父と一緒に独学して小学校の6年分ぐらいはキャッチアップしよう!なんてやってみたのですが、面倒くさがる娘の不遜な態度にあっさり挫折。トドメは「30分の間に10問解くって、そういうのって何の意味があるの?」と詰問されて、父は答えられず。確かに、そんな場面は娑婆じゃあ見たことないぞ、となって納得。ここでの気分は不快でも敗北感でもないく、むしろ、気分は「穏やかさ」なのだった。信念が心から綺麗に剥がれる瞬間。
 一旦、「見通しの良さ」循環図に入ったら、もう、「見通しのなさ」には戻れません。戻りたくないし、戻る必要もない。古い生活信念から逸脱した家族の言動が、小生に新たな生活信念への創造を促すようになるなら、日常生活は自然と「見通しの良い」ものへと向かうのです。


◾️「見通しの良さ」のまとめ。「見通しのなさ」との対比表から

今度は、「生活思創の良し悪し」→「見通しの良さ・見通しのなさ」まできたので、その先にありそうな話まで押し込んでみます。

図表60

「見通しの良さ」が生活思創の出来・不出来の目安になるのですが、図表60にある生活感情センサーが意味するのは、それが理屈によるチェックではないと言うことです。感情によるゲートがあって「清々しさ」と「穏やかさ」はその主たる気分ワード(※1)だと考えます(感じます、かな?)。

図表61

 もちろん、生活思創はギリギリ理性的であろうとしてますが、ジャッジは感情によってしていくのが本筋だと考えます(感じます、かも?)
周囲が作る生活信念は量的なもので定説とされます。みんな=十分なN数。
 個人や1家庭がその固定的な生活信念から抜け出すなら、最初からN=1で組み立てねばなりません。理を立てても、そこには優劣を参照するものはないのです。しかし、感情に頼ることはできます。ただ、「こまやかさ」が必要になります。(※2)清々(すがすが)しさと清々(せいせい)したは微妙ですけど、決定的に違います。そう、集団や他者との比較で起きる感情(優越感とか劣等感とか)との違いを峻別する意識が「こまやかさ」です。結構デリケートなのは、みんな=Nでできた定説は強力な先入観となって、孤立無援なN=1の仮説が持つ感情のニュアンスなんぞ、「お前だけだぞ、そんなことほざくのは」の勢いで吹き飛ばそうとしますからね。

(※1)(※2)「清々しさ」、「こまやかさ」、は「生きがいについて」(神谷美恵子)を参照しております。そこでは、生きがい感に伴う感情を表現しています。もう一つの「おだやかさ」は小生の補足です。「清々しさ」だけではニュアンスがやや伝わらないため、補足して使ってます。


◾️生活思創の役割(現時点での見通し)

最後の〆の図表です。
 生活思創は書き続けているうちに気づきが起きて、気づきを図解化していく中で、言葉が結晶化してきます。「生活思創を試考する」の暫定的な気づきの結晶が図表61になります。

図表61

(1)個人の人生目的からスタートして、それをサポートし合う場が(2)家庭生活の目的となり、(3)生活思創の役割が決まる、という流れを想定しています。生活思創単体では、何一つ方針を決定できないのですが、その大元はやはり個人の人生の目的をどうとらえるかという、一人の人生観に準拠するのではないか。

 図表61の中身では、ヴィクトール・E・フランクル(Viktor Emil Frankl)の「人生の目的は生きる意味を見つけること」と神谷美恵子(Mieko Kamiya)の「人は生きがいと張り合いを希求する」が(1)個人の部分にはいっています。
 ヴィクトール・E・フランクル(Viktor Emil Frankl)は強制収容所の体験があり、神谷美恵子はハンセン病療養所での調査が原風景にある言葉なので、起点としては十分なものかと思って入れています。もちろん、あくまでも試考のための参照です。誰もが、この(1)空欄に「何が入るのだろうか?」と、もがき続けるのが人生なのだろうから・・・遠い目w。
 ちなみに、フランクルの「生きる意味」の解像度を神谷美津子が「生きがい」と「はりあい」という相補性を感じさせる展開にしているのも気に入ってます。生活思創のアプローチの一つである分析生活ですからね、「見通しの良さ」を感じます。
 すると、(2)の家庭の目的は、個人の生きる目的の相互のサポートの場になりそうです。それが何かを特定するには、家族間でのたくさんの観察と対話と葛藤が必要ですけど。
 そして、(3)生活思創は「それが何か」(ここでは参照なので、抽象度の高い「生きがい」と「はりあい」が探求テーマだが)を探求して、生活方針に組み込むことを役割とする、と定義しておきます。

暫定とは言うものの、少しは見通しは良さそうだw




「生活思創を試考する」はこれで区切りをつけます。
シーズン3に入っていけたらなと思っておりますが、どうなることやら。

Go with the flow.








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